距離が開いた。
 きっといつも通りに過ごしていれば一ミリだって変化のなかったはずの距離が、かくんと開いてしまった。

 居心地が悪い。妙にぎこちない空気の共有、躊躇い、明らかに何かを押し黙っている雰囲気。雨の気配に怯える猫のように敏感にそれを感じ取って、俺は苛立ちと訳の分からない苦しさに眉を顰める。

 言いたいことがあるのなら言えばいいのに。俺を殺す夢に罪悪感でも感じているのだろうか?

(ヘドが出る)

 今更だ。俺はいつだって本気でこの男を殺そうとしてきたが、罪悪感なんてそんな遠慮はただの一度も持ったことがない。
 いつだって本気で全力で、立ち向かってきた。
 だってそうしなければ追いつけない。


 刀を握り締めれば答えるように手に馴染む感触が、より一層俺を高ぶらせた。死地を共に乗り越えてきた分身もまだ足りないと嘆いている。俺だって同じだ。でももう終わったのだと言い聞かせ、前髪を強く握り締めて痛みで誤魔化す。
 吐く息が熱い。どうも戦いの後は気が昂って仕方がない。どれだけ倒してもどれだけ切っても強欲な俺の体は満足しなかった。

 天性なのかもしれない。戦いに生まれ戦いに生きる荒狂者。事実刀を振るうことにしか興味を示さないのだから、遠からず間違ってはいないはずだ。
 それでもいい。戦えて、しかもそれが近藤さんの為に役立っているなら願ったり叶ったりだ。

 そんなどうでもいいことをぶつぶつと考えているのは簡単に言えば気を紛らわしかったからだ。そうしなければ今なら誰でも簡単に切ってしまいそうだった。
 落ち着け、落ち着いて素数を数えるんだ。誰かが言っていたのを思い出し、目を閉じて素数を思い浮かべる。
 が。

(…素数ってなんだっけな…)

 まともに勉学なんてしていない俺が、そもそも素数なんて日常に接しない崇高なものを知るはずがなかった。諦めて目を閉じ数を数えることにする。

(一、二、三…)

 カツン。

 そんな折、ふと何かの足音が聞こえた。優秀な体はすぐに反応して、睨むように視線を向ける。
 廊下の先に見慣れた黒のニコチン野郎が居た。指揮官のくせに刀を抜いて現場に出てきてやがる。
 その姿を見た瞬間、脳内で「仲間だ」と自制を促す声と「敵だ」と唆す声が重なる。どちらを信じるかなんて分かりきったことで、俺は口元を緩める。

 忍び足で一歩二歩踏み出して、そっと駆ける。

「死ねッ土方!」
「っ!」

 何時ものように容赦なく刀を降り下ろす、その間際。振り向いた土方の後ろに、まるで寄り添うようなもうひとつの影を見つける。

(――え?)

 女が、居た。

 ガキンッ!

「危っねェだろ総悟!てめーいい加減にしやがれッ」
「俺の前にひょこひょこ出てくる土方さんが悪いんでさァ」

 刃を噛み合わせながらいつも通りの口論を交わす。ちらりと横目で女を見ると、俺が怖かったのか土方さんの大きな背に隠れるようにそっと身を潜めた。
 まだ俺より幼そうな顔立ちだが、しっかりと化粧を施してどこか背伸びしているようにも見える。落ち着いた印象とは裏腹に着物は派手だ。ここは裏で人身売買もやっていたから、この女はその商品というところだろう。物静かな印象とその逆の印象を与える身なりに男たちは悦んでいたに違いない。

「………」

 急にむしゃくしゃした。
 その苛立ちに任せ、噛み付かせていた刀を払って愛刀を鞘に収める。理由は自分でも分かったがそれをあっさり認めたくはなかった。
 何もかもが馬鹿らしい。
 いつもと様子の違った様子の俺にいぶかしむように、総悟?と土方さんが声を投げてくる。それを背中で拾い、先ほどの部屋へと足を進めた。

 面白くなかった。
あの女は保護されただけで土方さんとは何も関係のないことだって分かっている。
 けれどあの女を背後に庇うような立ち位置、その背に隠れる女、鼻につく甘い匂い。何もかもが気にくわない。
 土方さんの女癖が悪いのは長い付き合い上嫌でも知っていることだった。そんな情報が俺を嗤う。そしてホイホイと女に惚れられるのもまた然り。

「おい!もう引き上げるぞ!」
「先に行っててくだせェ。俺ちょっと忘れもーん」
「こんな場所に何忘れるっていうんだよっ!総悟!」

 知らぬ存ぜぬ。アンタの声聞くと腹が立つからもう何も喋ンじゃねェよ。
 落ち着くには時間が必要だ。こんなことで苛立つのが沖田総悟であるものか。

(五、六、七、八、)

 刀をぐっと握りしめたまま歩数を数えた。自然と少しばかり早口になってしまうが致し方ない。今はこの数を一歩でも二歩でも多く進めたかった。

 十を数えたときだった。

「伏せろッ!!」
「――?」

 俺の駆け足よりももっと速く大きな足音と叫び声が聞こえた。振り向けばそれは必死な形相の彼で、土方さんだ、そう認識するのと同時に痛いほど懐に抱き抱えられ視界が真っ黒になる。
 瞬間鼓膜を突き破る程の爆音と爆風が俺たちを襲った。
 熱い熱が押し寄せてくるのが分かる。

