さんとの新年


 朝の冷たい風が肌に突き刺さる。色に例えると朝靄に光が射し込んだような白色だ。痛いという感触はないけれど、眩しさはそれに似ている。
 夜勤を終えた沖田は上着のポケットに手を突っ込んで大きな欠伸をした。
 眠たい、疲れた、腹減った。
 揃ってほしくない三拍子が見事に揃い、着飾って歩く周りとは裏腹に足を引き摺る沖田に正月色は皆無である。
 正月は休む人が多く稼ぎどころであるだけに、いつも以上に動き回って稼ぎまくった沖田である。当然ながら疲労色が強く、店先から聞こえてくる正月特有の音楽に頭がクラクラする。

(何か食うものあったっけ…)

 一歩一歩足を進ませながら考えるが、頭の中に浮かぶのは空っぽの冷蔵庫で、足を進ませる材料には何もならない。出るのはため息ばかりだ。ああ、疲れた。

(土方さんが居たらなァ)

 寒い空気に白い息を吐きながら、ついつい沖田は神頼みならぬ隣人頼みをする。
 いつも何かしら物音が聞こえてくる隣は最近もぬけの殻だった。いくら耳を澄ませても聞こえてくるのはシンとした静けさだけで、前の道を通る車がやけに響く。
 土方は正月を親が居る実家で過ごすらしい。忘年会と銘打ったお隣さんの部屋で開かれる飲み会で、本人がそう言っていた。
 近藤は実家暮らしで正月はゆっくりと家で過ごすそうだ。
 帰る場所があるというのはどこか羨ましい。
 総悟は?と聞かれて、バイトと答えず咄嗟に「お姉ちゃんのところでのんびりしまさァ」と言ったのはどうしてだろう。見栄であるのは言うまでもなかった。

 新年会はトシが帰って来たらやろうな、という言葉を思い出して、料理と賑かな空気がつい待ち遠しくなってしまう沖田である。なんだかんだ言って楽しみにしてるんだなと自然とそう思ってしまった自分を客観的に検分し、沖田はてくてくと足を進めた。
 とりあえず寝よう、その後に姉上のところに行こうと角を曲がったところで、アパートの前に立つ長身を見つけた。

「あ」

 黒い髪に黒い目をした男が煙草を吸っていた。
 見間違えようのない隣人である。
 ピタリと足を止めた沖田に土方が気付いた。視線が合わさって沖田がペコリと頭を下げる。

「どうも」
「どーも」
「明けましておめでとうございやす」
「おめでとう」

 顔を上げて改めて土方の顔を見た沖田は、あれ?と首を傾げた。
 土方が帰ってきているのにも驚いたが、それにしてもこんなところで何をしているのか。煙草は部屋でも吸っているからわざわざ外に出てくる必要はないし、誰かを待つにしても普通は駅前だろう。

(まさか部屋に女が居て出てくるのを待っているんじゃねェよな)

 ついにこの時がきた!とビクリとする沖田を他所に、土方はのんびりと携帯灰皿に煙草を仕舞っている。
 不躾なその視線に気付いた土方がこっちを見た。
 沖田は思わず構えを取りそうになる。
 とにかく今は聞きたくない。こっちは疲れているのだから尚更足取りを重たくさせるようなことは止めてほしい。
 最悪の年始めだと沖田は階段に向かう為に足を踏み出した。

「それじゃあ俺ァこれで失礼しまさァ」
「待てよ」

 しかし問屋はそうは下ろさない。しかも手首をガシッと掴まれて逃げ出すことも出来ない。
 覚悟してゆっくりと振り向いた沖田に向かって、年が明けてもやっぱり腹が立つぐらいの男前が切り出す。

「お前を待っていたんだよ」
「へ?」
「今から一緒に初詣に行かないか?」

 思わずポカンとしてしまうのは、何も疲れているからではない、はずだ。



 5円玉を手に取りそれを空に翳して、真ん中の穴越しに沖田は青空を見た。

「賽銭に5円が良いって言った奴ァ天才でさァ」
「なんでだ?」
「だって5円なら神様にやってもいいかなァって思うからでさァ」
「………まあ、それも一理あるな」

 賽銭の順番待ちで列に並んでいた土方は、隣で同じように並ぶ沖田を見下ろして感嘆やら呆れともつかぬ息を吐いた。
 近くにある神社には多くの参拝客で賑わっていた。コートやマフラーなどを纏い、冬空の下、賽銭箱の前には長い列が連なっている。
 どうして初詣に誘ったのかと問えば、多分まだ来てないと思ったから、という言葉をいただいた。
 普通そこまで隣人のことを考えるだろうか。総悟は一瞬感動にも似た思いを抱き、それから居たたまれないような気分になってただ呆然と土方を見つめていると、土方はバツが悪そうに頭を掻いて「提案したのは俺じゃなくて近藤さんだからな」と弁解する。
 しかし近藤は突然用事が出来たとドタキャンしたらしい。夕方から新年会をやろう!と電話口で叫んで慌てて電源を切ったという話だった。

