冬の日。
猫はちょっと大きくなって。
脱走犯へと化していた。


だまし



部屋から抜け出して外を散歩するのが、猫の最近の日課だった。
『マクドール家を棲家にしているだけで飼われているわけじゃないんだから、閉じ込められるなんて真っ平御免、外に行こうとどうしようと僕の勝手だろ?』というのが猫の言い分で、そのたびに脱走を繰り返してはグレミオに見つかって叱られる。
そんな毎日だったけれど、やっぱり外の開放感は何よりも勝って。
肉救越しに伝わる地面の固い感触、毛を通り越して肌に突き刺さる北風の冷たさ。
野良の頃は当たり前だったものが、こんなにも気持ちのいいものだったなんて知らなかった。 さて、今日は久し振りにレックナート様のところへ行こうか。そんな風に予定を考えるのでさえ楽しくなってくる。
冬空の下、猫は今日も今日とて一級脱走犯となる。
が。

「……、なんでアンタがいるのさ…」

ルックはそう運のいいほうではなかった。
塀を飛び降りたところで出会った猫を前に、これでもかと顔を顰める。
目の前には同じ茶色の毛にどこか青みがかった瞳を持つ猫の姿がひとつ。ササライだ。
(ユンファの家に棲みついてからというもの、ササライと顔を合わせることも嫌味を言われることもなく、久々の再会だったのだけれど。相変わらず鼻に掛けたように優雅にゆるりと尻尾を揺らす癖は直ってないようだった。)
構えるように立ち回った僕にササライは「偶然だね」、とチシャ猫のようににたりと笑って、一歩距離を詰めてくる。「人間に拾われたんだって、君」

「飼われるのが嫌じゃなかったのかい? 噂によると、マクドール家が君の住処だというじゃないか。
 なんだかんだ言って、君も野良生活が厳しくなったってことかな。どうだい? ちゃんとご飯はもらえてる?」
「うるさいよ。ごちゃごちゃ言ってないで、帰ってだぁい好きなご主人さまとやらに一生甘えてたら?」

そう吐き捨てて方向転換回れ右、ルックは相手にしなかった。
こういうのは放っておくのが一番だと、前にレックナートがそれは爽やかな笑顔で言っていた教訓をルックは忠実に守る。
(もちろん笑みと一緒に青筋が立っていたのも忘れていないが)
しかしササライは憎たらしいほどに神経を逆撫でするのが上手いのだ。尻尾を揺らす癖をひとつ、披露する。

「そうそう君の飼い主はまだ大人じゃないんだってね。
 子どもの一時の愛護心で君は飼われてるだけなんだから、捨てられないように気をつけないとね」

かちん。それは僕が単純な理由でユンファに飼われてるってことかい?

「…、ちょっと待ちなよ。聞き捨てならないね」

言わせておけば、この温室育ちめ。
毛が静電気を帯びたみたいにぴりりと逆立つ。

「知ったようなことを言うじゃないか。人間がいないと何もできない、君の方こそ捨てられないように気をつけなくちゃいけないんじゃないの」

細めた双眸でバカにしたように言えば、今にもやれやれとこぼしそうな口調でササライは言葉を続ける。

「すぐにつっかかってくるのは今の状況に満足してない証拠かな」
「…なにが言いたいのさ」
「君も分かっているんだろ。君の秘密がバレたら、君は居られなくなる。この状況はそう長続きしない」
「……。それはアンタも同じだろ」

前置きもなくいきなり核心を突いてくるのがこいつの嫌らしいところで。ぎくりとしたけど、なんとか声は上ずらずに済んだのを内心でほっとする。
ササライは追い討ちを立てるようににやりと笑って、耳に顔を近付けて囁いた。
「僕の屋敷は大きいからね」そう切り出す。

「もし変化が起きたとしたら、隠れていればいい。外に行くのも自由だから、1日ぐらい隠し通せる。
 でも君の場合はどうだい? 隠れる場所は、外には出て行ける? そんな苦労をしてまで君は今の生活を守りたいのかい?」
「……………、」

ない。とは、すぐに言えなかった。言われてみればそうだ。隠し通せる保証は何処にもないし、そこまでしてあの家に居たいのだろうかと、声が響く。

…でも、だからと言って「わかった、じゃあ出て行くよ」とも頷けなくて。
撫でられる感触、拒まれることのない居心地さ、仕方がないなあと笑う、彼の顔が頭から離れられない。

「僕は…、」

顔を上げて、見つけた。
ササライのその向こう、まだ遠い、けれどだんだんと近づいてくる人影。猫の目にそれはしっかりと確認できた。
グレミオだ。
ルックは今の心情をぱっと忘れて、脳裏に前回の記憶を呼び戻した。外に出て行ったのがバレたとき、グレミオにちくちくとうるさく言われたこと。きっとまた見つかったらまたごちゃごちゃうるさいに決まっている。
答えが出た瞬間ルックの行動は早かった。

「アンタの小言には死ぬほど暇なときにでも付き合ってあげるよ」

そういい残すとさっと身を翻して近くの木の上へ避難。呆けっとしたササライの姿がよく見えるて、こういう眺めも悪くはないね、とどこかで思った。
こちらを見上げていたササライも、やっと背後から近づいてくる人の気配に気付いて振り向いたけれど、それはちょうどスーパーの袋を携えたグレミオがササライを見下ろす位置まで歩いてきたときだった。