 でもそれ以上にどうしてか。
 俺は身近な温もりを感じてとくんと動く鼓動をひとつ聞いた。そして俺の記憶はそこでプツリと終わっている。



 ずきずきと悲鳴を上げる体に目を覚まされた。
 数回瞬きぼんやりと目を開くと、天井からパラパラと細かいコンクリートの破片が落ちてきている。木造立ての建物じゃなくてよかった。
 痛む体は無視してとにかく体を起こそうとしたが、何か重たいものがのし掛かっていてそれどころじゃなかった。上体だけ無理に起こすとドサリと重いものが膝の上へ落ちる。
 土方さんだった。

「ひじ…かたさん?」

 見つめて数秒、ふと意識を失う前の光景をまざまざと思いだした。
 状況を見たわけではないが多分爆弾を仕掛けられた。そして俺はその爆発からこの人に庇われたのだ。その証拠に打ち身などはしているだろうが俺に大した外傷はない。土方さんの隊服は砂ぼこりで白く汚れ、額からは少し血がにじみ出ている。見えないところではもしかしたら骨にヒビでも入っているかもしれない。
 ぐったりとした体を揺すると暫くしてから身動ぎして少しホッとする。

「――ん、」
「気付きましたかィ」
「そう、ご…」
「何があったっていうんです。連中は全員捕まえたのにこの始末。っていうかアンタ民間人放ってきたんですかィ?」
「その民間人が爆弾投げてきたってーの」

 痛ェーと顔をしかめながら土方さんは呻く。体を動かすのは諦めたようで、頭だけを動かして居心地のいい場所を探してひとつ息をついた。俺の膝の上で。
 膝の上に見慣れた顔、というのはなんだか変な気分で無性にこしょばゆくて嫌だった。しかし振り落としたくても動けないほどの状態に自分も関わっていると思うと、どうも無下には出来ない。目の端に菊の姿が映ったが見て見ないフリをした。ドSだなんだと言われようとも、結局ツメが甘い自覚はあった。誰に似たのかはわからない。

「自害、ですか。そんな感じには見えやせんでしたが、あの女、あっちの味方だったんですね」
「ったく。保護した上にこの仕打ちじゃ報われねェな」
「アンタの運が悪かっただけじゃねーの」

 無表情で言う。いつものように返せただろうか。土方さんの、吐かれる言葉がいつもより覇気も切れもなくて胸騒ぎに駆られて、どうしようもなかった。
 うるせェよと続くその先の言葉をただ静かに待つ。

「お前も助けても碌なこと言わねーしな」
「誰も助けろなんて言ってやせん」
「そうかよ」

 はっと笑って呻いて唾を飲み込む、その咽にふと目がいった。痩せたわけでも怪我をしているわけでもないのに、砂ぼこりで汚れた首が何故か頼りなく見えて釘付けになる。
 ぼんやりとそこを見ていると知らない間に伸びた手に、頭をポンと叩かれて視線がまた土方さんの顔に戻る。声になるかならないかの声量は聞き取れなくて、でも確かに口がその形に動いた。この男から聞いたことも言われたこともないたった7文字の言葉に目が開く。
 無事でよかった。


「アンタ俺が憎いんじゃねーの」

 言ったところで卑怯な男の意識はすでになかった。
 夢で殺したいほど憎んでいるだろうに、せっかくのチャンスを無駄にしやがった。庇わず見て見ぬフリをすれば故意ではなく事故という形で簡単に俺とはおさらば出来たはずだ。俺ならそうする。それなのに。

(馬鹿じゃねーの)

 アンタがボロボロになってどうするんだ。
 なんとなく、先ほど止まった咽にまた視線が動いて、よからぬ囁きが俺を呼んだ。

 息をしている生きている。
 その首に手を掛ける。
 力を入れたら、ねェ、アンタはどうする。

俺だけのモノになってくれる?


 力を入れる、その寸前。
 掛けた手からビクンと咽が跳ねたのが伝わった。生きている証が手を通して直接わかって、鬼の首を取る寸前で俺は迷う。
 口元に顔を寄せると弱い呼吸が俺の耳をこしょばした。
 何よりの証に胸が痛くなる。
 人より神経が鈍い俺は今ごろになってやっとこの男が生きているという実感が沸いて何かに感謝したくなって泣きそうになった。よかった。そんな持ち合わせていない言葉がふいに口を付いて出てきそうになって慌てて飲み込んだ。

「アンタを殺してやりたい…」

 そうすればきっと楽になれる。長年そう信じていたのにそれさえにも裏切られた俺はどうすればいい。
 アンタが生きていることに安堵している俺が心の底で呟いている。
 ひとりにしないでと。

 その言葉を飲み込んで膝の上にいる土方さんの顔を逆さに覗き込むと、距離を零にする。初めてのそれは砂の味しかしなかった。それでも確かに温かかった。確かに生きてる。
 泣きそうな目でそれを見ていた。