春風のあたたかさ
平野を3人の少年が足を縺れさせながら走っている。横並びではなく雁が群れを成すようにVの字型で若草を踏みながら、少年たちは野うさぎのように息を切らしながら駆けた。
そして神木と言われている大木の下まで走ると、転がるように膝を付いて頭を下げる。
「お伝えします! つい先ほど白組が雨池を通過しました!」
「わかった」
息絶え絶えに状況を報告した伝令の少年たちに微笑み、指揮を取る男――といってもこちらも十代の少年なのだが――は後ろに控えていた赤組の兵たちに向かって声をきった。
「聞いた通りだ。相手は雨池に入った。雨池からは暫く平野が続く。奇襲は無理だが、広さを利用して取り囲むことが出来る」
練っていた作戦をもう一度口にし、指揮を執る少年は皆の姿を目のなかに映すようにゆっくりと見渡した。
底が見えない深い黒耀の瞳に見つめられ、兵たちの気は一気に高まる。戦いを間近にしてふつふつと沸き起こる高揚感に、頬を赤く染める者も居た。武者震いにぎゅっと拳を握りしめる者も居た。
それをしっかりと肌で感じとり、指揮官の少年が頷く。
「出陣だ」
少年の声に皆が閧の声を上げて駆け出した。
地面が唸る。
片膝を付いたまま伝令たちは地鳴りに胸を震わせながら指揮官の男に見惚れていた。
状況に応じて様々な作戦を立てることが出来る奇才さ、それを落ち着いた物腰で言葉にし、それを聞くだけで全く確証のない作戦も「大丈夫だ」という自信になる。
ずっしりとした言葉はまるで導火線に付ける火種だった。
その声を、その命令を聞くだけで胸の中でくすぶる何かが爆発する。
敵軍へと駆けて行った一隊を見送ると、ふと指揮官がこっちを向いて目の端を緩ませる。
「もう下っていい。走ってきて疲れただろう、さっきマチさんがお菓子を用意していると言っていたぞ」
「で、でもまだ、」
「絶対負けないから、心配するな」
そう言って笑われたら、少年たちはもう何も言えなかった。3人でどうしようと視線を交わし合っていたが、「ほら」と促されて渋々坂を転げるように村へと戻って行った。
春風が吹き指揮官のバンダナがバサバサと揺れた。どこまでも広がる青い空に指揮していた者――ユンファは目を細めた。そして背後に春風よりも冷やかな、けれどどこか温かい風を感じてバレないように口の端をそっと持ち上げる。
「ねえ、僕もそろそろ帰っていい?」
「まあそう言うなよ」
暫く大木の枝に座って成り行きを見ていたのは知っていたが、半刻ぶりに姿を見せたと思えば相変わらず来た時と変わらない台詞をルックは口にする。
彼らしいと言えば彼らしい台詞だ。その応答が可笑しくてユンファは笑いながら振り返る。
綺麗な魔術師はその整った眉を顰めて不機嫌そうだ。
いや、不機嫌というよりかは呆れ返っていると言ったほうが正しいかもしれない。普段必要最低限のことしか言わないその口から、ぽろぽろと嫌みが零れ落ちる。
「まったく、冗談じゃないね。いいものを見せてやるっていうから来てみれば、ただ平野にぽつりと村があるだけじゃないか。しかもアンタ何やってるわけ? 指揮官だって? いつからキミはこんなちっぽけな村の軍師になんかなったのさ」
棘のある言い方に我慢していたがとうとう耐えきれず、ユンファはそっぽを向いて肩を震わせて笑った。
急に笑いだしたユンファをルックが咎める。
「ねえ、アンタのことを言っているんだけど」
翡翠の目でルックがじろりとこっちを見る。
笑いをやっと納めて、ひらひらと手を振ってユンファは振り返った。
「ああ、わかっている、聞いてるさ。つまりルックは、俺がこんなところでくすぶっているのが嫌なんだろう?」
覗き込むように顔を近づけて言えば、ぽかんとして、次いで瞳を大きくしてルックは珍しく焦った顔をする。
なに馬鹿なことを言ってんのさ! と口では空呆けているが図星なのが丸わかりだ。声が上ずっている。
ルックはどこかユンファを光のように見ている節があるから、もっと大きな場所に立つべきだと思っているのかもしれない。
そんな大層な人間ではない、どこに居たって俺は俺だ。そう思う。けれど口調を荒げるほど考えてくれていると思うと、悪い気はしないから心地よさに任せてユンファは何も言わない。
ユンファがここで指揮をしているのは成り行きのようなものだった。
たまたまこの村に寄ると、万が一に備えて自分の村は自分で守れるように訓練しているのだということを聞き、興味本位に模擬練習に参加させてもらうことにしたのだ。
それがあれよあれよという間に指揮官をしてくださいという話になった。
急ぐ旅でもないからふたつ返事で3日間だけ受けるという話で纏まり今ユンファは赤組の指揮をしている。
「アンタが何をやりたいのか僕には理解不能だよ」
面白いものが見れるから来てみろと誘われたルックは、自分がここに呼ばれた意味が分からないと来た時からずっと腹立たしげに杖突いている。物事に理由がないと落ち着かないらしい。春の空を眺めて何も考えずにのんびりするということをルックは知らない。
