夜中といっても油断はならない。見回り兵がいる。奴らはなかなか目敏いのだ。だからたとえ見回り兵のルートを正確に覚えてその脅威を回避したとしても、広い城だ、いつだれがひょっこり起きて出歩いているのかもわからないし、何よりもその容姿は一目につく。見つかったら即アウトだ。何を言われるのか分かったもんじゃない、下手すれば暫く一日中監視の下に置かれて自由を奪われる。

 だから高いリスクを負ってまで夜中に抜け出そうなんて普通は思わないはずだ。それがまともだ。しかもリスクとどう考えたって釣り合わない対価なら尚更。

 そう言えば「俺にとってはリスク以上の対価だ」と不敵に笑う、その妙に自信に満ちた顔に今日もほだされてしまった。溜息を吐くと幸せが逃げるだろ、と額をやんわりと押される。完全にガキ扱いだ。むっと剥れるとますます相手の思うツボだから黙って睨むと、立っている相手からは自然と見上げられる形になり逆効果だと可笑しそうに笑われた。伸ばされた手を叩き落とすと何?とおどけた顔をされる。何、じゃないよまったく。

「いいから帰りなよ」
「なんで? 今来たばかりじゃないか」

 男はそう言って、黒い目をぱちぱちと瞬いて本気で訳がわからないという顔をする。前言撤回、コイツのほうが子どもだ。そんな無邪気な顔をするな、言っても聞かないから僕は再度溜息をつくしかない。すると「だから幸せが逃げるだろう」と存外大きな手で口を塞がれた。

「むが」
「ルックはただでさえ運がないんだから注意しなくちゃ」
「んーんー!」
「なに?」
「ぷはっ。何さ、僕が不幸だって言いたいわけ?!」
「いーや、俺が幸せにしてあげる」

 にっこり。そんな擬音がしそうに笑う。僕はガックリ、肩を落とす。
 疲れたと言わんばかりに吐きそうになった溜息を飲み込むと寝台の端に腰掛けた。

 上質な黒いマントに黒いズボン、黒い髪黒い目、全身真っ黒な男は、この部屋にあるたったひとつの窓の縁に腰掛けてそっと目をふせている。
 この部屋には寝台がひとつと横に小さなチェストがあるだけで他には何もない。
 寝るだけに与えられた使用人の部屋なのだ。隣国の使用人は邪魔なモノを押し込めるようにひとつの部屋に大人数収納されているらしいから、個室を与えられているだけまだこの国の使用人は待遇されている。それでもこの男に似合う場所ではない。いやそもそも居て許される所ではないのだ。
 男は窓から覗く月光を受けて照らされている、そう、この人間が居るべき場所は光輝く場所で、こんなじめじめした所ではない。

「帰りなよ」
「ルック?」
「だってアンタはこの国の王様じゃないか」

 ひとつ、瞬いて。真意の見えない顔でユンファは笑う。
 まあね。
 そう言って押し黙ってしまうから、その沈黙が嫌で、どうしてか僕は居心地が悪くなる。
 僕は正論を言ったまでだ。可笑しいのはユンファの行動で、一国の王が使用人に会いに来るなんて、あってはならない常識のはずだ。だから僕は堂々としていればいい。胸を張っていつもの様に強気に、「アンタは間違ってるんだ」って言ってやればいい。
 ああそれなのに。

(そんな顔しないでよ…)

 迷子の猫のように悲し気な目をする。いつも本心を人に見せない強国の王が、僕の前だけ情けない顔をする。その顔に僕はいつだって騙されるんだ。

(でも今日は、負けない)

 このままじゃいけないと常々思っていた。この立場に甘んじてはいけないのだ。シーツの上に置いた手をぎゅっと握り締める。黒の目を真っ直ぐと見る。
 完璧な王になれとは言わないけどね、そう切り出した。

「ひとりでいろんなものを抱え込むのは君の悪い癖だ」
「ルックには言っている」
「それがいけないんだ」

 静かに首を振る。

「アンタは王様だよ。使用人なんかに相談する前に、もっと話すのに相応しい人間がいるだろう」
「例えば?」
「アンタを支えてくれている補佐や軍師、隊長とか」
「それは階級のことを言ってるの?」

 ふとこっちを真っ直ぐに射抜く、黒の目にぞっとした。
 王の目をしていた。
 付け入られるからと誰にも真意を見せないで仮面を被った顔をする、人形のように感情が見えないのが恐ろしく怖い。恐怖政治だと影で言われる所以たる表情で薄く笑う。

 手を伸ばされた。掴まれた。もう逃れない。
 手首を掴まれ反対の手は絡められる、どさりと体重を掛けられて寝台に倒れた。
 窓からの逆光でユンファの顔は常人ではよく見えないだろうが、生憎昔から暗いところで育って夜目が効く僕には、しっかりと男の顔を見てしまった。
 仮面が崩れ落ちそうなのに縋り付いて絶対に手放さない、ぐちゃぐちゃな顔をしているのに平然を装って愚痴のひとつも言わない、ああいつからだろう、僕が彼の仮面を紐解く存在に成れたら、そんな馬鹿げた望みを持ってしまったのは。

「ルックはこの国のためならなんでも出来る?」
「当たり前だろ。生半可な気持ちでこんなところにいるんじゃない」
「強いな、さすがルックだ」

 王は緩やかに笑う。
 じゃあ、俺の相手をして。

 月が雲間に隠れる、光がない中で目を合わせたまますべてを奪われるように口付けられる。息苦しさと悲しさに目を閉じた。
 嘘吐き王め。僕に言ってないことなんて山ほどあって、素顔なんて誰にも見せていないじゃないか。会いに来て愛を囁いて会いたいと言う、近くに居ることは許してくれても全てを委ねてはくれない。信用されていない証拠が悔しくてたまらなかった。所詮僕も彼の周りにいる有象無象の中のひとつなのだ。

「そんな顔しないで」

 銀色の糸を引いたその先で困ったように笑う。アンタのせいだと言えば綺麗に笑う。
 そう。じゃあ俺のことだけ考えてて。
 傍若無人で完璧完全の王はそう言ってまた距離を零にする。必死な姿にまた僕の方が完敗だ。またほだされて許してしまう。受け入れてしまう。でも知ってた。本当は、

「ねえルック、すきだよ」

 本当は、僕のほうがアンタに近づくことを許してほしいんだ。



Tomb Of a King