ササライが言っていた秘密を今ここで暴露するとなると、
僕は人間に化ける猫だったりするということで。

かぶり



川の水面を覗いて自分の姿を確認すると、やっぱりそこには見覚えのない人間の姿。
茶色の髪に緑の目をした、少年の姿。
誰さこれ、っていうのが第一感想で。ルックはじっと水面を見つめる。
もう何度この姿を見て頭の中では一応理解したといっても、普段とかけ離れた容姿は何度見ても見慣れなくてしっくりとせず。
誰さ、これ。
僕だけどさ。
僕が左手を上げると、映った人間も同じように手を上げて、口を開けてもジャンプしてみても結果は同じ。
うん、やっぱり僕だ。
猫のルックが人間になっている。


――こういう、動物が人間に変化するという異質な現象は、何でも突然起こるものらしい。
その証拠に僕も今朝起きたらこの姿になっていて、脱兎の如く家を飛び出してこの河川敷まで逃げてきたわけだ。
僕の知るところで、この異質な形態変化をするのはレックナートさまとササライのふたりだけ。
でも聞くところによるとまだ他にもいるらしいから、そう特別なことでもないのかもしれない。…って、いや、充分変か。


水面で姿を確認し終えると、次はちゃんと耳が隠せているかどうかをチェックする。
服は変化した時からしっかりと着ているのだけれど、どういうわけか耳と尻尾は猫の名残が残っているから、バレないようにしないといけないのが一番の問題だった。
尻尾は服の中へ、頭には布を巻く。
ちなみに頭に巻いているのは彼の棚から勝手に取ってきたバンダナだった。
朝早かったから彼は寝てたけど、起きるんじゃないかとひやひやした中で拝借してきた一品だ。
深い緑のバンダナ、全然この姿に似合ってないけど、隠すためだから我慢して巻くよ。
きゅっと結び目を強く引く。頭の上から嗅ぎ慣れたにおいがした。

さて、これからどうしようか。元に戻るまで家には帰れないから、レックナートさまのところへ行こうか。
そんなことを考えているときにかかる声。

「あの、すいません」

妙に聞いたことのある声だと思って振り返って、驚いた。ぽかーん。
僕の後ろにはユンファがいて、僕に話しかけてきている。いつもより顔が近くてどぎまぎするんだけど…。
っていうかバレてないよね、と思わずバンダナ越しに両手で耳を押さえた。

「な、何さ。何かよう?」

問いかけると、ユンファは答えた。

「飼い猫を探してるんだけど、見かけなかったかな?小柄のアビシニアンなんだけど」
「…さ、さあ。猫なんてそこら辺に居るからね」

まさか彼も猫が人になって目の前に居るとは思うまい。
というかいつもなら家に居なかろうとどうだろうと探しになど来ないはずなのに、なぜ今回にかぎってこうなのか。間が悪いとしか言いようがなかった。

けれどこうやって直に話が出来るということ、抱き上げられてなくても視線が近くて、こんなこと猫の姿なら絶対になくて。
このまま去るのもなんだか惜しい気がした。

「ねえ、キミが飼ってる猫ってどんなの?」
「ん?そうだな、猫そのままってかんじかな。構うと嫌がって、放っておくと自分から寄って来るよ。ルックっていう名前なんだ」
(…僕がいつ寄っていったんだよ)

そう悪態ついてもさすが聞きなれた声。ルック、との声を聞いて、思わず動いてしまう耳をなんとか押さえるので必死だった。
横目で恨めしそうに見る。まったく、こっちの苦労も知らないでそんなに嬉しそうに笑わないでよね。
ユンファはきょろきょろと辺りを見回すと、ここにはいないようだな、とぼやいた。
「じゃあ、ありがとう」
そうしてあっさりと背中を向けて行ってしまう。

「え、あ、ちょっと待ちなよ!」

いつもは下から見上げていた背中が遠く離れて行く。そう思った瞬間にはもう呼び止めていた。

「僕もアンタの猫探し手伝ってあげるよ。暇だからね」

何かと言い訳がましいのが、自分らしい、とどこか冷静に他人のように思う。
何を言っているんだ、僕は…。
少しばかり張り上げた声を聞いた彼は、しばしきょとんと僕を見て、ぷっと吹くように笑って言った。「猫みたいだ」

「構われなくなると自分から寄って来る。うちの家の猫みたいだ」
「うるさいな」

そんなんじゃないってば。
言うことの出来ない言葉を口の上で転がしつつ、ツボにはまったみたいで笑い続けるユンファを、やっぱり僕は恨めしそうに睨み付けるしかなかったんだけど。
笑い死するんじゃないかと思ったから、ちょっと蹴ってやった。