ユンファはなだめるように言った。
「そう怒るなよ。少数だがこの村にも魔術を学んでいる隊があってさ、ルック先生のお力でも貸してもらおうかと思って」
「は? そんなどーでもいいことで僕を呼び出したの? 冗談じゃないよ、何かあったのかと思えばそんなこと。こっちは放浪中のアンタと違っていろいろと忙しいんだけど」
「それなら平気さ。俺がルックの代わりに盟主に休暇届けを出しておいた」
「は?!」
驚きで目を瞠るルックだが、隣に立つユンファはそ知らぬフリをして大木の下から遠くの戦況を見て「順調だなー」なんて言っている。
「君はなんでそういう勝手なことをするんだ?!」
毛を逆立てた猫のように激怒するルックに対し、しかしユンファは開き直っている。
「いいじゃないか。最近働き詰めだっただろう? 時には休暇が必要だ。それにアイツも笑って承諾してくれたぞ。まあ隣に居たシュウは何か言いたそうだったけどな」
「だからってねえ! ああもう本当に君は謎だよ! しかも事を欠いてなんで指揮官なのさ。君はあの戦いで、」
そこでハッとルックは言葉を切らせた。言ってはいけないことを言いかけてしまった。
君はあの戦いで多くのものを失くしたじゃないか、と。
ユンファが遠くを見つめてから、何も言わずそっと笑う。
失敗した。ルックは唇を噛んだ。
指揮官をしていると聞いてからどこかざわめいたものをルックは感じていた。それがぽろりと口から飛び出してしまったのだ。
解放戦争の頃、ユンファは軍師のマッシュをとても慕っていた。
いつかの折、指揮というものに興味が言っていたのをルックはよく覚えている。
暗い海を眺めながら、トラン湖に浮かぶ古城の屋上でユンファは笑ってそう言っていた。
戦いも佳境に入った頃だった。
この戦いが終わったらマッシュに教えてもらおうと思うんだと楽しそうに言っていた。
けれど、それもすべて血の運命に飲み込まれ消えた。マッシュは死んだ。
戦い、運命に押しつぶされそうになりながらも立ち続けたユンファの姿にルックは惹かれそんな姿をまた見たいとも思う反面、彼にはもう争いなど一切ない平穏も願っていた。
そんな彼が指揮官をやっているんだと聞いたルックは、いつかまた彼が戦火の中に飛び込んでしまいそうで気が気でなかった。
「ルックが心配するようなことは何もないよ」
何を根拠にしてか、けれど強くユンファが言葉を発した。
気にするなとルックに向けて笑い、ユンファは気丈に言う。
「確かにこうやって立っているとあの頃を思い出す。マッシュはこんな風に戦いを見ていたのか、ってな」
「………」
黙るルックをなだめるようにユンファがくすりと笑った。
でもそう知れて嬉しいよと言えば、ルックが驚いてこっちを見るから笑みを深くする。
言い聞かせるように、視線を合わせて大事なことだとユンファは頷いた。
「ルック。俺はあの戦いが嫌なことばかりだったとは思わない。多くのものを失った。得たものより手の中からボロボロと溢れ落ちたもののほうが遥かに多い」
「だったら」
「けど、大小関係じゃないんだよ。どちらが良かったなんてないんだ。この道を辿って得たものだってある」
はっきりと、口元に笑みを見せて言ったユンファの言葉が、ルックの中でふわりと春風のように優しく、けれど激しく凪いだ。
何故そのようなことが言えるのだろう。ルックには分からない。そしてそう断言出来る強さに眩しさを覚え、ルックはまた憧れを強める。
ユンファが肩を竦め話題を変えるように軽い口調で言った。
「でさ、こうやって立ってるとあの頃を思い出して、ルックを呼んだってわけだ」
「どういう意味?」
「ルックはいつもこうやって俺の傍に居たってことだよ」
ユンファが一歩二歩と歩を進め、木の陰から光の中へと踊り出た。
春の光に照らされキラキラと輝いている。眩しさに木陰にいるルックは目を眇める。
光の中で、ユンファはルックに向かって手を差し伸べた。
行こう。そんなたったひとつの言葉に高鳴る胸がある。
「アンタって結構楽天家だよね」
呆れた様をルックは装った。彼らしいと思って笑いそうになるのを止めるのに苦労した。
ユンファが不敵に笑う。
「知らないのか? 楽しんだほうが勝ちなんだ」
「そういうのが楽天的っていうんだよ」
「ルックは楽しくないのか?」
「まあアンタが居るから、暇はしないだろうね」
春の日差しが降り注ぐ中、ルックはユンファの手を取った。光の下に出ると一面に広がる青空が眩しくて、今日が晴れだということにルックは改めて気付く。
「その魔法隊っていうのはそれなりに力があるんだろうね」
「さあ。俺は昔から魔法に関してはルックに一任しているから、どうだろうな」
飄々とした口調に、「ばか」と毒づいて、転移の風を呼びルックはユンファを伴って春風の中に掻き消えた。
飛ぶときも、なんとなくルックは手を繋いだままでいた。