確かにこれはだった。紛れもなくそうだった。


噂を聞いて居ても立っても居られなくて、真意を確かめるべく出向いた先でカスミはその姿を目にする。
かつての英雄は昔と変わらない姿で、森の小さな湖畔に釣糸を垂らしていた。
ああ、いったい何年ぶりだろう。思ってもいなかった再会にカスミの胸は大きく高鳴る。そうだ。この高鳴りも昔のままだ。
声を掛けようかどうしようかカスミが迷っていると、驚いたことに湖畔に目を向けたままの彼の方から声を掛けてきた。

「…カスミか? 久し振りだな」
「え、あ、はいっ! お久し振りです!」

つい反射的に焦ったようなお辞儀をしてしまうと、彼は少し笑ったようだった。

「変わらないな、カスミは。後ろ向いてもいいか?」
「い、いけませんっ!今の老いた私の姿なんてとても見せられませんッ!」

彼の姿は変わらずとも、カスミは確かに歳を取って変わってしまったのだ。
両手をブンブンと勢いよく振って慌てて木の後ろへ隠れると、恥ずかしいことに彼にはそれが分かったようで今度は声を上げて彼が笑った。その笑い声だけでカスミの胸は張り裂けそうだ。
ああ、ああ、やっぱり私はこの人が愛おしい。
それから時が経つのも忘れて、姿を隠したまま、カスミは彼と久方ぶりの言葉を交し合った。騒ぐ鼓動、諦めていた想いが体中を駆け巡って息苦しかったが、でもそれ以上に彼と話すとりとめのない話がまさに夢のようで。
カスミは幸せだった。
でもその夢の日もたった一日しかもたない。
次の日同じ場所に向かってみれば、そこに彼の姿はなかった。





それからまた幾ばくかの時が流れた。
カスミはたびたび暇を見つけては、未だにあの森中の湖畔へほんの僅かな期待を持って通っている。
年月が経つにつれ回数は減ったものの、やっぱりどうしても来てしまう。あの幸せな夢はもう一生味わえないだろう。そう自分自身に言い聞かせても足は知らずあの場所へ。カスミは今日もその場所へと降り立った。
そしてそれは、居た。湖畔の前で何をするでもなく静かに佇んでいる。
夢じゃないのか? 驚きに目を瞠るカスミを前に、彼の抑揚のない声が響く。

「なあ、ルックを知らないか?」





カスミは森を駆けた。獣よりも速く、らしくもなく木に足を取られながらも息が止まりそうになりながらも必死に駆け続けた。
あの場所へ早く辿り着かなくては。あの湖畔へ、彼が待つあの場所へ、早く、はやく。いろんな感情がカスミを鬩ぎ急かす。

―――カスミは、あの日、彼からルックを知らないかと尋ねられた時、咄嗟に嘘をついてしまった。
探しているのだと。でもどうしても見つからない。ほんの少しの手がかりでもあればいいんだ、どこかで楽しく幸せにやっているのなら会えなくてもいい。なあ、何か知らないか?
そう聞いてしまったカスミは思わず、『知っていますよ』と答えてしまった。気付いた時にはそう口走っていた。
悪いことだとはわかっていた。でも彼が困って助けを求めている、少しでも彼の助けになりたい。そんな想いから練りだされた嘘だと信じていた。
『実は彼とひょんなことから連絡を取っているのです。彼は今別の戦争に加わっていて、その戦争に忍びも関わっているから多少だけど彼のことを知っていますよ。今はまだ戦火も厳しい、落ち着いたなら貴方に連絡しましょう、それから会いに行けばいいのでは? それまでは私が彼の様子を伝えますよ。』
これまで生きてきた中で最高の嘘をカスミはつい昨日まで吐き続けた。ふとひとりに戻ったときの己の惨めさはどうしようもなく重く。何度偽りでしたと明かそうとしてきたことだろう。
けれど嘘をつき続けなければ彼とのたったひとつの糸が途切れてしまう。関わりがなくなる。そうなればもう二度と彼とは会えないかもしれない。
そう思うと、声が出なかった。
でもそれももう終わりにしなければならないのだ。
カスミは悲鳴を上げる足を叱咤し、もっともっとはやくと急かした。
はやく、はやく彼に真実を伝えなければならない。
今朝方聞いた噂を思い出す。この地とは別の場所で、魔物を率いて村を焼き戦渦を巻き起こしている者の名前――。
信じられないその名前を聞いた時カスミはすでに走り出していた。そして同時に気付いた。彼に吐き続けていたのは罪だったのだと。もっとはやくそれに気付いていれば、手遅れにはならなかったかもしれない――。




走り抜けた先に、カスミはようやく湖畔へと辿り着く。
カスミにとって夢を見せてくれた場所は、何もかもが過ぎ去ったみたいにひどく静かだった。鳥も木の葉も鳴らない。そこに求めた彼の姿はなかった。
カスミは愕然としながら膝をつく。どうしよう、とんでもないことをしてしまった。
噂によればハルモニアの後ろ盾がなくなったルックを倒すべく、もうその戦いが幕を切って始まっているらしい。ルックの命を奪う戦いだ。
もっとはやくに真相を知っていて彼に言っていれば、彼はきっとルックの所へ行っただろう。そうすればどんなに敵がいようと、ルックの命は生に傾く。あの方は運命を捻じ曲げる不思議な力を持っているのだ。
それなのに、彼を引き止めていたのは私の嘘のせい。
彼の幸せを一番望んでいたはずなのに、それを奪うような真似を、わたしは。
ボロボロと止めなく後悔の涙が溢れる。苦しい。なんて苦しいのだろう。彼は私に幸せな夢をくれたのに、私は彼にとって迷惑者でしかない。
カスミにはどうにか彼がルックの元に間に合うようにと、祈ることしか出来ない。

「………ごめんなさいっ……」

カスミは地面に爪を立ててしばらく泣き濡らした。
ようやっと立ち上がることが出来たとき、カスミが見た湖畔はもう夢の場所ではなくなっていた。後悔と罪に塗れた場所。
脳裏に初めてここで再会したときのあの笑い合った光景が蘇る。幸せだった。
目元を腕で擦り、カスミは踵を返す。もうここへは二度と来ないだろう。
彼との思い出も彼への想いも、全部ぜんぶここへ置いていこう。もうすべて夢にしなければならないのだ。
拭ったはずなのにまた涙が込み上げてきて困った。