後ろから抱きしめる
どこからか猫の鳴き声がした。
薄汚れた白い野良猫が、木の下で人懐っこく首を傾げてこっちを見上げて鳴いている。
猫の呼び声に応じるように木を降りると、猫が軽やかに近寄ってきた。
何も餌は持ってねェぜと両手を開いて見せるが、子猫はきょとんと首を傾げてひとつ鳴くと、遊んでよと言わんばかりに総悟の足下に擦り寄ってくる。
しゃがんで、総悟は人懐っこい猫の喉を掻いてやった。
気持ち良さそうに目を細める猫に、総悟はふと微笑む。
「お前は素直だなァ」
俺とは正反対だ。
柔らかくて温かい猫を撫でながら、総悟はため息をついた。
能天気な青い空が広がっていた。
総悟が風邪から回復したのは、床に就いてから2日後のことだった。
すぐに発熱したのが幸いしたのか、変に長引くこともなく、もう少し休んでいたいという願望とは裏腹にすっかりよくなってしまった。
大事をとってどこか気だるい体を布団に横たえている間、総悟は雨の中で聞いた言葉をぼんやりと思い出していた。
(好きなんだって言ってたなァ)
好きだと、アイツは言っていた。確かに聞いた。
聞き間違えるはずがなかった。
あんな耳元で囁かれた言葉を、あんなに待ち望んでいた言葉を聞き間違えるはずがなかった。
思い出せるのは熱でぼやけた記憶ばかりだが、その言葉だけはいやに鮮やかに覚えている。
これは、夢だろうか。
あの瞬間、雨の音を突き抜けて届いた言葉が、総悟は信じられなかった。俄には信じがたい世界だった。
しかし見上げた先にあるのは、熱の籠った目、感じるのは、抱き締められる腕の強さで、目の前に広がる世界がパッと砕け散る、そんな音を総悟は聞いた気がした。
夢ではなく本当なんだと、何かが喚き散らして騒いでいる。嘘だと頑なに拒否しても、土方は何度も嘘じゃないと言って、抱き締める腕の力を強めて現実だと言う。
崩れたのは、諦めた世界。
広がったのは、夢の世界。
雨に濡れて冷たい体が、雨が、土方の体温も奪うがその腕が解かれることはなかった。聞こえるのは断続的な雨の音と、柔らかくけれどしっかりと聞こえる夢の告白。
総悟は布団から手を出すと、それを天井に向かって掲げた。
あの時、自分は土方の服を掴んだ。手にした夢を離したくなかった。
その事は覚えていた。その感触も、土方の狼狽えたような声も覚えている。
けれど、その後のことがどうもあやふやだった。
土方に俺も同じ想いだと返事を返した、気がするのだが、実はあまりよく覚えていない。
言ったような気もするし、言う前でぶっ倒れたような気もする。
肝心なところがすっぽり抜けていて、総悟はずっと眉間に皺を寄せて思案顔だ。
言ったか言ってないのか、この違いは大きい。
そんな時、はあとため息をついたところで、見計らったように襖がガタリと開いた。
「よお、総悟。調子はどうだ?」
太陽の光と共に入ってきたのは、案の定土方だった。
襖から入り込む日差しが眩しくて目を眇めると、それに気付いた土方が慌てて襖を閉めて中に入ってくる。
そのくせ入って来たら入って来たで、座るか座らないのか躊躇して、結局布団から微妙な距離を開けて腰を下した。
この、近いようで遠くはない距離はなんなのだろうと、総悟は思うのだ。
想いを口に出したことに土方が距離を測り損ねているのか、それとも自分も返事を返して上司と部下の関係が恋人に変わって照れているのか、この微妙な距離では何も確信が得られなかった。
分からない。ああもうどっちなんだ。
思案顔のままじっとその空間を睨んでいると、土方がどこかぎこちなく口を開く。
「もう熱は引いたのか?」
