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春の日差しはあたたかい。
冬から一転、太陽は柔らかい光を注いでくれる。


なでごえ



春のぬくぬく陽気は、眠りを誘う魔法だ。
ルックはそれに勝った例がない。
いつも窓際に丸まってついつい眠ってしまって、気が付くとだいぶ日が傾いていたりする。
だらだら過ごすほうではないのだけれど、春の眠気はお腹が空いた空腹と一緒のようなもので、仕方がないものだとルックは諦めて眠気に従っていたのだが。 けれど今日は違った。

いつもなら学校に行ってもぬけの殻の部屋に人の気配。
いつもなら鼻歌を歌いながら洗濯物を干しているグレミオも、今日は慌しくソワソワ、落ち着きがない。
ルックは空気を奮わせる咳にぴくんと耳を動かした。
ちょこんとベッドの上に座って、ゆらりと尻尾を揺らす。
なんでもユンファが風邪をひいたらしい。
冬から春へ移る頃、季節の変わり目は体調を崩しやすいですからね、グレミオがそんなことをぼやいていた。

ぼっちゃんは息をぜえぜえ、苦しそうに眉を顰めていた。
ルックは風邪をひいたことがないから、それがどんなに辛いのかはわからない。
はっきり言って風邪なんて言葉も、ついさっきグレミオの口から初めて聞いたぐらいだから、風邪の正体も皆目検討がつかなかった。
とりあえずわかるのはユンファが風邪をひいているということ。
しんだそうなこと。
息が熱いこと。
こんなに近くでひと鳴きしてもユンファは起きなくて、でもなんだか息苦しそうで、見ているだけなのにまるで感染したみたいに苦しくなった。

春に眠るのは気持ちがいいはずだ。ルックはすやすや、ぼっちゃんが帰ってくるまでいっつも眠ってしまう。
それなのになんでこんな顔をするのだろう?
猫はシーツの上にぺたんと寝っころがった。同じ格好をすれば何かわかる気がした。
そしてひとつ、思いつく。
『悪い夢をみているのかも』
夢見が悪いとどうしても何が言い難い寒気が拭えないのを、ルックは思い出した。なんだかもやもやして、その度にぐるぐる家の中を歩いてしまう。
そうか、あんなに気分が冴えないものを見ているのなら、こんな顔をするのかもしれない。
風邪をひくというのはイコール悪い夢を見ている、ということなのか。

起こしたほうがいいのだろう。悪い夢はさっさと起きて楽しいことをして忘れてしまったほうがいい。
ルックはうんうん唸っている顔を覗き込んで、さてどうやって起こそうか、やっぱり引っ掻いたほうが効率いいよね、と悩んだ。
けれどストッパーのようにひとつの言葉をふと思い出す。
グレミオが言っていた。
『いいですか、ルックくん。そこに居てもいいですけど、ぼっちゃんを起こしてはいけませんよ。そっと静かにしといてくださいね、グレミオとのお約束です』
一言一言、ゆっくりと言い聞かされた。
その時はわかっているよと鳴いたけれど、今思えばどうして起こしてはいけないのか、ルックには分からない。
悪い夢を見ているんだ、起こしたほうがいいではないか。
ルックにはグレミオが言っている意味が具体的によくわからなかったけれど、でも起こしてしまってそれが原因で悪い方向に転がってはいけないと思うと、起こせなくなった。
朝からずっと眠っているユンファ、熱い息が髭を揺らす。
風邪というものの正体がわからなくて、ルックの頭の中はぐちゃぐちゃだ。
どうすればいいのかまったくわからない。
猫の自分では何もできないのかもしれない。
ああ、けれどわかることがひとつだけあった。
ねえ、なんでもいいから早く目を覚ましてよ。そんな苦しそうな顔をしたまま寝ないで。
このまま苦しんだままもう二度と目覚めない、ずっと見ているとそんな不安が燻ってきて、それがとても怖かった。
ああいったい風邪ってなんなの。
心細くてユンファの名前を呼んだ。

「………うん、ルック?」

すると彼の重い瞼が開いて、あっと思った瞬間には潤んだ瞳と目が合った。
名前を呼ばれてひとつ鳴けば、頭を撫でられて。
いつもより熱い手、その感触と一緒にもやもや煙を上げていた不安がふっと溶けてしまった。
なんだ、起きたじゃないか。心配して損した。

「…なんでルックがここにいるんだ…? 他の場所で居ないと風邪がうつる。
 …、いや、でも猫に人間の風邪ってうつるのか…?」
『なにぶつくさ言ってんのさ』

そんなわけの分からない正体不明の風邪に僕が負けるはずないじゃないか。
そう言おうとしたら、ごほんと大きな咳に思わず体がびくっとした。な、なにさ…。
ユンファは何度か あー、あー、と声を出すと、もう一度けほんと咳払い。

「あー、喉が痛い。声も掠れてるし」

けほけほとユンファは咳をしながら喉を擦って、布でも巻いとくか、と独り言。
あ、それなら知ってる、喉を温めたらイガイガがちょっとはマシになるらしいね。いつぞやの知識を掘り起こして、ルックはふと思いついた。

『そうだ、喉をあたためる、それなら僕にも出来る』

それぐらいならグレミオみたいにタオルを水で冷やさなくても、ルックにも出来る。
仕方がないね、アンタがしっかりしないとグレミオが五月蝿くて昼寝ができないから、僕も落ち着かないから、仕方なく、だよ。
誰に言うわけでもなく心の中でルックは言い訳をした後、考え付いたアイディアを実行に移した。
ユンファの上に飛び乗ると、肉球越しに彼の鼓動が早くて、ちょっとびっくりした。
おそるおそる顔の前まで来ると、覗き込んで仕方ないからねとひと鳴き。
そして人間より体温が高い自分の身体でユンファの首へ覆いかぶさる。
どうだ、天然マフラーでしょ?
妙案だとばかりにルックがごろごろと喉を鳴らせば、ユンファが呟く。「重い…」
ちょっとは我慢しなよ。