抱きしめ合う
件の爆発から1週間後、直撃を受けたといっても思ったよりも軽傷だった俺は、普通通りの生活を送れるまでに回復していた。
山崎は驚異の回復さにバケモノだとか勝手なことを抜かしていたが(当然ゲンコツは入れておいた)、後の調べで少量の火薬だったのが幸いしたらしいとの報告を受けた。
あの女は本気で死ぬつもりだったのか、それすらも俺は分からない。生来のお節介さが首を擡げ始めたが、気にしないことにした。
普段通りの生活を送って、命拾いしたと、ただ今はその有り難みを知る。
…その間に滞っていた書類の量を見ると、安易に手放しで喜べないのが現状ではあるが。
虫が鳴く。
夜になると専ら机にかじり付いて事務作業をするのが日課だった。今日とて机の上に積まれた紙の山を処理すべくせっせと文字の羅列に付き合う。
この山は夜に高さを削っても日が出れば標高が戻る悪魔だ。夜明けまで戦い続けたのに、朝起きればいつも同じ姿で俺を向かえて「もっと働け」と嘲笑ってくる。そんな幻覚だか幻聴に今日も苛まれて、ふっと一息つく。しかもそれがあの子供の声と重なって俺を内側から揺さぶるものだから、心中碌なものじゃなかった。
誤魔化すように次の書類を山の上から取り出すと、週末毎に各隊長が提出することになっている報告書の確認で、なんの偶然か一番隊のものだった。筆を置きその紙を灯りに透かすように持ち上げると歪な字が自由奔放に踊りまくっていた。しかし見かけによらず必要箇所をきっちりと埋めているのだから、あいつらしい。
(いつもは出さないくせに…)
煙草を取り出して休憩とばかりにヤニを吸う。耳を澄ましても鈴虫の声しか聞こえず、不思議だなと思う。毎晩ではないにしろそれなりにあった総悟からの奇襲もあの事件以来パタリと止んで、平和そのもののはずなのに逆に落ち着かない。俺はいつしかその世界に慣れていたのだ。
これだけ生きてきたというのに、まるで知らない土地にぽんっと放り出されたような不安、今更そのことに戸惑っている。
総悟との距離感が分からないと言えば、俺は俺のことさえも最近分からなくなっていた。
身勝手な夢を見て先に避けたのは俺なのに、今度は総悟に避けられると追い掛けてなんで避けるんだと問い詰めたくなる。勝手すぎるのは誰の目にも明らかだった。何より俺自身がそう思う。構ってほしいなんてまるでガキじゃないか。
ため息が口を突いて出た。
「情けねえな」
誰かを好きになるなんて初めてじゃないのに、こんなに振り回されている。
灰皿に短くなった煙草を押し潰して最後の煙を吐いた。
この煙が肺を黒く侵すように、総悟の中も俺ばかりで埋めつくされればいいのに。
そんなことばかり、考えている。
愛想を尽かしたように雨ばかりが降っている。
降りすぎて白く霞んだ世界は雨音しか生み出さない。
そんな中を走って、水溜まり踏んで泥水跳ねてスボンに付いても気にせず足を動かして、そうして俺は江戸中を駆け回っていた。自分でも呆れるぐらい必死で、でもそれでも走る足は止められなかった。
総悟が帰ってきていないという連絡を受けたのは俺が屯所で書き物をしている時だった。どうせまたいつものサボりだろうと慌てた様子の山崎に言えば、昨日の朝から総悟の姿を見た者がいないという。一番隊の奴らも俺と同じでサボりと判断して報告はしていなかったが、それが2日も続いてやっとおかしいと気付いたようだ。
総悟は住み着いた猫のようなもので、ふらりと居なくなっても飯時には帰ってきていた。それが居ないなんて…。
俺はすぐに総悟の捜索を開始した。
雨のおかげで外に人の姿はなかった。それはそれで探しやすいのだが、人気のなさが俺の不安をより一層煽る。こんなに駆け回っているのにあの亜麻色の頭が見つからない。何故か嫌な予感がした。拭っても拭っても消えないそれは俺の中で重く積み上がっていく。
総悟が居ないだけでこんなにも心が乱されている。それだけ子どもの存在が俺の中に根を張っていた。もう後戻りが出来ないところまできているのだと何かがそう嘲笑っていた。今更だと俺は言う。あの子どもの存在を受け入れ夢に見るほど執着し手に入れたいと願っている。それもこれも全部含めて俺で、知ってしまった以上もう逃げることは出来なくて。腹をくくらなければならない。
総悟は古びた神社の境内に佇んでいた。軒下ではなくわざわざ鳥居と社の真ん中に立って、雨に濡れている。
息を切らし見つけたその瞬間、どうしようもない安堵が胸の内に広がった。
「てめえ、無断で失踪しやがるとはどういう了見だ」
声は努めて不機嫌そうに出した。怒りよりも安心が不安を凌駕して怒鳴る気も失せていたのだが、それを素直に表に出すほど可愛い性格はしていない。
背を向けたまま総悟は何も言葉を返さなかった。1歩半の距離を開けたまま俺たちは動かない。雨の音だけが響いて飲み込まれそうだった。
やがて沈黙に耐えかねたのは総悟だった。ギュッと拳を握り小さく震えて言う。アンタのせいだと。