「まァ。もうなんともありやせんぜ」
「そ、そうか」
不思議と会話が続かず、なんとも言えない気まずい空気が流れる。
この空気はどっちの空気だ。沖田は眉を顰めて必死に考えた。それを見てそんなに苦しいのかと土方が気遣う。
「大事を取ってもう1日ぐらい休むか?」
「え、ああ、珍しいじゃねェですか。仕事の鬼がそんな労るような言葉が掛かるなんて、明日は雨ですかねェ」
「…減らず口は相変わらずだな」
「おかげ様で」
「その様子だと休む必要はなさそうだな」
「要りやせんよ。寝ているところで変なことばっか考えちまうし」
その言葉に土方の肩が僅かに動いた。
土方の目が言おうか言うまいか逡巡し(傍目から分かるほど目が泳いでいる)、口を開いては閉じ(焦れったい)、頭を掻いてようやっと口を開いたかと思えば、しどろもどろにこう問うた。
「変なことって、なんだ?」
これは、どう答えればいいのだろう。
沖田は、ちょっと戸惑った。
「あ、あんたには関係ねェでさ」
正直に「アンタと俺ってもう付き合ってるんですかィ?」なんてぬけぬけと聞けるほど、沖田は能天気ではなかった。
だからって妙に意識した結果、つんけんした返事を返してしまって沖田は冷や汗を掻いた。
なんでィ?!なんで今どもったんだ?!
心の中でニワトリが三羽、鳴き叫びながらドタドタと駆け回っている様子が、総悟の前に広がる。
慌ただしくて落ち着きがなくて煩いニワトリは、心臓の音に似ていた。ドクンドクンと大きく脈打つ。
「き、気になるんだよ」
絞り出すように、土方が言った。
「…何が気になるんですかィ」
総悟は努めて平然を装おった。
土方は、だからその、とゴニョゴニョと言い淀んで、口元に手を当ててチラチラとこっちを見たり明後日の方向を見たりする。
しかしやがて肝が座ったのか、胡座を掻いている体の向きを真っ直ぐと沖田に向けると、土方はごほんとひとつ咳払いをした。まだどこか奥底が揺れているものの、一直線に見つめてくる黒の切れ長の目に、総悟の息が一瞬止まる。
「単刀直入に聞くが、お前が倒れた雨の日のことを覚えているか?」
「さ、」
いつものくせで、さァと適当に答えそうになって、慌てて口をつぐむ。これ以上混ぜ返せば話が一向に進まない。
総悟はゆっくりと、首を縦に振った。
そうかと土方が短く答え、ぶっきらぼうに首の後ろを掻いた。
そしてしばらく黙って、顔を俯けたまま口を開く。
「すまねえな。変なこと言っちまって。答えが欲しいわけじゃねえんだよ。弾みで言っちまったっていうか、なんつーか。とにかく、忘れて貰って構わねェから」
視線を合わせずそう言われて、総悟はそこで初めて、自分が返事を返す前にぶっ倒れたのだと知った。
今まで通りで頼むわ、と申し訳なさそうに言って、立ち上がって部屋を去ろうとする。ひとりで勝手に話を進めて、ひとりで勝手に答えを出している土方の様子に、総悟は内心冷や汗を掻きながら慌てて布団から跳ね起きた。
「ちょっと待ちなせェ!俺、あの時アンタに何か言い掛けやせんでしたか?」
土方は襖に手を掛ける手前で足を止めたが、
「あ?…ああ、なんか言い掛けてたけど、なんとなく分かるからいいわ」
などと言って話を畳み掛けた。
(なんとなくってなんでィ)
長年持て余してきた感情を、そんな風に軽んじられるのは心外であった。
この場にバズーカがないことを恨みながら、総悟は立ち上がった。
すたすたと歩み寄り、部屋を出ていこうとする土方の背に総悟は後ろから抱きついた。
ビクリと大袈裟なほど驚くのが、体越しに分かったが、回した腕は離してやらなかった。
