小さな生き物を拾った。
緑の目をした小さな野良猫だ。
猫じゃらし
夏は好きじゃない。だって暑くて暑くて溶けてしまいそう。
太陽はギラギラギラギライタい日差しを注ぐだけ。
ついこの前までは春の陽気ぽかぽか、暖かくて優しかったのに、今じゃちっとも優しくない。
なにさ、太陽の意地悪っ。
梅雨の間ちょっと雲に隠れてる間に、天使から悪魔に心変わりしちゃったんだ。
僕ら野良にとって夏って毎日毎日地獄の連続で、生きるか死ぬかの大問題。
野良は自由に生きてる、だからご飯も自分の足で探さなくちゃいけないんだけど、木陰から出たくなくて―出た途端にじゅぅっと音を立てて蒸発しちゃいそうで―しょうがないから夕方になるまでご飯は我慢。
公園でべちゃって伸びて、セミの大合唱にうんざりしながら耳をぴくぴく。
そんな風にさ、ヒト(?)がへばってる時にあいつは絶対やってくるんだ。
僕とよく似た顔の猫。レックナートさまが言うには僕の双子の片割れらしいんだけど、すごくいやらしいヤツで。
お腹空かしてバテている僕の前に食べ残しをわざわざ持ってきて、
「可哀想だね、食べていいよ。ボクはいっぱいご主人様から貰ってるからね」
なーんてことを爽やかな笑顔で言うもんだから、その度に僕の胃がキィーって煮え返る。
なんだい、どんなにお腹空いたって死にそうになったって、絶対食べてやるもんか。
野良のプライドはそこのジャングルジムより高いんだ。
だから僕は言ってやるんだ。
僕から言わせてもらえばアンタの方が可哀想だね。
飼い慣らされて、猫の誇りをどっかに捨てちゃって。
飼い猫なんて僕から言わせればサイテイだね。
――って、前までは言ってたんだけど…。
窓からは燦々意地悪太陽の光が注いでいるのに、部屋の中のそよそよ涼しい風のオンパレード。
セミの合唱も遠くて、クーラーっていうらしい機械の動作音が耳を震わせている。
人間っていうのもなかなかいいもんを作るね。フローリングの床にお腹をひっつけたら冷たいぐらいだよ。
ばたばたばた。
『……………』
ばたばたばた。
「えーと、これは用意できたからー…」
『………うるさい…』
せっかく僕が涼んでたっていうのに騒がしい。
薄目を開けて確認。
使用人のグレミオがなんだか急がしそうにあっちに行ったりこっちへ来たり、家の中を駆けずり回っている。
この男は年中無休で忙しそうだ。
と、
『あいたっ!』
「あ、ルックくんごめんなさい! 尻尾を踏んじゃいました」
『ごめんなさいじゃないよっ』
尻尾が猫にとってどれだけ大事だと思ってるのさ!
唸り声と毛を逆立てればグレミオは一歩後退り。
爪をしゃきーんと構えて飛びかかる。
あだだだだ、じったんばったん暴れて、階段から誰か降りてくる音。
「どうしたんだよ、グレミオ」
「あ、ぼっちゃん。いえ、ちょっとルックくんの尻尾を踏んじゃって」
「はは、そりゃあルックも怒るなあ」
ほらほらルックももう勘弁な。
ひょっこり抱き上げられて、ぼっちゃんは宥めようと僕を撫でるけれど僕の鬱憤は晴らせれないまま。
なにさ、離しなよっ。アンタもグレミオの飼い主ならしっかり教育しなよね!
「わかったわかった、そう怒るなよ」
撫でながらぼっちゃんはグレミオへ向く。「そろそろ時間だろ」
「あ、そうですね。急がなくてはいけません。
ではぼっちゃん、出来るだけ早く戻ってきますから。
晩御飯はグレミオが作った特製シチューが鍋にありますのでそれを温めてくださいね。あと窓の鍵は全部締めてありますけど、用心してくださいよ?今の時代何があるかわかりませんから。あと玄関は開けないように。ぼっちゃんに何かあったらグレミオはぶっ倒れます。それから、」
「グレミオ、ストップ。わかったから」
手で制したぼっちゃんは僕を抱いたまま片手でグレミオの背をぐいぐい押して玄関へと追いやった。
充分気をつけてくださいねと再三忠告するグレミオを見送って、ぼっちゃんは呆れたように溜息をついた。「グレミオは父さんの手伝いに行ったから、今夜は遅くなるんだ」
「まったく、過保護すぎると思わないか?グレミオにとって、俺はまだまだ心配なぼっちゃんらしい。なあ、ルック?」
両手で抱えられて同じ目線まで上げられたら、声が近くて黒い目とぶつかった。耳をぴくぴく。
そんなこと言ったってアンタはまだ子どもじゃないか、僕から見ればデカいけど。
そう言おうとして、なーって鳴いて首を傾げたら、グレミオの言うぼっちゃんはなんだか面白そうに笑った。
ねえちょっと。僕が言ったことわかってる?