「…あれ?」

グレミオは首を傾げてササライを抱き上げる。顔には“?”マークが書いてあるように見えた。
それもそうか、僕と瓜二つの猫がいるんだもの。のほほん平和ぽけぽけのグレミオだって驚くだろう、ササライも暴れるでもなくてされるがままだ。
けれど、グレミオの『あれ?』は違う意味でのものだった。

「なんでルックくんがこんな外にいるんでしょうね」
『ルック?』
『ちょ、ちょっと!』
「あ、わかりました。また窓を勝手に開けて脱走したんですね。
 勝手に出て行ったらぼっちゃんが心配するじゃないですか。もちろんグレミオだって居なくなったらと知ったら悲しくなりますよ」
『だから!ちょっと何勘違いしてんのさ!』

慌てて飛び降りようとしたけれど、グレミオはお仕置きは帰ってからです、とあろうことかササライを抱いたままスーパーの袋を持って行ってしまった。
逆にぽかんとするのは僕の方だ。取り残された。
僕は怒ればいいのやら呆れればいいのやら、ちょっと頭の中がクランクランしてわからなくなっていた。
あの家政男、いつも僕の何を見ているわけ?
でもさ、ササライが連れて行かれて『ルック』があの家にいたら、本物の『ルック』は一体どこへ帰ればいいのさ。
ぞわりと悪寒が駆け抜ける。そうだ、あの場所を奪われてなるものか。
僕は何振り構わずレックナートさまのことも忘れて、冬を全力疾走で駆け抜けて家へと戻った。




******


慌てて家へと引き返して、どこにいるのかと窓を次々と覗いて確かめるとグレミオはユンファの部屋に居た。
抱えていた僕だと間違えている猫を下へと離して、どこの窓から外へ出たんでしょうねえととぼけたことを首を捻ってひとり悩んでいる。
結果的に拉致されたササライも流石に事の次第についていけていないようで、「どうしてこんなことになったんだっけ?」と頭上にひたすらクエッションマークを浮かべているようだった。
その様子をベランダの手すりに腰掛けて見ていた僕はというと、ここで一声「なに間違えているのさ、僕はここだよ」と鳴けばいいものの、そう出来ずにいたりする。
さっきの、ササライの言葉が喉を締め付けるんだ。
『君の秘密がバレたら、君は居られなくなる。この状況はそう長続きしない。君はそこまでして今の生活を守りたいのかい?』
…もし退くとすれば、今が一番いいのかもしれない。だってそうすれば秘密がバレないかと怯えずに済むし、傷つかずに済む、まだ諦めがつく。
レックナートさまのところに戻って、野良を続ければいいんだ。居たくてこの家に居たんじゃない。
でも本音で言うと、僕は別のところで踏み出せずにいたのかもしれない。

腰を屈めて、正面からササライを見て話しかけているグレミオ。
ねえ、人間ってどの猫を見ても同じ猫に見えるの? 別にそこにいるのが僕じゃなくてもよかったんじゃないの?
猫だったら、なんでもいいんだ。
ぽっかり冷たい穴が開いて、すごくモヤモヤっとした煙が体の中で渦巻いて息苦しかった。
それに呼応するように空から雪が降ってくる。
寒い。

「グレミオ、何やってるんだ?」

気付けばユンファが部屋に戻ってきていた。
アンタも他の人間と一緒で、猫なんて色が一緒なら全部同じに見えるんだろ、とその行方を見守る。けど心の中では全く逆のことを願ってた。
ユンファはササライに気付くと、抱き上げて、しげしげと見つめて言った。

「なんだこの猫」

今日はよくぽかんとなる日で。

「なにって、ルックくんじゃないですか、ぼっちゃん。また外に居たのでグレミオが連れて来たんです」
「グレミオ、この猫はルックじゃない。お前どこの猫連れて来たんだよ」
「だ、だってそっくりじゃないですか!」

ユンファはササライをぐいっとグレミオの顔の前に突き出した。どこを見ているんだ、よくその目で見てみろ、と言わんばかりに。

「まったく違う。顔に目に毛並みに尻尾、どれもこれもルックじゃない。
 毛並みがいいからどっかの飼い猫だろうな」

責任をもって元の場所に置いて来いとササライを押し付けると、ユンファはグレミオを追い出した。
まったくグレミオは、と溜息を付いて、名前を呼ばれる。
「ルック、」
そこで僕はようやく喉のつっかえが取れて、初めて声を出せた。
一鳴き。
寒さで掠れるような弱い声だったかもしれない、届いたかもわからないような小さな鳴き声だったかもしれない。
けどどこかで気付いてくれるっていう確信はあったんだ。気付いてほしかった。
ユンファにはちゃんと聞こえていた。

「いた」

僕が佇んでいるベランダに出てきて、手を伸ばされる。
そんなところで何やってるんだよ、と胸に抱かれ体についた雪を掃われたら、もう温かくて仕方がなかった。
本当は、わかってくれて嬉しかったんだ。

「ルックの目は緑だもんな」

そう笑って言う息が耳にかかってこしょばゆくて温かくて。
言葉には出来ないから、ちょっとだけ顔を舐めて、首元に体を擦り付けて甘えてみた。
しょうがないからアンタのことちょっとは認めてあげるよ。
だからここの場所は誰にも渡さないで。

窓の外は雪が降って、冬真っ盛り。
寒いのは苦手。