を見させてくれて


人魚姫という童話がある。
どこの国からどうやって伝わってきたかは不明、けれど古くから話し伝えられている物話だった。
悲しい恋の話だ。ひとりの人魚が助けた人間の男に恋をし、人魚は男に会いたいが為に魔女に声と引き換えに人の足を貰う。
「もし男が他の娘と結婚すれば、あなたは泡となって消える」
魔女の警告を胸に秘め、人魚姫は歩くたびに痛む足で男のいる世界へとやってきた。けれど声を出せない人魚の姫は自分が男を助けたのだと言い出せない。やがて男は別の娘を命の恩人と勘違いし、男はその女と結婚をしてしまう。人魚は泣き崩れた。人魚の姉たちは髪と引き換えに魔女から貰った短剣を差し出し、こう教えてくれる。
「あの男を短剣で刺し、男の流れた血で人魚に戻れるのよ」。
けれど人魚の姫は愛する男を刺すことができなかった。人魚は自ら死ぬことを選び、泡と消え空気の精となって天国へと昇る。
伝わっている童話はそういう話だった。

「悲しいよね、このお話。あたしこういうのに弱いの。すっごく悲しい」
「……。だからなんだって言うのさ」

何がどうなって今こうなっているのか、ルックはビッキーに捉まり一冊の絵本を読み聞かされていた。横一面に挿絵があって、大きな文字で堂々と文章が書かれている子ども向けの本だ。それを膝の上に広げて、ビッキーは声に出して読む。
いつものほほんとしていて昼になれば欠伸をかまし、立ったままうとうととして時にはそのまま器用に寝ている、それは子どものように行動が素直な彼女らしいことだけれど、
ルックとしてはどうしてここに自分がいるのか納得がいくものではなかった。


一通り本を読み終えたビッキーはまたページを捲り返して、そしてきょとんとルックに視線を移して口を開く。

「ねえねえ、そういえば人魚姫は声と引き換えに人間の足をもらったけどね、ルックくんは何と引き換えにそんなに強い魔法をもらったの? ルックくんの魔法ってすごいよね。生まれつきかな?」
「…………。何と引き換えに?」

ルックはその問いかけにぴくりと細い眉を持ち上げ反応した。
その問いはまるで己の出生を聞かれているようにも捉えれたからだ。
どういう意味で聞いているのだろう。ルックはビッキーの問いの真意を見極めようとする。
しかしビッキーは、
ただじっとこっちを見つめてきょとりと首を傾げているだけ。大きな目でくりくりと、無邪気に見て答えを待っているだけだ。
それと真剣に向き合って約十秒、なんだか馬鹿らしくなってルックは息を吐いた。
思えば立ったまま寝ているような天然娘が、そんな深いことを考えるはずがないか。

「…アホらし。そういうキミは何と引き換えにそんな危なっかしい魔力を持っているっていうのさ」
「あたし? う〜ん…あたしはね、なかなか家に帰れないことかなあ。あたしよくどっか別の所に飛んじゃって失敗するからね、家に帰ることができないの。でもいろんな場所に行けるから楽しいけどね」

にこにことビッキーは何も考えてなさそうな顔で笑う。
そしてルックくんは? と促す。
ルックはふっと息を吐いて遠い空を見た。青く遠いそれを見た後、目を閉じてルックは口を開く。

「夢だよ。この魔力と引き換えにもらったのは、灰色の夢さ」

この強力な魔力と引き換えに得たのは、色のない完全なる未来。
ビッキーのように楽しむこともない、圧倒的なそれを見せ付けるだけの苦夢を得ただけだ。
つま先でコツンと地面を叩いてルックは俯く。
ビッキーはそれをぱちくりと見て、そうだね、と言った。

「色のない夢なんて哀しいよね。そんなの見てもちっとも面白くないもの。
 でもね、」

ビッキーはぱらぱらとページを捲ってあるページを開く。人魚姫の尾が人間の足に変わり、人魚姫が愛する男を求めて探しているページだ。
ビッキーはそこに描かれている絵をさらりとなぞった。

「人魚姫はね、人間の足を貰ったけど歩くたびにナイフで抉られるような痛みを感じるんだって。
 でもこの絵の人魚姫笑ってるの。きっと王子さまと一緒に過ごすことを考えてるんだと思うな。それってすっごく幸せな夢だよね」

そう言ってビッキーは柔らかく微笑む。
なぞった絵の人魚姫は彼女の言う通り苦痛を感じているようだけれど、それ以上に痛みに耐えて幸せそうに微笑んでいるようにも見えた。これから男と共に歩むことに、心躍らしているように。
ビッキーはくいっと横に立つルックを見上げると、その無垢な子どものような笑顔でにこりと微笑んで言う。

「ねえルックくんはどう? 灰色の夢だけじゃなくて、人魚姫みたいに他にも素敵な夢を見つけられた?」

痛みを――灰色の世界を忘れさすような、そんな凌駕する夢を。
………。該当する人間が、ひとりだけいた。
世界には絶望の未来だけではないと、鮮やかさと眩しさと強さを見せ付けてくれた、あの真っ直ぐと立つ人間が。
ルックはビッキーの言葉にぱちくりと瞬きすると、胸の底から込み上げてくるその想いに目尻を下げてゆるく笑った。

「……そうだね」

彼がもたらした夢は、今もしっかりと色濃くはっきりと輝いている。
一面が希望の色に染まった夢だった。