彼は僕を床に置くと、ピっとリモコンのスイッチを押した。
と同時にそよそよ風を送っていたクーラーが動くのを止めて自動的に蓋が閉まった。
ちょっと、何するのさ。暑いじゃないか!
抗議を含めた物言いたげな目で僕は睨みつけた。
彼はちらりとこちらを見たのに、我知らずとばかりに頭の後ろで手を組む。
「今日はルックと俺のふたりっきりだからな。クーラーもひとつで充分。おいおいそんな顔すんなって。俺の部屋に来ればグレミオに邪魔された昼寝の続きもできるから」
『冗談じゃないよっ』
僕は出来るだけこいつの部屋にはいかないようにしている。
そこには僕が敷く守らなければならない境界線があるからだ。
僕はこの家に住んではいるが、それは決して飼われてるわけじゃなくて、ただ居心地がいいから住み着いているだけ。
一種のなわばりの一部としか見てないんだ。
だから彼も飼い主とかじゃなくてただ僕のテリトリー内にいる人間ってだけで。
なのに頻繁に彼のいる部屋に行けば、なんだか僕が寂しくて構ってほしいと言わんばかりじゃないか。そんなのヤだね。
僕は絶対アイツみたいに猫のプライドは捨てないし、ご主人様とか死んだって作るもんか、人間に媚だって売らない。
僕はあの腐れ猫とは違うんだから。
「まあどうしても暑くなったら来いな」
彼はそう言ってさっさと部屋へ戻ってしまった。
僕があんまり彼の部屋に入りたがらないのを知っているからだ。(前に抱き上げたまま入ろうとしたから、勢いで思いっきり引っ掻いて逃げ出したことがある)
ま、いっか。広い部屋だけど、クーラーが頑張ってくれたおかげで充分涼しいし。フローリングの床も味方してくれて暑くない。
『……だけどさ、』
止まってしまった機械の動作音、くぐもって聞こえるセミの声が妙に耳につく。
住宅街だけあって人の声も車の音も聞こえない。風もない。
暑くないはずなのに、どうしてだろう、クーラーが消えてるってだけで暑く思える。
ヒトの気配が消えた部屋。
…寂しい。
サイアクだと、心で呟くしかなかった。
何が猫のプライドは捨てない、だよ。
充分僕はこの家に住むことに慣れ親しんでしまっているじゃないか。
静か過ぎて居心地が悪いだなんて、そんな馬鹿らしいことないよ。
うんざり。
なんだか遣る瀬無くて、ぴょんとテーブルの上に乗っかって、置いてあったチラシをばりばり引っ掻き回す。
汚くなったってどうせ後で綺麗好きなグレミオがなんとかしてくれるさ。…とか、ほら、やっぱり人間のいる生活に馴染んでるじゃないかっ。ばりばりばり。
「あーあ、何やってんだよ」
いつの間に降りてきたのか、彼が後ろにいて抱き上げられた。なんだよ、しかめっ面したって知らないんだから。
不満気に一鳴きすれば漏れた溜息。「飲み物取りに来たらコレなんだから、ったく」
ぽりぽりと頭を掻いた彼は、横目で破いたチラシを見ると片付けるでもなく、ま、いっか、の一言で済ませて冷蔵庫へすたすた。
ドアを開けるとクーラーより冷たい風がひやー。
「ルック腹へってない? 牛乳を俺の部屋で用意するからさ、勘弁して入って来い。あっちはここより部屋が狭いから冷房がうんと効いてるしさ」
俺も自分の部屋でシチュー食べるかな。グレミオがいないんだ、たまにはこんな日があったっていいよな?
だからそんな風に楽しそうに笑うから、グレミオだってアンタのことを子ども扱いするんだよ。わかってないでしょ。
にゃー。って忠告したら、「よし、じゃあOKな」って勝手に了承して、僕の言いたいことと違うんだけど…もう暑いから黙っとく。早く涼しい場所に連れてってよね。
ちょっとだけ待ってろよ、とシチューを温め直す彼の背中を尻尾をゆらゆらしながら見つめた。
飼い主なんて、認めないんだからね。
僕は誇り高い猫。ヒトに頼らなくても生きていけるんだから、構ってくれなくても大丈夫なんだ。
でも、ねえさっき気付いたけどさ、アンタって太陽みたいに笑うんだね。
夏の太陽みたいにギラギラしてないけど、どこかちょっぴり眩しくてあたたかい。安心…する。
そういう太陽なら、僕嫌いじゃないよ。
ああもう早くしなよ。なんだか暑くなってきたじゃないか。
あ、言っとくけどアンタの部屋に行くのは暑いから仕方のない譲歩だよ。
猫は気侭なんだ。これも猫が捨てちゃいけないプライドだからね。
ねえそこんとこちゃんと分かってる?
やっとトレーで運べる用意の出来た彼。
階段をよじ登って早く来なよとひとつ鳴けば。
現金なやつ、とユンファがまた笑った。