眠ってしまっても、まだこの声が届けばいいとか、


例えば、そんな風に


夕闇演



げほげほげほと苦しげに咳き込む音が部屋の中に響く。
寝台の上で完全に臥せったルックは咳きと荒い息遣いを繰り返していて、ユンファは傍の椅子に座って額のタオルを取り替えたりその汗を拭ってやったりと、割合甲斐甲斐しくその世話に当たっていた。
雪白のように白い肌が、ほんわりと赤い。
苦しそうに息吐くルックを見て、ユンファは眉を寄せて呆れたような少し怒ったような溜息を吐いた。

「だから冬に徹夜はやめとけって言ったんだ。ただでさえ立て付けの悪い村宿なんだから、暖炉に火を焼べても隙間風が入りやすくて寒いってわかってただろ」
「…げほ。だって、」
「だってずっと探してた魔道書が手に入ったから? しかも初版? だからってうかれて風邪ひいちゃ世話ねえな」
「……、るさい」

病人に対してもずずけずけと言ってくる彼に対し、ルックは己に非があると承知しつつもさすがは天邪鬼といったところか、こんなときでもしっかりと悪態つこうとする。
けれど突然の粘膜の痛みにルックは口を開けた瞬間眉を顰めて盛大に咳き込んだ。
椅子から腰を持ち上げて、反射的に丸めた背中をユンファが優しく擦る。

「ほら、もういいからゆっくり休め」
「げほげほっ。…あ、んたが」
「はいはい。話しかけたのは俺のせい、でも原因はルック。大丈夫か?」

長く続いた咳きが漸く収まりを見せると、ユンファはルックの体を仰向けへと戻し汗でへばり付いた髪を梳いてやった。
気持ちいいのかやっと咳きが止まって安心したのか、ルックがほっと熱い息をつく。
上から覆いかぶさるように黒の双眸でじっと見つめても、ルックの意識はぼんやりとしているようだった。

白い肌に浮かんだほんわかとした赤味。咳がよっぽど苦しかったのだろう生理的に浮かんだ涙、いつもの凛とした相貌を崩し翡翠の瞳が潤んでいる。吐く息が熱い。髪が少々乱れていて、
――こんな時でも綺麗だ、というか、

髪を梳きながら、ユンファ。

「なんか色っぽ、」
「…え? なに…?」
「…………いや」

ぼんやりとルックが問い返す。
流石にその姿が夜云々を思わすだとかそんなことは口が裂けても言えないことであって、いやしかし。
病人である。

一度目線を外してユンファは小さく小さく息を吐くと、ずれた布団を直して額に手を当てた。
普段が低いだけにその熱はえらく熱いように感じられたが、寒さからきた風邪なので温かくしていれば多分大丈夫だろう。

「薬もらって来ようか?」
「…ん、いらない」

ルックがぼんやりとした頭で首を振る。
意外に甘味好きのルックは逆に辛味や苦味が苦手であった為、そう答えるだろうなというのはユンファの予想通りだった。
なのでなんでもないことのように言う。

「口移しで薬飲む?」
「…………、」

意味をしっかり理解するのに約30秒というところか。ルックは心底呆れた目をした。

「………馬鹿じゃない? 風邪、うつるよ?」
「俺はそこまで柔じゃないぞ。それにルックから貰うものだったらなんでもいいし」
「…………馬鹿につける薬はないんだけど」

ルックははあと熱い息を吐く。それでも除く耳だとかがやんわりと赤い。体調によるものとは違う色味で、ユンファはそっと気付かれないように笑った。
何というのかそういう些細なことが愛おしい。


喋り疲れたのかルックの目がとろんとしてきたので、ユンファはぽんぽんと布団の上から眠りを促すように柔らかい合図を送った。
これらのユンファの言動は、言うなればすべてグレミオからきている。故に少々必要以上に甘やかしてしまう体勢が入ってしまうのだが、けれどこうやって優しく単調に送られるリズムがとても安心できるのだと、ユンファは知っていた。
まだ小さな時に風邪をひいたのを思い出す。グレミオはおろおろと水の入った桶を持って家の中を駈けずり回ったり、熱があると分かると家を飛び出して医者を引きずるように連れて来たこともあった。心配が輪にかけていつも以上にひどくて、その取り乱し様に幼心で逆にグレミオの心配をしたこともあったほどだ。
今思い出しても、やっぱりあの時のグレミオはちょっと笑える。
けれど熱さと苦しさで寝付けない時、不安で眠れない夜、グレミオはずるずると布団を持ってきては一晩中付き添ってくれた。
今のルックと同じようにぽんぽんと優しく促されて、そのままぽとりと夢に包まれたことも何度もあった。
安心した。大丈夫と言われたみたいで、嬉しかったのを覚えている。

「……………」

ふと見ると、ルックはいつの間にかことんと眠りに落ちていた。
風邪をひいているのだからいつものように幼く見える寝顔ではなく、眉を顰めて少し苦しそうにしているのだけれどそれでも起きる気配なく眠っている。

(きっとルックはこういう安堵を知らない)

こんな動作ひとつでひどく安心する、嬉しく思うことを、きっと。
あの離島で暮らす魔女は愛情を表に出すタイプではないだろうし、ルックも彼女に甘えた覚えなどないだろう。
師弟揃って不器用なのだ。

額に手を当てると先ほどよりかは熱が引いていたから、これならきっと起きたときにはだいぶマシにはなっているだろうとユンファは安心した。
髪を梳いて覗いた額へちゅっと口付けを送る。
きっといらないとか言うだろうけど、起きたら何か胃にやさしい物を食べさせないといけない。

ユンファはそっとルックの顔を覗き込んで起きる気配がないのを確認した。
寝台の端に腰掛けて、小さく唄を口ずさむ。
子守唄だった。ふわりとしたやわらかい調べをユンファは謡う。
幼い時、不安な夜、眠る間際にグレミオがしてくれていたことだ。
トランに伝わる唄だと言っていたから、覚えてはいないけれどもしかしたら昔母もこれを唄ってくれていたのかもしれない。
小さな頃に覚えた旋律をユンファはゆっくりと唄う。
唄は性に合わないし、起きている時は気恥ずかしいからこんなことはしない。
だからルックが寝ている時だけだ。
ユンファの唄はルックの起きる夕闇まで続けられた。