お姫様抱っこ
真っ暗な闇だった。打ち寄せる波の音だけが響いて他にはなんにも聞こえない、ただひたすらに続く闇。
俺は絶壁の上に佇んでじっと辺りを眺めていた。波音にも負けないぐらいの風が吹いて、暗闇とおんなじ色をした髪がバサバサと揺れている。けれど耳を澄ましても風鳴りひとつ聞こえなくてまるで果ての世界のようだった。それが面白くて目を閉じる、最も何も見る気もなかったし何も聞く気はなかったから都合がよかった。なんにもいらない、ただひとつを除いては。
俺の腕の中には何故か総悟がいた。総悟を横抱きに抱えて俺は、絶壁の先端に立って真下の奈落をじっと見つめいる。総悟は眠っているのか気を失っているのか、目を瞑ったまま微動にしなかった。死んだように静かだった。日に焼けていない白い顔が無防備に俺の胸へと凭れている。子どもの頃から変わらない寝顔がひどくいとしかった。
「なあ総悟」
絶壁に立った俺は囀るように口を開いた。
「俺はお前が好きだよ。だからお前は誰のモンにもなるなよ」
(俺、好きな人がいるんですよ)
「…そんなこと言うんじゃねェよ」
あの捕り物の後の恒例の宴で、総悟が挑戦的に言った言葉を俺は忘れることが出来なかった。どんな女に言われた別れの言葉より胸に響いて残って、痛みに疼いた。総悟を抱く腕に力を込めてその寝顔を見つめる、冗談でさァ何マジな顔してんですかィ。そんな言葉をどれだけ待ち望んだことか。会う度会う度そんな微かな期待をしていた俺を、総悟は勿論知らない。これを罪と云わずになんと云うのだろう。
(落としちゃえ)
「………」
…囁く声に、俺の何かが満たされた気がした。ひどく魅力的な考えに、そうだそうだと黒い己が賛同する。
ほらよく考えてみろよ土方十四郎。生きているから誰彼のモンになっちまうんだ。死んだらそんな心配しなくていいんだぜ?そうだろ、永遠に総悟はお前だけのモンだ。囁く。
俺は総悟を抱えた腕を突き出した。真下は奈落の海だ。波も底も見えやしない。ここなら誰にも見つからない。
「お前は俺だけのモンだよ」
俺は総悟を落とした。
******
「ッ!!!!」
酷い悪夢に俺の意識は一気に覚醒した。目を開くと同時に何かを掴むように体を起こして、荒く息をつく。なんだ、なんなんだあの夢は。頭がちっとも追い付かない。俺は何を見た?
「土方さん」
「なッ!…んだよ」
「…どうしたんですかィ?そんなにびびって」
今一番反応する声に慌てて振り向けば、襖に片手を置いて不思議そうに顔を傾けた総悟が立っていた。後ろに朝日背負って真っ直ぐと立つ総悟がやたらと眩しくて、俺は、先ほど見た夢を問答無用で責められているような気がしてぞっとした。頭の天辺から爪先の先まで信じられないように眺める。頭の中にちゃんと総悟は生きてるんだって叩き付ける。動いて呼吸して俺を呼んで、昔から変わらない大きな目で俺を見ている。ほら見ろ総悟はそこに居る。俺は、総悟を殺しちゃいないんだ。そう自分に言い聞かせていると総悟がきょとんと大きな目を瞬いた。
「体調でも悪いんですかィ? アンタ冷や汗びっしりですぜ?風邪ですかィ」
「……ンでもねェよ」
「やれやれ、もう年なんですから無理しねェでくださいよ」
俺の顔色は最悪だったようだ。挙動不審な俺を総悟が訝しんで、一歩一歩距離を詰めてくる。
ギシリ、ギシリと床板が軋む度に俺の中の警告音は鳴り響いてどうにかなってしまったようだ。なんでもない、どうせ朝飯だろ?後で行くから放っておいてくれ。そんな言葉すらどっかに置き忘れてしまったみたいで、俺は来るなと一言、総悟を止めることが出来ない。すぐ目の前まで来た総悟は俺の顔を覗き込んで顔をこてんと顔を傾けた。淡い亜麻色の髪がさらりと流れる。
