当たり前のようにいなくなった君へ。
もう話すことが出来ないんだと実感する、そんな日々へ。
守ると言った、この世界に。
言葉の違いと貴方の想い
もう何十年も訪れていなかったそこは、思い出の記憶を裏切らず、何もかもがそのままだった。
人数が増える度改造していった部屋も、置いていかれ風化してしまった家具も、眠る前に聞いた揺れる波音も、毎日包まれていた水の香りも、少し湿った新鮮な空気を運ぶ風さえも。
何も、変わってはいない。
年月は確かに経過しているのに、人だってもう誰もいないのに、ここは変わらない懐かしい場所で、思い出の場所で。
もう随分と慣れたと思ったけれど、やっぱり既視感は否めないものだと、ユンファは思った。
足を一歩動かす度に響く靴音さえも変わらないのに、水面に映る自分の姿は同じで、周りだけが走るように過ぎ去っていく。
ずっと刻を共に過ごすと思っていた人も、突然いなくなってしまった。
ぽっかりと穴が開いて、胸には大きな喪失感があるのに、けれどすれ違う人達やここも結局は何も変わってはいない。
大切な人を失ったのに、世界は何もなかったかのように変わらず回り続けている。
――そんなものだ。
ちっぽけな存在が喜んだり悲しんだり死んだり生まれたり。
それは一個人のことであって、ちっぽけな存在がいくら叫んだとしても世界は回ることはやめはしないし世界には関係ない。ちっぽけなものが大きなものを揺るがすことはできない。
けれど小さなものが集まった時の大きな力を、ユンファは知っていた。
それが世界をも揺るがし、どんなものでも捻じ曲げる力があるのを、ユンファは誰よりも身をもって知っている。
小さなものたちの大きな力。
そして彼もまた、その力の前に負けた。
かつての解放軍の本拠地は人々に聖域と称され、立ち入り禁止区域となっていたが、闇を渡れば容易く入ることが出来た。
片手には愛用の棍、くすんだ深い緑の外套を纏い、もう片方の手には花束を携えて。
ユンファは懐かしい場所へと降り立った。
闇に慣れた目に水面を反射する光が眩しい。
「ここも変わらないな」
目を細めて懐古を巡らせながら、ユンファが呟いた。
いろんな場所があるが、この屋上は特に思い出深い場所だ。ここで何度も彼と会った。
彼はいつも不機嫌そうな顔をしていて、年相応に悪戯を思いついた子供のように笑ったと思えば、時には歳に似合わない目で遠くを眺めるように何かを見ていた。
人と接するのを極度に嫌い、けれどそれは慣れていないからで、いつも高慢な態度を取りながらけれどどこか優しい風の子。
懐かしい思い出である。今でも昨日のようにどれも鮮明に思い出せる、深くて大きな今の自分を作り上げている記憶。
「そういやここで、お前に泣いてるとこを見られたこともあったよな。覚えているか」
巡る昔を思い出して笑い、ともに必死に駆け抜けた日々がもうあんなに遠い。
へらへらと笑っていたが、返ってくるのはただの風鳴りで、凛としたあの風の声ではなくて。
はは、と困ったように笑ったユンファは寂しくて、壁に背を預けて座り込んだ。
返る声がない。彼がいたならいうはずだ。あんたの泣き顔なんて希少価値が高すぎるから、もちろんきっちり覚えてるよ。滅多に見せない弱みだし。
皮肉をこめてたっぷりと。きっとそう言ったはず。
彼との思い出はまだ新しくて、一緒に旅だってした。
失くすばかりの時に唯一掴めたもの。
これからだってずっと続くと思っていた旅。行き先だって考えていた。
どこへ行こうか。どうしようか。
けれど久し振りに会った彼は突然こう告げてきた。
守るものができた。もうアンタと旅はできない。
『…なんだ、いきなり…?』
『言葉のとおりさ。かつてアンタがそうだったように、僕にも守るものができた』
『……。それは、なんなんだ―?』
『……美しい世界と、未来』
僕はアンタの未来を守るよ。
そういい残して、彼は消えていった。掴む暇もなかった。
……辿り着いた時には、もう遅かった。
アンタは何も分かっていないと、お前はよく言っていたけれど、お前だって俺のことをなんにも分かっていなかったじゃないか。
俺の未来を守る?
じゃあなんで今ここにいないんだよ、ルック。
必要なものが、何もないじゃないか。
「最悪だ……」
ずるずると壁に縋るようにユンファは立ち上がって、トラン湖へ花を投げた。
白い花束は下から吹き上げた風によってバラバラと空に舞う。
受け取ったと言いたいのか、いらないと言いたいのか、声が聞けないからわかることはできない。
ぜんぶ言うこと聞かずに突っ走ったお前が悪いんだと、心の中で盛大に罵ってやった。
ひらひらと、白い花が青い空で舞って。
それを見つめて、ユンファは変わらない世界で最後の餞を贈った。
「ありがとう、ルック」
ずっと貴方のことを、本気で愛していました。