ぼくはただ、聞こえないふりをしました
昔からその呼び声は突然聞こえてくることが多かった。
用もなくふらふらと歩いている時や部屋で書きものをしている時とか、とにかく場所も時間も関係なく、グレミオはひとつ覚えだと言わんばかりによく己を呼んでいたように思う。
用件もばらばらだったけれど、グレミオは口癖のようにその言葉を一日に何度も言った。
『ぼっちゃん、』
「………………」
ふと廊下を歩いていた時ユンファはその呼び声を聞いた気がした。
振り向いてみるが、もちろんそこには誰の姿もない。
長い廊下の真ん中にユンファはひとり佇み、重い頭を振ってしっかりしろと自分に言い聞かせた。
スカーレティシアを攻略した後のことだ、常に自分の後を付いてきたグレミオの染み渡ったその呼び声ももう聞こえることはない。
立ち止まった足を進めて、ユンファは広い部屋へと戻った。
誰かが入れてくれた蜀台の火のおかげで暗くはない。ユンファはばたりと寝台へと倒れこむ。
軍務の疲れの他に身体がひどく重たくかんじられた。
ユンファは顔を半分シーツに埋めて、ぼんやりとしたまま先ほどの幻聴を思い出した。
常に自分の傍にいて、それを苦だとも言わず当たり前のようにそこにいた心優しき男の―声。
グレミオがいなくなってからも、ユンファはその呼び声を度々耳にしていた。
もういないのだと心に整理はついていても、その声を聞くとどうしても辺りを確認してしまう。今にも笑いながら呼んで駆けてくる、そんな気がしてならなかったのだ。
その呼び声を聞くと。
「……しっかりしろよ…」
シーツに顔を埋めて、ユンファはそう自分に言い聞かせる。
重い溜息を吐いて起き上がるとバンダナを外し、ユンファは一番下のチェストを開けた。
蜀台の火がそれをぼんやりと照らす。
そこには汚れている茶色のマントが綺麗に折りたたまれて入っていた。
グレッグミンスターから逃げる時、雨が降っているからとグレミオが己の外套をユンファへ貸したものだった。
ユンファはそれを眺めて、呟く。
「なあ、グレミオ。何か心残りでもあるのか?」
呼び声を聞いたり、ふとした瞬間にそこにいるような気がしてならない時がよくある。
きっとグレミオがいることは自分にとって、それほど普通の一部として受け入れていたのだろう。昔からグレミオは傍にいて、それが自然だったのだ。
正直言って、甘えていたと今頃思う。守られていたのだと―――今になって気付く。
ユンファはグレミオのマントをそっと撫でると、右手を重く上げて目を細めた。
グレミオの気配を時々かんじてしまうのは、幻聴が聞こえるほど染み付いているからだ。
右手が熱い。生と死の紋章と忌み嫌われているソウルイーター―――もしかしたら幻聴の原因は、この右手に彼の魂が眠っているからかもしれない。けれどそのせいだとは絶対に思いたくなかった。
グレミオがそこにいるということは、魂をその牢獄へ閉じ込めているということ。
死んでまで何故好きなところへ行けない。認めたくはなかった。
昔、もうずっとずっと昔だ。
母が死んで寂しさに塞ぎこんでいたことがあった。
多分グレミオを除いて誰も気付いていなかっただろうとユンファは思う。
幼すぎてよくは覚えていないが、幼心に心配は掛けまいとその気持ちを表にも態度にも出すようなことはなかった。
ただ父も滅多にいなくて夕方の町中、手を繋いで母親と子どもが家路に帰っているのを見ると、抑えていたものがぎゅーっと溢れた時があって。
その時は家に帰らず、路地裏の木箱の後ろに隠れたりもした。
多分構ってほしかったのだ。迎えに来てほしかった。
誰も来ないとはわかっていたけれど。
「ぼっちゃーーんっ!」
けれどしばらくしてグレミオがやって来た。
定時に帰ってこないから必死になって町中を探していたみたいで、大量の汗を掻いていた。
でも木箱の後ろに座っているユンファを見つけた時、グレミオは怒るでもなく安心したように笑うのだ。
さあ帰りましょうと、手を繋がれる。
なんで場所がわかったの? と聞くと、グレミオは嬉しそうに笑って答える。
「グレミオにはぼっちゃんが隠れている場所がわかるのです」
確証も証拠もないグレミオらしい曖昧な答え。
ほんとかなあと疑うと胸を張って断言するものだから、それからよくかくれんぼをして遊ぶようになった。
そこまで言うのだからと意地悪くわかりにくい場所に隠れると、けれどグレミオは結局探しきれずに泣き言って、ユンファが自分から出てくることもしばしばで。
けれど本当に見つけてほしい時は確実、魔法かとでも思うぐらいどんな場所でもグレミオは探し出して、
ぼっちゃん見つけましたよと笑うのだ。
次の日の朝、そんなことを夢に見たけれど、だからといってどうすることもなかった。
いつも通りに軍務を行うだけ。
けれど何故か青空が広がるその日、ふと地下への入り口の前を通りかかった時、ユンファはその誰もいない地下へ入ることにした。
まだ作り終えていない場所だから、今はただの倉庫と化している。
人もいなくてかび臭い、空も見えない暗いだけの場所。
その一角に汚いのも気にせずユンファは座り込む。
目を閉じて、しばらく待った。
遠くで反響するように城のざわめきが聞こえるけれど、待つものは来なくて。
一体何に期待しているのだろう、しばらく待つと、ユンファはあーあと喉の奥で笑った。
「何やってんだ、俺は…」
なんだか可笑しくて、壊れたようにくつくつと笑う。
何をやっているのだろう。こんな風に隠れても、もう聞こえてくる音も声もないというのに。
何をしているのだろう、もうあの声が聞こえないんだ。