軍主として戦争に勝ち、英雄となった少年には弱点という弱点がなかった。
男たちは必死に英雄の弱点を探ろうと日々奔走に費やしたが、けれどどれもこれも決定的打破となるものはなく。
ユンファとしても隠そうとしているわけではないが、人の一枚も二枚も上をいく英雄は相手に手の内を曝け出すほど馬鹿ではない。
適当にあしらいつつあまりにしつこい奴にはこっそりと闇討ちするあたり、やっぱり英雄は他の人間よりも器用な生き方をしていると言ってもいいだろう。
「さあみんな、今日もガサ入れだ!」
必死半分、面白半分の面々が広間で騒ぎまわる中。
(―…バカらしい…)
石版に背を預けて目を伏せているルックただひとりが、ユンファの苦手なものを知っているとは誰も気付くはずがなかった。
影響される孤独な英雄
ルックはその日とにかく苛ついていた。
理由なんて本人が聞きたいほどだ。訳もわからず、とにかくルックは腹が立って仕方がなかった。
「…ルック、なんか怒ってる?」
「別に」
隣を歩くフッチが気になって恐る恐る問いかけてはみたが、間髪入れずのルックの答えは一刀両断、明らかな不機嫌度だった。
しかもかなりトゲトゲさ、これはかなり本気で怒っているなとフッチは思わず気が重たくなる。
これで本人に自覚がないのだからフッチは不思議でたまらなかった。
「そんなに気に入らなかったの?」
「うるさいな。なんでもないって言ってるだろ」
(……傍から見れば丸わかりなんだけど…)
翡翠の瞳が怒りに燃え据わり始めたので、フッチはそれ以上命知らずの追求はせずに一分でも早くレストランに着くことを望んだ。
ルックが不機嫌な理由――説明は簡単である。目撃してしまったのだ。英雄、ユンファ・マクドールが告白される現場を。
人気があるのは知ってはいたが、想いを抱くのと告げる数が同位なわけではない。偶然その現場を目撃してしまったフッチは、「しまった!」と懸念を抱きすぐさま隣の人物を連れて方向転換をしようとしたが、
さすがに色恋沙汰に疎いルックであっても「好きです!」と頬を染めた女の子が想いを告げている場面であっては何をしているかわからないほど子供でもない。
しっかりと状況を把握したルックの温度はそれは見事に急激に下がった。
フッチはこんな誰が通るかもわからない廊下で告白する少女をちょっと恨み、こんなときにルックと食事の約束をしていた自分の運の悪さに泣きたくなった。
くるりと角を曲がる前に、ルックが目を細めて赤い背中を睨むその色。どう見てもそれは明らかな嫉妬だ。
ルックは告白を受けているユンファが気に入らない。
それは誰が見たって一目瞭然なのに、賢明な魔法兵団長殿にとっては上手く処理できない未知なる世界のことなのだ。
やっとこさレストランに着いて、フッチはとりあえずホッと胸を撫で下ろした。ルックの理不尽な怒りは相変わらずではあるが、少しは落ち着きを取り戻しつつある。
これなら何か違う話題で話しかけていればなんとかなるだろうとフッチは一抹の希望を抱きながら空いている席を探し――、
そしてガックリと肩を落とした。
ちょうどひとつだけ空いている空席の斜め後ろ、かたいパンを千切って食べているシーナの向かい席には、赤い服と深緑のバンダナというどちらも原色色を纏った渦中の人物がそこにはいたからだ。
迷惑に通行場所のど真ん中で告白を受けていたものだからルックとフッチは仕方なく―そのまま突っ切るのも怖かったから―遠回りしてきたのだけれど、それにしてもユンファの戻りの早さに正直フッチは地団駄を踏みたくなる。
察するにあの後すぐに断ってきたのだろう、それもきっと余韻もなくスッパリと。この早さだからそうに違いない。
けれどルックにしてみればそんなことは全く関係のないことだった。
受ける受けないではなくルックが苛立っているのはユンファが告白を受けているという事実――すべての矛先はユンファ=マクドール自身。
落ち着いてきたはずの隣から一瞬にして冷たい空気と黒いギスギスしたものが突き刺さってきて、フッチはちょっと泣きたくなった。
けどルックのことは好きだし、これでもふたりの仲を応援しているのだ。
ここは自分が気丈でいなければとフッチは深く深呼吸をした。気持ちはちょっと戦争のときの臨場感にも似ていた。
よしと人知れず拳を握りしめ、フッチは繰り出す。
「ルック、あそこに座ろうか」
「………………」
周りを見渡したルックは、他に空いている席がないと知ると浅い息を吐き、不本意と言わんばかりに渋々フッチの言葉に従う。
本当に顔も見たくないという場合、ルックは人との付き合いさえ蹴飛ばして自分の感情に素直に従う。
だからまだここにいるということはユンファが早く戻ってきていることに少しは気をよくしているのかもしれない。
冷静沈着、いつもさらりとかわしつつ大人顔負けの論破を述べるルックだけれど、恋愛は相手の一挙一動で浮いたり沈んだり結構人を単純にしたりするものだ。………。本人はその根付いている想いに気付いていないが。
可愛いなあと、口に出したら切り裂かれてあの英雄から百年の呪いを買いそうな言葉を、フッチは心の中で呟いた。
ガタリと席に座り注文を済ませると、向こう席のシーナと目が合った。ルックは向かい席だから気付かない。
シーナは「大変だな」とでも言うかのように軽く肩を竦めてみせた。
気配に敏いトランの英雄のことだ、背を向けていたがきっとルックにあの現場を見られたことはわかっているのだろう。
