目覚めると、そこに男の姿はなかった。
ルックはぼんやりと重たい瞼を開けてそのことを確認すると、呆然とからっぽの傍らを凝視した。
――一瞬、夢が現実になったのかと思った。
途端ひやりとした冷たいものが背筋に落ちて。ルックは焦ったように飛び起きてその人物を探す。
けれど部屋に人影はない。
椅子に掛けてあった外套も、愛用の棍もそこにはなく、いつもは脱ぎ捨てて放ってある夜着さえも丁寧に畳まれて置いてあって。そんなことが、より暗い不安となって襲う。
(………置いていかれた――?)
くるりと部屋を見回したルックは最後に部屋の隅に置かれたふたり分の旅道具を見つけて、そこで漸くほっと胸を撫で下ろすことができた。
あの袋には着替えの一式や旅に必要な金が入っているから、さすがにそれを置いて行くことはないだろう。
ったく、とルックはひとつ息を吐いた。
「…どこに行ったんだ、あいつ…」
するりと寝台から下りると、ひとつだけ残った服の袖を通す。
妙に肌寒い朝で、冷たさはその服にも伝わっていた。
そして彼がいたであろう場所はもう温もりさえ残っていなくて、ただシーツの無機質な冷たさだけがそこにはあって。
鳥さえ鳴かない冬の朝だ。静かな朝。
動いているものも熱を持つものも自分ただひとりだけで、まるで世界に取り残されたような―――…
ふと、そんな在りもしない考えが過ぎる。
何故こうも彼がいなくなっただけで落ちついていられないのか。
どこか焦っている心。
これも夢のせいだとルックは舌打ちをして、不愉快に顔を歪めた。
すべては夢見が悪かったせいだ、あんな夢を見たから、だからこんな風に。
「バッカみたい」
眉を顰めて、大層不快そうに吐き出した言葉。
ルックはきゅっと靴紐を縛ると、屈めた身体を起こしてもう一度部屋を見渡した。
荷物はここにあるのだ。
子どもでも、心配してやるような輩でもない。
放っておけばいいのだ。寝台に残った温もりへと身を寄せて寝直してでもいれば、そのうち戻ってくる。
今度目を覚ませば、きっとこの目はその男の姿を捉える。
だから、大人しく待っていればいい―…。
(――待っていれば…)
でも、
もしかして、とけれど夢の棘は、そう簡単には外れはしない。
嫌そうに眉を寄せたルックは、紋章の気配を手繰り寄せて部屋を出た。
夢を見た。
暗闇に自分と彼だけがいる、そんな夢。
輪郭だけがぼんやりと淡く光っていて、ユンファはこちらに背を向けて立っていた。
何故か足が貼り付けられたみたいに一歩も動かなくて、ただその背中を見つめることしかできない。
声も発することの出来ない暗闇の中で、見つめる先、やがてコツリと。
彼が背を向けて歩き出す。
コツコツとその音だけが響き。
暗闇に溶けたその姿を、やがて捕らえられなくなった時。
あとに残ったのは、ぽつりと佇む自分と、ただ漠然と広がる、
セカイ。
ユンファはどこか遠くを見つめることが多かった。
何を見ているのか、何を思っているのか。ルックは知らないし知ろうとも思わない。
けれどどこを見ているとも知れぬその黒の双眸を見かける度、苦い蟠りが胸中を蠢く。
まるで切り離されたような、疎外感。
ルックはその時いつも感じるのだ。
この男はいつか遠くへ行くのだと。
今は互いに寄り添うような旅をしていても、きっとそのうちこの男はいなくなる。遠く見た世界を求めて、自分さえ置いて、その姿が見えなくなるほど、遠くへ。
あの夢のように行くのだろう。ルックはそう信じていた。
町の入り口にユンファの姿を見つけて、ルックは改めてそう思った。
こちらからその表情を見ることは出来ない。
距離にして10歩未満だ。けれどこの間には決して埋めることのできない亀裂がある。
ルックはその10歩の距離を歩くと、そっと手を伸ばしてユンファの背を押した。
とんっと弱く、けれど強く。
行きたいなら行けばいい。
そう、思う。
