故郷が懐かしい。
いつものように石版の間に立っていたルックは、ふとそんな兵の言葉を聞いて俯けていた顔を上げた。
部屋からそう離れていないところで、3人の一般兵が立ち話をしている。
自分はここより遠くの村の出身で、この軍に望んで入ったものの離れてみるとやけに故郷が懐かしい。戦争が終われば真っ先に家に帰りたい
………そんなことを、若い兵は同士へ零していた。
(…そんなものだろうか)
ルックにとって『故郷が懐かしい』などという郷愁を秘めた言葉は、すっぽり胸に落ちてこないものだった。
魔術師の塔から離れて今はここにいるが、人の多さに戻りたいと思ったことはあるもののそこまで郷愁に駆られたことはない。
懐かしんだり惜しんだりしたことも、そういえばなかったと今更気付いたぐらいだ。
――何故だろうか。
石版に背を預けて、ルックは考える。
育ったのはあの島なのだから、少しぐらい懐かしんでもいいはずである。なのに、そんなこともなく。
――…本当の故郷じゃないからだろうか…と。
ふとそんな考えが過ぎって、ルックは重いため息を吐いた。
頭の中で甦った故郷は雪の降る北の地、ハルモニア。
あの地に抱くのは深い恨みと嫌な思い出だけで、懐かしさなどそんな感情は一度だって持ったことがない。
もし帰る時があれば、それは復讐を果たす時――そう、前から決めているのだ。
馬鹿らしいと心の中で呟いた。
帰る場所を知らない少年
「ねえ。君は帰りたいと思ったことがあるの?」
石版を見に訪れていた軍主に、ルックは何気なく聞いてみた。
他意などはなく、本当にふと口から零れた言葉だった。
石版を見ていたユンファは、ん? と不思議そうにルックへ視線を寄越した。
「帰りたいって…どこだよ」
「そのまんまの意味さ。君が帰りたいと願う場所だよ」
「帰りたい、ねえ」
ふむ、とユンファは考えている素振りをしたが、ルックにはユンファが言うであろう答えがわかっていた。
いや、ルック以外の誰だってその先の答えを安易に予想できただろう。
だって彼にとってそこは大切な場所なのだから。
「郷愁を抱くってことは故郷か…。 んーじゃあやっぱグレッグミンスターかな」
「…。まあ君はそうだろうね」
懐かしむ言葉に、一瞬寂しさが過ぎったのをルックは見ないふりをした。
グレッグミンスターは彼にとって、すべての思い出の場所なのだろう。毎日が平和で、楽しい日々だったに違いない。
ルックはまだ町を追われる前のユンファを知っているから、その時の彼を思い出せばあの時が幸せだったのだと簡単に想像がついた。
前ソウルイーターの宿主や従者たちと、それは楽しそうに笑っていたものだ。
彼の中であの場所は、何よりも特別なのだ。
……ルックにとってはやはりよく分からない心情ではあるが。
「帰りたいって思う?」
「そりゃ当然思うさ」
「帰りたいから君は戦うの?」
「まあ、それも理由のひとつかな」
曖昧に笑って、ユンファは窓の外、海の向こうを見た。
その先にあるのはきっと彼の帰る場所、この男の終着点。
えらく、遠い故郷である。
あの兵のように帰りたいと思っても、簡単に帰れる場所ではない遠い遠い場所。
「遠いね…」
無意識に零れた言葉に、ユンファが驚いたように小さく目を瞠った。
そして穏やかな笑みを湛えて、それを戻すといつものようににかりと笑う。
「大丈夫。どんなに遠くても俺はいつかあそこに戻るさ。そう、決めたんだ」
「……そう」
なんだかその言葉が眩しく見えて、ルックは目蓋を閉じた。
そこまで強く『帰りたい』と思える場所を持つユンファが、ルックには羨ましかった。
自分にはそんな場所、ひとつもないのに。
(――…いつか僕にも、そんな風に思える場所が出来るだろうか…)
問いかけみても、漠然としすぎていてルックにはわからない。
風の子が帰る場所を見つけるのは、まだ遠い未来のことである。