振り向いたと思ったら一緒に抜き身の刀まで飛び掛かってきた。速さはこいつの一番とするところだ。完全に気を抜いていたが、日頃から目の前のヤツのおかげで奇襲慣れしていた優秀な体が勝手に刀を抜いて対応する。ほとんど反射に近かった。
カキンッ、と刃と刃がぶつかる音がする。雨の世界で異色なその音は透き通るように高く高く響いた。
「いい加減ケリつけやせん?」
「なにに?」
「俺とアンタの関係に」
本気だった。本気の力で刀を押されてぐっと足を半歩、踏み込んでくるのを許してしまう。
俺はといえば何故こんな現状になっているのか頭が追い付いていなくて技量も気持ちもその時点で負けていた。
「アンタがいなきゃ俺はゆっくり寝れると思うんです」
至近距離の青の目が今は引っ込んでいるだ空色で、なのに総悟の口から出てきた言葉は鉛のように重そうで俺は釘付けだ。
瞳の奥が波のように揺らいでいる。自分でも何が正しいのか正しくないのか切羽詰まって分からなくなった証拠だった。デカくなっても生意気になっても根本的なところは昔から変わらない、そしてその度に俺はほだされてしまう、相手が誰でもない総悟だから。
「残念だが俺はお前とやり合う気はねーよ」
「アンタだって俺を殺す夢を見たんだろィ? それが何よりの証拠だと思うんですけどねェ。表では何言ってもどう思っていても扉開けりゃ俺が憎くてたまんないんだ。観念して認めたらどうです?」
「…そうだな」
もう、認めなきゃならないのかもしれない。覚悟して逃げずに真正面から受け止めて全部ぜんぶ受け入れてやるべきなのだろう。
まだ足掻いている良心だか常識や世間体は見ないフリをした。総悟だけを見ることにした。
そう決めた瞬間心の中がひどく晴れやかになって知らず口元に笑みが浮かぶ。
「来いよ」
挑戦的に言う。俺が覚悟を決めたと思ったのか、総悟がピクリと眉を動かした。そして静かに右手を斜に構える。
俺はじっと空色を見つめていた。その奥を見ようとする。
総悟が飛び込んできた。ハッと瞳孔が開いた目は野犬を狩る一番隊隊長の目だった。けれど俺は見逃さなかった。足を踏み出す瞬間、一瞬、ほんの一瞬だけ空色がぐらりと揺れて、インクが滲んだような哀しみが俺の胸を射た。
(総悟、俺は)
蜂の針のような突き寸前でを交わす。軸足を捻り飛び込んできた小さな体。
「好きだ」
溢れるように告げた、その声は、雨に溶けず空気を震わせて静かに響いた。刀を手放すと雨に濡れた地面にびしゃりと音を立てて落ちる。
ビクッと震えた隙に刀を持った総悟の手を掴んで刃先の軌道を外し、驚いた体をもう片方の手で抱き締めた。
初めて俺の懐にすっぽりと入った体は、思った以上に細くて小さかった。
大きくなったと思っていたのに、お前はまだこんなに小さかったんだな。ふと沸き上がった庇護欲が俺を擽る。
「離しやがれッ」
小さな体が野良猫のように腕の中で暴れた。
離すもんかと心中で強く誓う。
一層抱き込むと、すぐ側にある耳に持てる感情を全部出しきって告げた。
「好きだ、総悟」
あれほど恐れていたはずの言葉は、一度放つとどれだけ言っても言い足りないほどだった。
総悟が息を飲む音がも聞こえる。
ぱったりと動かなくなると、総悟の刀が地面に落ちた。
手首を持っていた手を離して、両手で、ありったけの力で総悟を抱き締める。
総悟は、今度は抗わなかった。顔を俯けて、「嘘だ」とだけ言う。
「嘘でこんな質の悪い冗談言わねーよ」
「夢の中で俺を殺すぐらい、憎いんじゃねェんですか」
「いや、逆だ。殺したいくらい想っている」
「嘘だ。そんな片鱗なんてなかった」
「隠すので必死だったからな」
「嘘だ」
後頭部に手を回して、髪に頬を寄せる。
雨に濡れて冷たい体だったが、それでもほんのりと暖かな温もりは総悟の体温に違いはなかった。
嘘だと繰り返す体に、言ってすっきりしたような、それでいて申し訳ないような気持ちになる。今まで長く付き合っていた男がまさか自分に感情を抱いていたなんて思ってもいなかっただろう。最後にと、腕に力を込めた。
「すまねえな。混乱させるようなこと言っちまって。お前に返事を求めてるわけじゃねえから、今まで通り頼むわ」
努めて平然と明るく言う。総悟からの答えはなかった。
やっぱり言わなきゃよかったかな、なんて自嘲めいて、腕をほどいて総悟から離れる。
離れる、はずだった。
「総悟?」
総悟の手が、俺の背中に回っていなければ。
「土方さんはヘタレでいけねェ」
言葉の合間に吐く息が、首筋に当たる。そこでやっと、その息が熱いことを俺は知った。
「総悟!お前熱が」
肩に手を置いて体を離し、その顔を窺おうとしたが、総悟が俺の背中に手を回したまま隊服を掴んで体を引き離すことが出来ない。
総悟が顔を上げる。じっと俺を見て、不敵に笑う。
「はっきりさせないのは好きじゃねェ。土方さん、俺はアンタのことが、」
ことが。
言葉は、そこまでだった。
ふと目を瞑ったと思ったら、小さな体が崩れ落ちて慌てて抱き止める。
「総悟ッ?!」
叫んでも、雨が全てをかき消すように嘲笑う。
呼び声は雨に濡れて消えたまま、一生キミに届かない。