あの人に助けられてから、私は生きはじめた。


みどりのそら



冬中の町には遠慮なく北風が吹いていて、けれど慣れ親しんだ島のように寒くはなく、そして厚着をした人間がいっぱいいた。
こうして町へ来たのは3度目だろうか、孤立した島で2人の人としか関わりをもたないセラにとってはまだ馴染めない場所。
小さな手には先ほど店の人に貰った赤い風船が握られている。
それをゆらりと揺らして行き交う人たちの流れに逆らって、セラは見るものを何一つ信用すまいとした目で警戒心むき出しに歩いていた。
ここまで一緒に来ていた大切な人はいない、ひとりだった。
途中までは手を繋いで歩いていたのだけれど、きょろきょろと目移りしているうちに気がつくと逸れてしまっていたのだ。
どこに行ったのでしょうかと、だからセラは慣れない場所をひとりで歩いて、その人を探していた。
心細いけれどあの人は勘もいいし風を読む方だ。すぐに見つけてくれるだろう。手には赤い風船があるから背は低くても目立つ。
けれど待っているだけというのは嫌だったし、何よりセラは思うのだ。
“探してくれる”より“探したい”。心がそう急かす。
あの人は波に飲まれて消えるような儚さを持った人だから、だから早くその姿と声を聞いて安心したかった。


狭い部屋に幽閉されていた時に会って、セラが初めてその人に触れたのが声だ。静かなのに切り離すことのできないような、本能的に刻まれた声の様でもあった。
そして月に照らされた翡翠の目を認めた瞬間、セラはもう目が放せないでいた。
今までみたことのない瞳、他の誰にもない輝きと深い色を持っている。
人間ではないようで、月を背後に従えた誇り高き人。


その手を取ってから、セラの命はそこからはじまった。


そして島に連れられそこでその人の師と彼と3人で暮らし始めて、セラにはわかったことがある。
その人は何にも染められない強い色をしていると同時に、何かに埋もれてしまうような弱さももっていた。
そしてその翡翠の目で度々目を細めてどこか遠くを見る。綺麗な花を摘んで帰ると何故か悲しそうに笑う。
セラはそれを見る度に不安になって何度も口に出しそうになった。
一体何に想いを馳せていらっしゃるのですか―――と。
けれど未だにそれを尋ねたことも聞けたこともなく。それはいつも心の奥に潜ませていた。
彼の人に想いを抱くセラだからこその、誰にもわからない小さな小さな変化だったけれど…。

「あっ、」

考え事をしているといつの間にか閑散とした広場に来ていて、そこで突然吹いた強い風と舞い上がった砂にセラはぱっと手に持った風船を離してしまった。
薄い空を背景に、対照的な色をした赤い風船は声を上げる間もなく、風に煽られ手の届かない場所へ飛び立ってしまう。
特に惜しいわけでもなかったが、セラはそれを咄嗟に追いかけた。
赤い風船はセラの視線の先で木の枝に引っかかり、そのままゆらゆらと揺れている。
久し振りに走ったセラははあはあと白い息を吐いて木の下へと辿り着いたけれど、跳んでも手が届きそうもなくてただ見上げることしか出来なかった。
と、

「ああ、木に引っかかったんだね」

後ろから慣れ親しんだ声を聞いて、セラは振り返った。
隣に並んだルックは木の枝に引っかかり、行く場を失った風船を見上げている。

「ルック様…、」
「肩車でもしてあげれば届くかもしれないけど、僕にはできそうにないな」

大丈夫です、セラは別に入りませんから。
それが困ったようにも聞こえてセラはすぐにそう言おうと口を開いたが、けれどその人の口から『あいつならともかく』などという言葉が聞こえた気がして、セラは歯痒い気持ちになり結局は口を閉じた。
ルックの声も目も好きだけれど、その色が篭った時は別だ。
ルックが誰かを想っている時だから、そしてルックはその人を―――…。

ルックがふっと手を横に払うと魔力の風が一瞬で糸を切った。漸く解き放たれた赤の風船は名残惜しさも見せずに高く空へと飛び立つ。
セラとルックは揃ってそれを見送った。

「こんなところに繋がれて萎むより、どこか知らない場所で萎むほうがいい。自由のほうがね」
「じゆう……」

赤の風船が風に乗って高く高く飛び、もう豆粒程度にしか見えない。
セラはぽつりと呟いて、「まだ入るかい?」というルックの問いにセラは首を振った。
小さな赤い風船を見続ける。


ルックは知らないのだ。
ルックが想い懐かしむ人にあの風船を取ってもらうよりも、セラはルックの手で空に放ってもらうほうがいいのだと。セラはそれを望んでいるのだと。
ルックは知らない。
あなたの心は此処にはないから、あなたはずっと気付かない。
悔しくて悲しくて寂しいけれど、でも、それでも、


「帰ろうか、セラ」
「……はい」

そう言って差し出される手を離すことはできない。
たとえ何に拒まれようとも、あなたの手で放ってもらえるなら、セラはそれでいいのです。


ルックが何に誰に想いを寄せようともそれをわかっていても、セラはルックの傍にいたかった。
セラはルックの手で飛び立ったあの風船になりたかった。