おい、と不機嫌そうな、それでいてどこか戸惑ったように土方が総悟を呼ぶ。
「このままで聞きなせェ」
背中に額を引っ付け、総悟は声を落とした。
土方がこのことを無に返すのが嫌だった。
掴めた夢に、もっと酔いしれたい。
答えを聞いていないのなら、再度言えばいい。
けれど正面きっては意気地が自分でも思ってもいない方向にひん曲がってしまいそうで、また話がややこしくなりそうだから、だから仕方なく、仕方なく背にすがることで土方を止めたのだ。
誰にとは言わず弁明を吐いて、総悟は顔を上げた。
決意に満ちた顔だった。
「土方さん。耳をカッポジってよく聞きなせェ。俺ァ土方さんのことが、」
「総悟ー!風邪ひいたんだって?」
ガラッ、と。
土方と総悟の目の前で障子が唐突に開き、キラキラとした日差しと太陽のようなサンサンとした笑顔の近藤が入り込んできた。
呆然とすること3秒。
口をポカンと開けた土方と零れるほど目を大きく開いた総悟の視線を浴びながら、それをニコニコとした顔で受け止め、「どうしたんだよ、固まっちまってー」と近藤は可笑しそうに笑ながら、そうしてふと土方の腹に回った総悟の手に気付いた。
「ん?」
ぱちぱちと目を瞬き、可愛らしく首を傾ける。
そして近藤がこっちを見た。土方の肩越しに総悟はビクリと魚のように跳ね、直立不動になる。
なあ、この手って。
そう問われる前に、総悟は。
「ハァ」
猫を撫でながら、そこまでを思い出し、総悟は青空を仰いで感嘆する。
結果から言えば、またもや俺は土方さんに告げることが出来なかったのだ。
あの時言うんだと決意しただけに、言葉に出来なかった脱力感は漬物の重石より重い。
しかも言わなかっただけではなく、あんなことまでしてしまった。
考えれば考えるほど、憂鬱になってくる。
もう一度ため息を落とし、総悟は立ちあがった。
猫が好奇の視線で追ってきたが、じゃあなと片手を上げて言うと尻尾をゆらりと揺らして去って行った。
素直でいいねィと息をつき、総悟も屯所へと足を向ける。
猫に根城にしている神社があるように、結局自分の帰る場所もひとつしかない。
とぼとぼと歩きながら、総悟は思い出していた。
あの時、近藤に見られて、手のことを問われたくなくて、総悟は咄嗟に軽く回していただけの腕に力を込めた。
急に締め付けられて土方が「え?」と顔だけで振り返ろうとする。
「だーーーー!!!」
問われる前に、見られる前に、総悟は火事場の馬鹿力とも言える力で土方を抱えたまま綺麗に後ろに反り返った。綺麗なジャーマンスープレックスホールド(エビのまね)だった。ガンッと、畳ではなく鉄にでも頭をぶつけたような鈍い音が響いた。土方の頭が畳にめり込む。
三人が、沈黙する。遠くでカラスが馬鹿にしたように鳴き、ようやっと近藤が乾いた声を出した。
「はははー相変わらずお前たちは仲良しだなあ。プロレスごっこか? 俺も混ぜてくれーなんて、いや混ぜて欲しくはないけど。なんか首の骨が折れたような音が聞こえたけど。トシィィィィ?!!大丈夫ゥゥゥゥゥゥ?!!!!」
「………」
土方さんからの、返事はなかった。
沖田は、ため息をついた。自分の照れ隠しがこんなに強烈だとは思いもしなかった。
しかも思いの外プロでも手本にしたいような完璧に技が決まっただけに、嬉しいやら悲しいやらなんとも複雑な気分である。
(いやでもやっぱエビのまねはねェよな)
嫌われちまったかなーとため息と一緒に小さく肩を落とすと、能天気な空を優雅にとんだカラスがまた笑う。
傍から見れば呆れたことでも、本人たちからすれば結構真剣だったりするものなのだから始末に終えない。