「で、時間も空いたから誘ったんだが、お前、もしかして疲れていたんじゃないのか?」

 改めていきさつを話したところで土方はたった今気付いたとばかりに沖田を見た。悪いことをしたとバツが悪そうに眉を寄せている。
 今更だねェ、と総悟は吹き出しそうなるのを抑えた。本心を言えば布団に倒れ込むほど疲れていたが、この良くしてくれる隣人と会えたのが嬉しかったのかいつの間にか疲労感を忘れていた。大丈夫でさァと答える声がどこか跳ねている。
 賽銭の順番が近づいてきたところで、沖田はふと財布を取り出し何やらごそごそとし始めた。一歩前に進みながら顔を上げて土方に問う。

「土方さん。5円玉を2枚持ってやせん?」
「5円?」

 土方も財布を取り出して小銭を確認した。

「ああ、あるぜ」
「よかった。じゃあ両替してくれやせんかィ?」

 そう言って沖田は10円玉を土方に差しだした。土方は首を傾げながら財布から5円玉を2枚取り出し、総悟の手のひらにある10円玉と交換する。

「お前5円玉持ってたじゃねーか」
「1枚だけでさァ」
「…? 1枚あったら十分だろ」

 そこで順番が回ってきて、総悟は2枚の5円玉を賽銭箱へと放つ。

「俺と、お姉ちゃんの分でさァ」

 2回頭を下げパンパンと2回手を叩き1礼して目を閉じる。そんな沖田を呆然と見つめていたが、どこかこそばゆい気持ちになって土方はふと口元を緩めた。同じように二礼二拍一礼して、土方も願掛けをする。


 参拝も終わってふと顔を向けた沖田はおみくじを見つけた。土方も視線をやる。

「やるか?」
「遠慮しまさァ。あんな紙切れに100円つぎ込むくらいなら俺ァ握り飯でも買いやすよ」
「だな。俺も興味ない」
「買うならもっと意味があるものを買いまさァ」

 そこでふと思い出し、ちょっと待っててくだせェと沖田は境内の売り場へと小走りに寄った。数あるお守りの中からひとつのお守りを取るとそれを買う。
 戻ってみると土方が居なかったが、きょろきょろと辺りを見回しているとすぐに土方が帰って来た。

「あれ? 迷子かと思いやしたよ」
「こんなところで迷子になんかならねえよ」
「トイレですかィ?」
「買い物。お前は?」
「これでさァ」

 にししと総悟が笑う。紙包みから取り出したのはひとつのお守りだった。土方がそれを覗きこむと、そこには健康祈願の文字が躍っていた。

「お姉ちゃんにか?」

 土方の表情が柔らかくなる。

「ヘィ。お姉ちゃんに買いたかったんですけど、ひとりじゃなかなか行く機会がなくて。土方さんが誘ってくれてよかったでさァ」

 沖田の顔もとびきりの笑顔だ。
 土方はこっそりと笑うと、沖田にひとつの紙包みを手渡した。

「やるよ」

 受け取ると、それは先ほど沖田が買ったものと同じ神社の売り場のものだった。
 包みを逆さにひっくり返すと、中からかしゃりとお守りが落ちてくる。
 摘まんでそれを見た。沖田が買ったものとは色違いの健康祈願のお守りだった。
 きょとんと青い目を瞬いて、沖田は土方を見る。

「土方さんもお姉ちゃんに買ってくれたんですかィ?」

 土方が笑う。

「ちげーよ。それはお前にだ」
「へ? 俺?」
「ああ。前に体調崩していただろ? バイトも大事だが、体にも気をつけろよ」

 口をあんぐりと開けて、沖田は土方を見上げた。驚きと、感動にだ。
 土方はどこか照れくさそうにわざと不機嫌そうな顔をして、「やっぱ柄じゃねーな」と呟いて歩いて行った。
 沖田は暫く呆然としていた。手の中のお守りを摘まみ目の位置で掲げると、お守りに付いた鈴がチリンと鳴く。青い目にそれが映り込む。
 思えば誰かと初詣に来たのは久しぶりのことだった。ましてお守りを買ってもらったのなど、いつぶりだろうか。

「土方さん」

 タンッと追いかけてその背に声を掛ける。
 振り向いた顔に微笑んで頭を下げた。

「ありがとうございやす。今年も宜しくお願いします」

 まだ照れくささを引き摺りつつ、土方は頭を下げる隣人の姿を見下ろした。
 ただのお隣さん、されど隣人。何故これほど気に掛けるのかは分からない。分からないが気に掛けるのは本心には違いない。

「お願いします」

 土方も軽く頭を下げた。同時に顔を上げて、ふたりとも気恥しそうに笑う。
 今年も一年、よろしくお願いします。お隣さん。