ぱしんと渇いた音が響いて、ハッとした。気付けば熱を診るためか伸ばされた白い手を、俺は叩き落していた。
「そ、うご…」
無意識の行動が自分に裏切られたみたいだった。信じられないような顔で総悟を見上げたら、総悟は叩かれた手をそのままにいつもの無表情な顔で俺を見ていた。付き合いの長い俺でも今総悟が何を考えているのかわからない。傷ついているだろうか? いや、このガキにかぎってそんなことあるわけない。近藤さんに対してなら未だしも、俺相手に総悟が傷付く筈がない。ならなんだ、驚いている? 呆れてる? 何するんでィ、そんな言葉もなくただじっと注がれる深い空色の瞳がなんだか見透かされているようで嫌だった。その奥で青色が揺れていたのに俺は気づかない。
ギシリとまた床板が鳴ってでも声はひとつも零れず、足音が遠ざかって去っていく。瞬間俺は項垂れた。絶対に気付いてはいけないことに気付いてしまった背徳感罪悪感裏切り、いろんなものがごった返して息苦しい。けれど確かに夢は忠実に俺の欲望を表していて、ずっと目を背けて見ないようにしていた俺に、見せつける。夢の中の告白なんてちっとも笑えない。
******
それからの俺はネズミのように出来るだけ総悟を避けた。避けると言っても同じ屯所暮らしだから顔も声も交わさないということはないが、なるべく接点がないように過ごすのには必死だった。さすがに他より高く積み重なった歳月と職柄が関係してか近藤さんと山崎には喧嘩したのかとこそこそ催促されたが、俺は知らぬ存ぜぬを貫き通し誤魔化した。まったくもって録なもんじゃない。総悟じゃなくて俺に聞く時点で俺たちのことをよくわかっている証拠だった。
大きな目にじっと訴えられて俺は言葉を失う、こうなったら逃れやしないということも長い付き合い上嫌でもわかっていても、俺の心は逃げ出したいと一心に願っていた。
最近のアンタはなんか変だ。俺に対してだけ妙にぎこちない。今更俺に殺されるのを恐がってるわけじゃねェでしょ。何があったってんです?
うやむやにして拐かすには相手が大きくなりすぎて通用しなかった。答え以外の返事を受け付けない。慎重に話題のレールを変えてもすぐに戻されて俺は崖っぷちだ。答えなくても逃げても殺しやす。脅しは本気だった。
どうしようもなくなって自白する犯人の気持ちが今ならわかるよう気がした。問い詰められて一から十までしっかり夢の話をしてしまう俺は、本当に尋問に潜めさせた鬼を見せると隊士からも恐れられている副長だろうか。
しかしそれほどまでに強烈だったのだ。台詞にではない、どこまでも凪いだ海に見せかけて、その奥底では不安そうに揺れる空色の瞳に、俺は溺れていた。
「……」
「…土方さん、ちょいと付き合いなせェ」
「あ?どこにだよ。おい、総悟!」
体調が悪くなったとかいった他の隊士の変わりにやって来た総悟と見回りの最中だった。江戸の平和よりも自分の平穏、今はこの見回りを早く終わらしたいと願っているのに、夢の話を聞いた総悟は俺の腕を掴むとコースから脱してそのままぐいぐいと引っ張っていく。ずっと無言で、なんだか必死で、振り払わずに行き着いた先は何故か海だった。今の俺が最も恐れ近寄りたくない場所である。
「…おい総悟、お前ちゃんと俺の話聞いてたのか?」
「ええ、しっかり聞いてやしたよ。アンタが俺を殺す夢でしょう?」