それからふたりでぶらぶら。
「名前は?」って聞かれたんだけど、ルック、なんて言えないから「名前はまだないよ」と答えれば。
ユンファはまたもや可笑しそうに笑う。

「なんだそれ、長靴を履いた猫みたいだな」

そうユンファが変なことを言うから、僕は眉を寄せて、
「は?なにそれ。猫は長靴なんか履かないよ」
なんて至極当然に答えたのに、ユンファはまたもやきょとん。そして爆笑。お腹を抱えてひぃひぃ笑い出す。
なんだよ、失礼なやつだな。
僕にはユンファが笑っている理由がわからなかったけど、とにかく名前は言わないから、ユンファも僕も名前で呼び合うことなく適当な話をしながら歩いている。
見て回る世界がいつもと違って新鮮で、時間はすぐに過ぎていく。
思えばこうして話をするのも初めてで、気付けばもう夕方。
そろそろ別れないと、僕もいつ元に戻ってしまうかわからないからここらが潮時だ。だいたい人の姿で居るのって一日ぐらいなんだよね。
いつのまにか会った河川敷まで戻ってきていて、僕はそこで足を止めた。

「じゃあ僕はそろそろ帰るよ」

少しばかり名残惜しい気もするけどね。

「キミの猫はその内帰ってくるよ、きっと。だから窓でも開けといてあげたら?じゃあね」

反対方向へ歩きながらそう声だけを掛けていった。あと少し元に戻るまで、どこかに身を隠しておかなければならない。
と。

「ルック、」

覚えた名前に、足が止まってしまった。
振り向けば、ユンファがひょいひょいとこっちへおいでとばかりに手を招いている。後ろ背に夕日の光が射して眩しくて、目を眇めた。
ルック、ともう一度呼ばれる。
間違いない、人間の姿をした僕に言っているのだ。
慌てて体を見やるけれど、まだしっかりと人の姿のままで。
ぽつりと零れるぼやき。

「……なんで?」

小さな呟きをユンファは聞きとめたようで、息を吐くように微笑んだ。

「帰るってどこに帰るんだ?家は逆だぞ」
「…な、なに言ってるわけ?ルックっていうのは猫のことだろ?僕は、」
「ルックだろ」

困惑する僕を可笑しそうに一度笑って、ユンファはこちらに歩み寄ってくる。
実は知ってた、と目の前でそう言った。

「今日朝早くに目が覚めてさ、そしたらルックが居たはずの場所にお前が居たんだよ。人の姿をしてて」

初めは泥棒が寝てるのかと思ってびっくりしたんだ、思い出してそれは可笑しそうに。

「でも眺めててわかった。これはルックだって。髪の色が毛並みと一緒だったし、頭に耳生えて尻尾まであったからさ。夢を見てるのかと思ったよ。もう一回寝てみようと思って起きたら、人のルックも猫のルックも居なかった。だから探してみた」
「…そしたら僕が居たってわけ?」
「初めはただの空似かと思ったんだけど、やっぱりルックだったな。ちょっと話しただけですぐにわかった」

じゃあなんで、

「じゃあなんですぐに言わなかったのさ」

目の前の人間は困ったように苦笑して。

「初対面で『お前は俺の猫だろ』なんて言えないだろ。ルックだろうなあと思っても、さすがになんて言っていいのかわからなくてさ」

だから最後まで黙ってた。
僕は驚きと…バレたということのショックで、顔を上げられずにいた。
ああ、これであの家には居られなくなるのだろうか。
レックナートさまが言っていた言葉を思い出す。
『秘密がバレればNASAに連れて行かれます』 NASAってところに僕も行くのかな。っていうかNASAって何さ、動物園?
いや、そういうことじゃなくて。

「……気持ち悪くないわけ?」

猫が人に化けたり、喋ったりしてさ。
今までに不覚にも目撃された人間たちには、みんなおんなじように言われたから。気色ワルイ。

「別に」

けど一言だった。
そういうのが居てもいいんじゃないか。それで何が変わるってもんじゃないだろ?
逆にそう聞かれる。

「…変わるよ、アンタが僕を見る目が違ってくる」
「変わらないよ」

やっと顔を上げれば、拾われた頃からずっと見てきた顔が近くにあって。
猫の時と同じように頭をくしゃくしゃ撫でられれば、きつく目に力を入れないと何かが溢れてしまいそうで苦しかった。

「帰ろう、ルック」

ルックはルックだ、なんて夢のような言葉が降り注ぐ。
なんでそんなことが言えるんだよ。アンタ実は事の異質さをちゃんとわかってないだろ。
そう言ってやりたいのは山々だったけど、言葉が詰まって何も言えなかった。
手を引かれて、太陽が沈む西へ、家路へと引っ張られていって。
今だけは猫に戻りたくはなかった。
アンタの近くにいたい。