そんなに惑わすのなら、どこかへ行って、もう二度と現れるな。
ルックはそれを望んだ。けれど胸が痛かった。
「ルック?」
背中を押されたけれど一歩もそこから動かなかったユンファは、振り向いてどうした? と声を掛けた。
ルックは俯いていて、さらりとした髪が表情を覆い隠している。
薄茶の髪を耳へと掻き上げユンファは冷たい頬へ触れた。
手袋をしていない手は直にその冷たさを感じ取る。
その手に促されるように顔を上げて、ねえ、と抑揚のない声でルックが呟いた。
「キミはどこかへ行く時が来たら、何もかもを置いてひとり行くんだろうね」
安易に自分のことも含めて、ルックは言う。
まだ誰の声も聞こえない静かな早朝で、けれどその静けさには溶けることのない吐き出された言葉を、ユンファは一言も逃さないように聞き取った。
「そうだな」
ユンファの冷えた手が冷たい頬をするりと撫でる。
「そうなったら俺は行くかもしれない」
「………」
…氷のナイフで、突き刺されたと思った。
ずっと胸のうちに秘めていた問いに返された言葉に、聞きたくないと思いながらもしっかりと聞いてしまったルックは己の中で何かが壊れたのを感じた。
あまりに思いがけない言葉だった。
じわじわと蝕みが内に広まるにつれて、その時になってルックは自分がユンファに否と言ってもらうことを期待していたのに気付いた。
僅かばかりに瞠る新緑の瞳にその奥に燻す傷ついた色。けれどそれを悟らすことも表に出すこともなく。
けれど――――
「でも、ルックが寂しいと思うならどこにも行かない」
呆然としていた顔前に、さらりと優しく髪を梳かれ告げられた言葉。
ゆるりと見上げると、目を細めて穏やかに笑むユンファの顔があった。
一瞬何を言ったのかわからなくてついまじまじと見つめていると、意地悪そうな苦笑を浮べたユンファにぐいっと胸の中へと囚われる。
「俺はもうひとりでは行かない。いや、違うか。行けないんだ」
「……どうして…」
頭上から一言一言紡がれる言葉をルックは腕の中で鼓動の音と共に聞いた。
ユンファがルックの髪へ頬を寄せる。
「だって寂しいじゃないか。傍にいるって決めたのに」
「……僕は寂しくないよ」
精一杯の虚勢だと自分でもわかっていた。
言葉とは裏腹に、ルックは縋りつくようにユンファの服を握る。
ユンファが笑う気配がした。
「そうか? でも俺はルックがいないと寂しいけどな」
「…馬鹿だね」
「馬鹿でも何でもいいさ。ルックといるんだからな」
ぎゅっと、温もりを抱き締める腕に力を込めてふたりはそれに寄り添った。
もう寒さもない。
しばらくそうして温もりを分かち合いどちらともなく身体を離すと、ユンファがにやりと笑った。
「で、ルック。こんな朝早くになんでこんなところに来たんだ? 起こさないとずっと寝てる時もあるっていうのに。俺の姿がなくて寂しかったとか?」
「っ! そんなわけないだろ!」
顔に赤を走らせて激昂する姿に、ユンファはますます笑みを深めてくつくつと笑い出した。
ルックはそれに腹を立てずかずかと足を踏みしめて行ってしまう。
やっぱり何も心配することなどなかったではないか。
すたすたと早足で進めていた足並みを角を曲がったところで漸く戻し、ルックはふっと呟いた。
「バカみたい」
それは部屋で零したのと同じ言葉。けれどそこには冷たさも重さも途方さももうなかった。
ゆったりと広がる安堵感。
ふと笑みを零して、建前も屁理屈もなく心の中だけでルックは本音を漏らす。
安心した。
早々と去る背を見送り笑みを忍ばせたユンファは、あーあとまた口を緩めた。
「素直じゃないなあ」
少し前までは本音を言っても信じない、嘘だ、聞きたくないと散々と跳ね除けられたものだ。ユンファは思い返す。
その頃に比べるとだいぶ本音を受け入れられているけれど。
けれどまだ、伝えきれていないことも多いし、まだ信じられてないこともある。