「……そうだよ」
「俺を崖から奈落の海に落としたんですよね」
違いは今が昼過ぎで明るいこと、海がしっかり青く見えること。さすがにその時の感情までは伝えてないが、夢の中でコイツ殺して、満足して、嗚呼これで俺のモンになったのだと浸っていたのかと思うと、自分にぞっとした。末期だ、狂ってやがる。
そんな俺のことなんてお構いなしの総悟は、愛刀を置くとくるりと振り向いた。
「土方さん、ちょいと夢の再現してみてくれやせんか?」
「……あ゛?」
「だーかーら、夢の通りにしてみてくだせェって言ってんでしょ。何のために重たいアンタ引き摺ってこんな場所まで来たんだと思ってんですか」
「……」
意味がわからない。新手の嫌がらせか。ほら早く、と催促されて渋々と従う俺もどっかおかしいんじゃないだろうか。
立っている総悟の膝裏と背中に手を当てて横に抱き上げる。素面でするにはどうも恥ずかしかったが、如何せん腕の中のガキはじいっと虫でも見るように俺を見るものだから視線が痛くて気が気じゃなかった。
そのままつかつかと先まで歩くと足元で海がザアザア鳴っていてそれが夢の通りで、俺はクラリと一瞬目眩を覚える。無意識に抱く腕に力がこもったのを、本人にバレてないはずがなかった。
「土方さんはヘタレだなー。何ビビってんですかィ」
「…ビビってねェよ」
「嘘も下手なもんだ。じゃあ土方さん、ここで夢の通り俺を落としてみてくださいよ」
「へ?」
見やれば総悟は冗談なんか言ってなくてマジな目をしていた。二の舞になって堪るかもういいだろと総悟を地面へ降ろそうとすれば、
「度胸のないお人だ」
「ぶっ、な、はっくしょんッ!」
このクソガキ、じゃじゃーんと取り出した胡椒ビンの中身を俺に投げつけてきやがった。お前のポケットは四次元ポケットなのかと問うてやりたい。しかしその拍子に大事なものを取り落とす俺も俺だ。あ、という短い声の後に亜麻色の髪がひどくゆっくりと落ちていく。
「総、―――え?」
ドボン!
鈍い水音が響く。春先の海はまだ冷たかった。グイッと袖口を引かれて巻き添えを食らって、俺まで水面に叩き付けられる。最悪だ。水が口の中に入って塩辛い。しかも俺の愛刀はしっかりと腰にささったままで、なんてことをしてくれたんだと元より沸点の低い俺はすぐに頭に血がのぼった。
「おいてめェ、何しやがるッ!」
「わかりやしたか」
底が深い海の中、俺と同じように溺れまいと必死に立ち泳ぎをしているくせにそんな素振りを見せない端正な顔をした子どもは、悪戯が成功しただろうにニヤリとも笑わず寧ろ敵を見るような目で俺を睨みつけていてた。なんだその目、反則だろ。逆に俺の方が面食らって、次いでの言葉が吐き出されることはなかった。
「俺はアンタになんか殺されるませんよ。俺がアンタの命を狙うことはあってもアンタに殺されるなんて、死んでもごめんでさァ」
「…ンだよそれ」
「俺を甘く見んといてください」
アンタになんか絶対やられたりしないんだと、強く訴えてくるその目が昔お前に近藤さんも姉上も渡さないって懸命に叫んでた、あの頃と同じようで同じじゃなくて俺は言うべき言葉を失った。
アンタに殺されたりしない、アンタに落とされやしない。アンタに落ちたりなんかしない。そんな意味ではないと知って解っていても、俺はどうしても深読みしてしまう。しばらく頭を冷やしなせェと俺の横をすいすいと泳ぎ過ぎ行く、その後ろ姿に根付く黒いモヤ。
ああ殺してしまいたいと、夢の名残が囁く。
出来もしないのにと誰かが嗤う。