誰も知らない、誰もわからない。
傍から見れば、その一滴に、どんな意味があるというの?


泣かないさ、泣けない



「ルックは泣いたこと、ある?」
「ないよ」

いつもというかよくある盟主の唐突な問いかけに、慣れたルックは簡潔に言葉を返した。
石版の前に立って凛と佇んでいる風使いは、ちらりともこちらを見ようとはしない。
話しかけても蔑ろに扱われるのもいつものことなので、勝手とばかりに盟主は石版の隣へ座り込んだ。
ただでさえ人通りが多いホール。居座られるのが嫌なルックは、気持ちを忠実に表した目で盟主を見る。

「なんでこんなところに座るのさ。仕事、残ってるんだろ」
「そりゃー残ってるって言えば残ってるけど、いいよ。休憩だし」
「じゃあ別の所に行って」
「ボクはルックと話がしたいんだよ」
「…いい迷惑」

言っても聞かない天魁星は、今も前も変わらない。
ルックが視線を戻し、追い払うことは諦めたようだから、盟主は堂々とその場所に座り続けることにした。
どこかに行けばいいのにと顔に書いてあるが、それもいつものことなので気にしない。
ルックの言動にひとつひとつショックを受けていたら、身が持たないのだとで、これまでの付き合いから盟主は学んでいた。
壁に背をつけて、ルックと同じように賑わうホールを見つめる。

「…最近ね、小さな子どもが泣いてるのを見たら、なんだかむしょうに泣きたくなっちゃうんだ」

遠い声色をどこかに含ませながら、盟主がポツリと言った。ルックはちらりと一瞬だけ、視線で横を窺う。

「泣いちゃいけないっていうのは分かってるんだけどさ、時々どうしてこうなっちゃったんだろうって思う時があるよ。
 ここの人たちはみんな優しくていい人たちばかりなのに、悲しくなんかないはずなのに、泣きたくなるんだ」
「……………」
「泣いちゃいけない。ボクは盟主なんだからって、そう思うんだけど…」
「…君は、何を我慢しているの?」

涼やかに通る問いかけに、盟主は風使いに視線を向けたが、ルックは相変わらず前を見据えたままだった。
交差することのない視線のままに、ルックは再度問いかける。

「何を君は我慢しているんだ? 誰も泣くなとは言ってないよ」
「……でも、泣いたら弱気になる。立ち直れなくなっちゃいそうで、怖いんだ…」
「そう思う気持ちも、分からないわけではないけどね」

がやがやと賑わう人々の流れに、ルックはただ一点を見つめていて。

「なんで立ち直れないって分かるの? 君はまだ泣いていないんじゃないか」
「……それは、」
「泣くことに、弱いなんてことはないと思うよ」

たとえ泣きじゃくったとしても、泣きながらでも、前に進み続けるのが強さだと。
泣きたければ泣けばいい、と。
ルックはそう言った。
そしてそんな強さをもつ人間を知っていると、ルックは呟き。何かを懐かしむような顔をして、遠くを見てポツリと。
…盟主はずっとルックを見ていたから、ルックにとってその人は特別な人なのだろうということが分かった。

けれど一瞬だけ感慨に浸った顔をしたルックは、それを消すと何かを思い出したように眉を顰めた。
そしてどうでもいいことを思い出したとばかりにはあと息つく。

「君もつまらないことを言うね。泣きたきゃ泣けばいいじゃないか。
 たとえ立てなくなったとしても、それを引き上げてくれる人間がここにはたくさんいるんだろ」

なんの為に僕がここに立っていると思ってるのさ。と言って、ルックは石版へと凭れた。
風使いが守る大きな石版。
そこに刻まれた人たちの名前。
盟主は目を瞠り顔を動かした。
単に師匠の命だから守ってるのかとばかり思ってたのに。

「…そんな理由があったなんて…」

驚いたように言う盟主に、ルックはめんどくさそうに答える。

「もちろん師の命だからってのもあるけどね、前に石版の意味を忘れたバカな奴がいたから」

…また何かを思い出しながら言うルックに、それが先ほどの人のことなのだとのことが知れる。
そんなルックが珍しくて ―というか初めてで― 、呆気にとられたように盟主がルックの横顔をぼーと見ていると、何かを見つけたルックに、ほらと呼びかけられた。

「迎えが来たよ。君を引き上げてくれる、一番近い人」
「え?」

言われ視線を向けると、ホールの入り口から大きく手を振る義姉の姿が見えた。
両手を伸ばし、大きく大きく手を振って、笑っている。

「ナナミ…」

呟けば、行きなよ、とルックに急かされた。
その時の、風使いの穏やかな顔のこと。
盟主は顔を輝かせ、うん! と元気に頷いた。
ルックが励ましてくれた。

「ありがとうルック! ルックが相談にのってくれてよかった」
「わかったからさっさと行きなよ。いつまでも盟主がサボるもんじゃないよ」
「はーい」

盟主は言いながらささっと立ち上がり、ルックは犬でも追い払うように手を振った。
いつものルック。
人付き合いが嫌いそうで、けれど優しい言葉をくれた彼。
石版には手を差し伸べてくれる人たちの名前が刻んであって、盟主はそれに勇気をもらった。
元気よく、自分を待つ義姉のもとへ駆け出していく。

「またね、ルック!」

手を振って、盟主は別れを告げた。
ルックは返事を返さない。

元気な少年である。
さっきまで落ち込んでいたと思えば、もう笑っている。
ルックは義姉の元へ行き、楽しそうに笑っている天魁星を見てゆるく息をついた。
かの英雄とはまったく違う、けれど同じ強さを持つ少年。
泣かずに歩き続けることも強さなのだと、あの少年は知っているのだろうか。
胸に過ぎる冷たい何かに、ルックは踵を返し石版から離れた。
何もかもが人ではないこの身。


弱いというのは泣くことも知らない自分だということを、一体誰が知っているだろうか。