フッチは苦笑を返事としてシーナへ送った。
――それからしばらく時間が経ち、
辺りは賑やかな食堂の雰囲気に包まれているのに、ユンファとシーナ、ルックとフッチのいる二席だけは常に異様な静けさを醸し出していた。
ユンファとシーナは時たまそう弾まない会話を交わし、すこぶる機嫌の悪いルックへフッチは懸命に話題を持ちかけたが、ルックからは気のない相槌か棘のある返事しかなく。ついに話題の尽きたフッチの口からは最早ブライトの育児話しか
出なくなっていた。限界である。
―とそんなとき、きゃっきゃと甲高い騒がしい声が聞こえてフッチが振り返ると、
ちょうどメグやテンガアールといった女の子たちがレストランへと入ってきたところだった。
その明るさでここの空気も入れ替えてくれないだろうか。
相変わらず元気だなあとフッチは暢気に構え、ピラフを一口パクリと口に入れて
「――で、その子が今日告白したんだって!」
「え、すごい! マクドールさんに言うなんて勇気ある!」
「―っ!」
ごほっと危うく噴出しそうになった。
もろに地雷である。
咽返りゴホゴホと咳き込みながらフッチは涙目で水を飲む。向かいのルックはそれはもう恐ろしいほど勢いよく真っ赤なトマトへフォークを突き立てた。
勘弁してよと心中で呻きながら、今日のフッチはとことん運が向いていないようだ。
油を注いでくれた女の子たちはレストランでは珍しいルックの姿を見つけてやって来た。
「あ、ルック! 珍しいね、今日はここでお昼なの?」
「うるさいよ」
「あー、いっつもそういう態度をとるんだから」
「あれ? 今日はブライト一緒じゃないの?」
「今は部屋で寝てるんだ」
冷や汗を掻きつつフッチは笑顔で応答する。
『どうかこれ以上は地雷を踏まないで』と切に願うが、どうしてか勘の鋭い女の子たちはこういうときに限って嫌がらせかと思うくらい的確に爆弾を投下してくれたりするものである―それとも逆にそれを勘が鋭いというのだろうか―。
「ねえルック。今日マクドールさんが告白されたの知ってる?」
「…知るわけないだろそんなこと。僕には関係のない話だよ」
「つれないなールックは。好きな人とかいないの?」
「いない」
「あ、あのさ、」
今のルックに英雄の名前は禁句事項、恋愛云々は触れてはいけない領域だ。
雲行きがだんだん怪しくなってきたので、フッチはそれとなく話題を変えようとする。が―、
「じゃあルックはどんな人がタイプなの?」
思ってもいない唐突な質問が飛び交った。
それに斜め後ろ席のユンファがぴくりと反応したのを、コップを傾けつつシーナがちゃっかりと確認する。
行き詰まる中、頬杖をついたルックはしばらく考える素振りを見せてサラダの上に飾り付けられた物をじっと見つめ――、
皺くちゃの干しぶどうを手に取った。
「そうだね」
摘んだ干しぶどうを目の高さまで上げて、ルックは瞳に冷たい炎を宿らしながら目を細めてそれを睨み。
視線だけ一瞬背後の英雄へと向け………、
「僕は干しぶどうが好物の人が好きだよ」
ゴンッ
爆弾よりも強烈に抉るナイフを投下する。
「……。どうしたんだ…?」
シーナの覗き込む先、こっそりと聞き耳を立てていた英雄は盛大に頭を机に打ち付けて沈んでいた。
いつもなら考えられない行動にシーナやフッチ、メグたちまでもが不思議そうにユンファへ視線を向ける。
その音と行動を背中から感じ取りながら、ルックは満足そうに澄ました顔で干しぶどうを口に入れた。
その夜、ユンファの姿は人居らずの屋上にあった。
昼間の騒動、楽観的に捉えるのなら告白の現場を見るぐらいで苛立ち、わざわざ人の嫌いなものを例えに出すほどだからあれはそれだけルックに意識されていると思ってもいいだろう。
けれど如何せん今のユンファにはそんな前向きに考えるほどの余裕がなかった。
――干しぶどうが嫌いな自分…それを知っているルック。
誰も気付いてはいなかったがあれでは遠回しに自分が嫌いだとルックに言われたようなものである。
「あーあ、くそ…」
がしがしと頭を掻いてユンファは呻いた。
こんな例えに出されるのなら、あの時ルックに干しぶどうのことを教えるんじゃなかったと、今更の後悔が過ぎる。
昼間の少女にはきっぱりと断ったし、浮気をしたわけでもないのにとやるせない思いを抱きつつ、ユンファはちらりと隣に置いた物へと目をやった。
閉まる間近にこっそり食堂から拝借してきた干しぶどう。
それをひとつ掴み、ユンファはまるで親の敵のように半眼でそれと向き合った。
ゆっくりと口へと運び、意を決してぱくりと口へ放り込む。
けれど約一分弱、何度かそれを噛み締め戦ってみたユンファだが、途中から動きを止めたと思うと顔を歪めてそれを吐き出した。情けないと言えばそれまでである。
しかし独特な味と触感、口の中にそれがあるという時点で半ばコンプレックスのように身体は拒否反応を示すのだ。好物とまではいかないが普通に食べれるようになるまではほど遠い道のり。
ユンファはもうひとつ掴んで今度はヤケクソのように口へと入れて噛まずに呑み込んだ。
喉を通り胃には入ったが、急に気持ち悪くなって置いてあった水をがぶ飲みする。
気孔に入ってげほげほとユンファは咽た。
どう考えても強敵すぎる。
「………いつかショック死しそうだ」
けれど頭の中にあるあの魔法使いの存在。
これから数日間、夜の屋上ではユンファの孤独な戦いが続くことになるのは誰も知らない。