力を解放すると黒い闇がそれらを命ごとの呑み込む。
断罪のごとく森中に断末魔が響き渡る。
それを無感動に直視できるようになるまで、そう時間は経たなかった。


やがてひとになる



ひどい手傷を負いながらもテッドは足を止めることをしなかった。止まればすぐに追いつかれると知っていたからだ。
腕が焼けたようにひりひり痛み足首が悲鳴を上げている。
けれど木に縋りつきながらでも、テッドはほんの少しずつでも歩を進めた。
食事を終えたソウルイーターが熱を持って、うずうずと左手の中で蠢いているような感触がわかる。しばらく一緒にいる間に、こいつが考えていることだとかそういうことが、何となくわかるようになってしまった。
まだ喰いたいと、叫んでいる。
けれど今は逃げることの方が先決だ。
テッドは幹を掴んだ手をぎゅっと握り締め、後ろを振り返った。奴らはまだ追いついてきてない。諦めたのならいいのだが、楽観的にもなれない。この呪いを知らずに真の紋章と力があるというだけで、奴らは執拗に追ってくるのだ。
森の中をひたすら当てもなく息を切らして進み、テッドはふと何かを感じて顔を上げた。
いつの間にか、少女のような風貌をした人間が、ひとり腕組みをしてそこに立っている。
白髪の女はテッドを上から下までじろりと観察すると、呆れたようにひとつ溜息を吐いた。

「なんじゃ、そのやられようわ。差し詰め命辛々逃げているというところか」
「ははっ。人の様を見に来るなんて、そういうおまえも相変わらず暇人だなあ」

シエラの姿を認めたテッドは、薄く笑って大きな石へ腰を下ろす。
長いひとり旅というだけあって、本当に数少ない知り合いの顔を見ると自然と気が抜けてしまう。誰かが来てもシエラが追い返してくれるだろうという意思表示ならば、読み取ったかそうではないのか、シエラは嫌そうに顔を顰めた。

「言っとくが何があっても妾は手を貸さぬぞ。面倒じゃからな」
「はいはい。何かあったら俺が対処するさ。
 けどしばらくはここにいろよ。俺もちょっと休みたいし」

ひらひらと手を振って両腕に体重を掛けて仰け反ったなら、高い木々の葉の間から木漏れ日が降り注いでいるのが見えた。
ここしばらく鬱蒼とした場所ばかり歩いてきたから、久し振りに見る良い天気だ。
途端実感する。
―ああ、疲れた。
ソウルイーターを受け継いでからというもの、テッドは逃げてばかりだ。この紋章は誰にも渡してはいけない。一族がずっと守ってきたものだから、テッドもこの紋章を守り隠し通さなければいけない。村はもうとっくになくなり、休める場所などないのだけれど。
テッドは歩くことをやめない――――止まってはいけないのだ。
止まったら、あの夢にも追いつけない気がしてならなかった。
今のテッドを動かしているのはその小さな小さな希望だ。
ふつふつと沸き起こるそれに動かされながら、テッドはにやりと笑みを刻むと、「よし」と膝を打って立ちあがった。

「じゃあそろそろ行くかな」

そう言うなりテッドはまた森の奥に進もうとする。やっぱりこの男は決して留まろうとしない。どうしてだろうか?
ゆったりと脇を通りすぎるテッドを見ながら、シエラはその問いをぶつけてみた。

「お主はそんなに行き急いで何処に行くというのじゃ?」

ぴたり。
テッドはそれに足を止めると、振り向いてにかりと笑った。

「昔、『未来で絶対会おう』って約束した奴がいるんだよ。だから俺は、そいつに会わなくちゃいけないんだ」

そう言って笑う、テッドの笑みがその紋章とは不釣合いすぎて、シエラはそれに目を瞠った。
そこまでその約束とやらが大事だというのか。
それがテッドを突き動かしているというのは一目瞭然で、シエラは「そうか」と息を吐くと指をすいっと動かした。
淡い月の光のようなものが、テッドの身体をふわりと包み込み傷を癒していく。

「では妾から頑張っておるお主に餞別じゃ。その足で歩いていってみるがよい」
「…ありがとう、シエラ」



闇がぐしゃりと何かを呑み込む、音がする。




覚えている姿は曖昧で、はっきり言ってそいつの顔さえテッドは覚えていなかった。
多分すれ違ったとしてもわからない。
けれど言葉はしっかりと記憶にある。
姿も格好もどんな顔かも、塗りつぶされたようにわからないけれど、その言葉だけは覚えているのだ。
『未来で絶対会おう』
このソウルイーターを持っている未来で、テッドはこの少年と出会うのだと。その時理解した。
最初はしばらく夢だと思っていたものだ。逃げ惑う日々、ひとりという寂しさに紋章の辛さ。それらが生み出した都合のいい幻想なのだと。
しかし寝ている間に度々そいつの姿が蘇ってくる。
相変わらず姿は塗りつぶされているものの、確かにその口で、手を差し伸べてやっぱりこう言うのだ。
『未来で絶対会おう』
――いつからか、その言葉だけがテッドの支えだった。
ああ、俺はいつかこいつに会うんだ。会ったらきっと、楽しいことが待っているに違いない。きっとそうだ。
思えば思うほど、足は嘘のように軽くなって、光も見えてきた。
だから、大丈夫。


「ば、化け物っ!!」

音もなく真っ黒な闇が人間を包み込み、飲み込む。
一緒に襲ってきたモンスターも喰ってしまったようで、何とも表現のしにくい絶叫が辺りに響いた。
どうしてだろうか、血がぴゅっと飛んできて、それが頬に付く。
ぬたりとした血を手の甲で無造作に拭い、テッドは命が闇に喰われる光景を無感動に見下ろしていた。
闇が消えた後にはいつも何も残らない。

「………化け物、ね…」

男の最期の言葉を反芻して、テッドはゆるりと頭を振ると、また歩き出した。
まだだ。まだ止まるわけにはいかない。
何と呼ばれようと、化け物と言われようと、俺はあの語りかけてくる夢の人物に会わなきゃいけないんだ。
テッドは歩き続ける。
求める先にあるのはひとつの旅の終わりで、
そいつの手を掴むことが出来たなら、俺はきっと、人間になれるんだ。
そう願ってならなかった。