目の前に不快な光景が広がっている。
どうしてこうなっているのだろう。ふと気付いた瞬間ルックは確かに自分の隣に居て、よくは覚えていないのだけれど何かの話をしながら俺たちは一緒に歩いていたはずだ。いつものように口争いも喧嘩もなく、今思えばそれこそ自分でも信じられないぐらい穏やかな時を一緒に過ごしていたように思う。どこかあやふやで霧がかった映像だったけれど、ルックは隣に居て彼にしては珍しく笑っていたのだ。
それが今ではどうだ。
隣にルックの姿はない。
ルックと己しか登場しない世界に、突如見知らぬ娘の姿が霧の中から浮かび上がってきたのだ。
娘はこちらに背を向けて少し離れたところで佇んでいた。
見たこともない子だ。離れた彼女の姿は妙に白い霧に邪魔されて完全に顔を見えない。が、何故だか胸中でははっきりと『知らないやつだ』という明確な答えがユンファの中ですでに出ていた。何度考えてもヒットする人物はいない。
しかしルックはその姿を認めた瞬間、叫んだ。
こんなに近くに居たのに、不思議とルックがなんと言ったかは聞き取れなかった。
『 セラ 』
ルックはなんの躊躇も迷う素振りもなく、己の元をさっさと離れその娘へと駆け急ぐ。瞬間ユンファが出来たことと言えば、あっ、と情けない言葉を漏らすだけで。
すぐに後を追いかけてルックを捕まえようとした。
しかしどうしてか、いつの間にか目の前に透明なガラスが突如出現したみたいでユンファは立っている位置から一歩も踏み出すことが出来ない。ほんのついさっきルックが通ったというのに、この透明な壁はいつのまに立ったのか。まるで見えないバリアが張られているかのように空中には手応えのある境界があるのだ。
結果、ユンファは呆然とひとりその場に残され、ルックと見知らぬ娘の感動の再会を思わす抱擁の光景を見る羽目となり今に至る。
回想終わり。
ユンファは腕を組んでなんとも言えない顔で、見えない壁の向こうからルックと娘の“兄妹のような再会シーン”を見守っていた。(正しくは見るしかなかったのが)
しかし苛々は募る一方だ。
問題がひとつだけある。
ルックが嬉しそうなのだ。
ユンファも見たこともない(レックナートだって目撃したことがあるかどうか怪しいぐらいの)ルックとは思えないほどの優しい微笑を浮べて、大切そうに少女を抱き締めている。
これは由々しき大問題。これでは“兄妹”の再会ではなく“恋人”の再会ではないか。
玩具を取られた子どものように年甲斐もないことで腹を立てているとは自分でも思う。けれど、おもしろくない。
(ここでもしシーナでも居てユンファの心理をそっくりそのまま伝達することが出来たなら、一言、「バカでえ」と心底呆れるだろう。が、今なら自制することなく衝動で殴れるとユンファが拳を握るほど、ユンファとしては易々流し難い光景なのだ。)
ああなんて憎たらしい壁であろう、これがなければ今すぐルックの元まで歩み寄って、有無を言わさず少女とルックの抱擁を引き剥がしその身をこの腕に捕らえてみせるのに。触るな。これ以上近づかないでくれ。ルック、行こう。そうして引っ張っていくのに。
「……はあ」
持て余す衝動に息を吐く。
まったく、らしくない。女の子ひとりに狭量がなさすぎるじゃないか。そこまで狭量のない人間だとは自分でも思いたくない。
でも。
あの目が、ユンファの中でぐつぐつと煮え立つ嫉妬心をぐりぐりと刺激して、さらに沸き立たせる。
ルックに抱き締められ、ルックの背中に手を回している少女の碧い目が、ルックの背中越しに時たまこちらをちらりと見るのだ。そして微笑む。ほら、この方はわたしだけのもの。あなたになんか渡さない。渡してなるものか。
瞳は透き通るように碧い。
その静かな色とは一見似つかわしくない、強い燃え滾る攻撃的な視線を仕掛けられる度にユンファの中でちりりと火花が爆ぜる。
(そっちがその気ならこちらはいつでもお相手しますよ?)
幼稚な嫉妬心。大人気ない思考は声には出ず、口の端を吊り上げさせる。
少女が立ち上がってゆっくりと目を閉じた。
つられるようにユンファも瞬きをする。
目を開けるといつの間にかルックは消えていた。
少女だけがそこに立ち、いつの間に持っていたのか魔法用のロッドを緩やかにユンファへ向ける。立って見ると少女はユンファより頭ひとつ分小さいほどの身長だ。碧い瞳が見えた。少女が口が開く。抑揚のない声だが顔が厳しい。
「あなたは絶対にあの方を手放します。だからわたしは、そんなあなたに負けるわけにはいかない。絶対」
相手の言っている意味はよくわからないがこれは挑戦状だ。ユンファはそう思った。
受けて立ってやる、そう意気込んだ時、少女の後ろがゆらりと揺れた。
霧がさっと流れて、女の後ろに男の姿が出現したのをユンファは見た。すぐにわかった。
「ルック、」
髪も短くて服も違うが、確かにルックだ。わかる。
大人びた雰囲気のルックが少女の後ろに立ち、そのポジションはまるで「僕はこの娘の味方だよ、あんたの傍じゃない」と物語っているようであった。
その瞬間ユンファの中にどうしようもない敗北感が満ちる。
そこで目が覚めた。
「……、アンタ、暇だからって一日中僕に付き纏われても困るんだけど」
「ルックが離れないように、監視」
「は? 何言ってんの?」
同盟軍の城に平和な午後の日差しが降り注ぐ。いつもの石版前、いつもの場所で、ルックはどうやっても自分の傍を離れようとしないユンファを後目に、コツンと杖を叩いて息を漏らした。どうやら夢見が悪かったようで、会ったときからコレだ。傍を離れないだけではなく逐一視線を向けてくるのでいい加減どっかへ行ってもらいたいのだが、なんとなくいつもと様子が違うようで、強くあしらえずにいる。
結果、くっつき虫だ。疲れたと言わんばかりにルックは石版に背を預けた。
「なに、じゃあその夢ってどんなのさ。それが原因でキミはこんな行動を取っているんだろ?」
さあ言ってみなよ。聞いてあげるから。ルックとしては存分優しく問うた方である。タイル張りの床に腰を下ろし壁に凭れているユンファは、ルックをじっと見上げむくれたようにそっぽを向いた。一言。
「言いたくない」
「…呆れた。なに子どもみたいなこと言ってるんだよ。まさか夢を忘れたって言うんじゃないだろうね」
それは覚えている。覚えているから腹立たしいんだよ。
真っ向から食ってかかって来た少女の顔は忘れてしまったが、あの目覚めた瞬間の、染み渡った敗北感。思い出しただけでも顔が歪む悔しさ。くそっ。
夢の腹立たしさを癒すべく、その日一日中ユンファは番犬さながらルックに付き纏った。
目が据わっていてルック以上に不機嫌オーラ全開、偶然出会ったシーナを脅して少しは鬱憤を晴らしたものの、しばらくユンファの独占欲は収まりそうになかった。