あの弱くも付き離すように押された背中の感触はきっと何かの不安の象徴、無感情な声にどこか揺らぐ瞳とそんなの一目見たらわかった。
まったく、素直になれない天邪鬼なくせに本人に自覚がないだけで変なところが不器用なんだから。
目は口ほど物を言うとはよく言ったものだ。
ユンファは振り返るともう一度先ほど見ていた遠い地に目をやった。
この平野を越えた先には一体何が待っているのだろうか。
先の戦争以来ずっと放浪生活をしているユンファではあるが世界はずっとずっと広かった。
まだまだ歩ききれてはいない。
それをどうやって周ろうか、ルックと共に何をその目で見るのか。考えただけでうずうずした。
まだ見ぬ地を思うだけで心が躍った。
ルックは暑さが天敵だから、夏に熱帯地に行くと本気でへばる。冬の今なら南へ下ってもいいだろう。
そうやって相手のことを思いながらどこへ行くのか考えるのがユンファは気に入っていた。
ひとりで旅をしていた時にはそんなこと考えることがなかった。
なんだかそんなことが無償に嬉しかった。
「まだまだこれからだ」
もっと一緒に歩いて、世界を見て触れて、そしてもっと付き合っていこう。
その中で伝えたいことも伝え聞きたいことを聞けばいい。
皮肉にもそういう意味では自分たちにはたくさんの時間が有り余っている。
朝日が燦々と輝き始めたのに目を細めて、ユンファはルックが待っている部屋へと踵を返した。
「次は南へでも行こうか」とユンファが誘えば、ルックは「仕方ないね」とこれまた素直でない態度で、でも満更でもないように言葉を返す。
それが可笑しくてユンファは笑った。
******
ざくりと焼けた砂を踏むと靴底からその熱さが伝わった。
草も花も土もが焼け死んでいく感触。
ひどく、アツイ。
ルックはそれを無感動に見下ろし、やがてぽっかりと浮かぶ月へと視線を転じた。
夜間の風がざっと駆け抜け短くなった髪をさっと撫でていく。
もうあれから何年が経ったのだろうか。
それほど長い年月ではなかったように思うが、ルックはそれを曖昧にしか覚えていない。
記憶は断片的だ。ほつりほつりと思い出す。
「あの時、キミは一体何を見ていたんだろうね」
その中で最も鮮やかに色濃く残っている記憶の人物へ、ルックはゆっくりと問いかけた。
そう問いかけるのは記憶の中だ。
あの赤の胴着を纏い事ある事に己の名を呼んでいた彼は、もうここにはいない――――どこにも、いないのだ。
そういえばあの頃は男がひとりで何処かに行くのだろうと思っていたことを、ルックはふと思い出した。
確かに男は己の手も声も届かないところへいってしまったが―――――、けれどあの時考えていたのはこんなことではなかったはずだ。
どこか遠くへ駆け出し、知らないところで世界を回り、またどこかで暢気に釣りなどをしているのだろうと思っていた。
そう、思っていた。
どうやら焼きが回っていたようだとルックは自嘲を零す。
あの太陽のような輝きを持つ人間が世界からいなくなるなんて、信じて疑ったことがなかった。
いない今ならわかる。
それだけユンファは特別な人物だったのだ。
ルックは目を細めて遠くへ目を向けた。
こうしてもあの男と同じものは見えてこない。
ルックは知らないのだ。
ユンファが見ていたものはルックと共に歩くことを望んだ世界だと、
ルックは知らない。
ルックの目に映るのはこれから百万の命を奪い神に対抗すべく戦場である。
それだけが今はすべてだった。
「ルック様」
空間が歪み姿を現した愛娘が己の名を呼んだ。
ルックはそれに答え一度目を閉じると纏わり付く懐古を払い、ざくりと足を踏み出した。
キミの呼び声が聞こえることももうないだろう。
焼けた大地の上で生き残った野花をルックはぐしゃりと踏み潰した。
ウタカタ
あなたが見ていた世界も色も、あなたの呼び声も、
すべては消えてしまった。