水沈少年
耳や目が正常に機能しない。爆音や閃光ですべてがやられているのだ。
もう何度も経験したことだが、こればっかりは慣れないし不快なものには違いがなかった。鼻は血の臭いしか拾ってこないし、興奮の去った体は先ほどから動くことさえ放棄しつつある。まったくもって使えない、五体満足だけど俺の体はどうしようもない怠け者だ。こんなところで思い知る。
フラフラと帰ると門前の守衛がぎょっとした顔でこっちを見た。ふたりで顔を合わせて、すぐに大丈夫ですか?!と駆け寄ってくる。多分。なんせ目も耳も使い物にならないから何言ってるのか誰なのかも正直よくわからなかった。
ああとかうんとか曖昧に頷いて後に付いて来ようとする隊士を断って中に入ると、夜も深いからか屯所はすっかり静まり返っていた。明日は仕事だっただろうか。何かあったような気もするが思い出せない。まァでも大した仕事じゃないはずだ、喧嘩以外の仕事はエスケープ前提で、俺は自室へととぼとぼ歩く。湯はもう残ってないだろうからシャワーだけでも。ギシギシと廊下を踏み鳴らして歩いても誰も起きてこなくて相変わらずだった。無用心すぎるんじゃないだろうか。霞んだ視界にも月の明るさがわかって足を止めると、オイと声を掛けられた。麻痺った鼻はけれど優秀で、しっかりとその人の染み付いて離れない臭いを嗅ぎ分けてくる。
「おはよーございやす。もう起きたんですかィ。年寄りだなァ」
「違げェよバカ。仕事に決まってんだろ。ってかなんでそんなにボロボロなの?」
「ひどいなァ。アンタが寄越した喧嘩なのに」
「じゃなくて、血が出てる」
土方さんの長い指が不意に伸びてきて、瞼の上をぐいっと拭った。目の前に戻して眉を顰める。瓦礫とか爆風で髪も服も汚れたけど怪我した記憶なんてなかったから目をぱちぱちと瞬くと、それを見た土方さんがこれ見よがしに長い溜息をついた。ああ、と俺も声が出る。
「なんだ、切ってたのか。どおりで目が見えにくいと思ってたんでさァ」
「ったく…何してんだよ、お前。ふつー気付くだろ」
「それどころじゃなかったんでね」
痛覚が鈍くなるのは興奮してる時の俺の悪い癖だった。それを心得ている土方さんはもう一度溜息を吐いて、持っていた煙草を持ち直して肺で味わう。不健康なことだけど吐かれた煙の臭いで、ああ帰ってきたんだと実感した俺は、深く息を吸う。
「そんなに苦労する連中とは思ってなかったんだけど…そんなにキツかったのか?」
「うーん腕は全く大したことなかったんですけど、やたらと爆弾とか閃光弾とか持ってて苦労しやした。ああでもちゃんと捕縛したんで。何人か斬っちまったけど。あとはふたりほど火傷しちまったんで手当て受けてまさァ」
「そっか」
捕り物をする時大抵は土方さんが直々に指揮をするのだけれど、全部が全部そういうわけじゃない。小さくコソコソ動いている連中は、数とか勢力を見て隊だけで対処する場合もあるのだ。今回がそれで、勢力がほんの小さいことから俺の一番隊が出向くことになった。実質俺が現場の長だから、現場の指揮官と特攻隊長の重役で、ほんと今日はよく働いたと思う。是非とも誉めていただきたい。なんか奢って。
なのに土方さんは一言言ったきりぼんやりと何かを考えている風だった。碌でもないことは一目瞭然で、煙草の灰が落ちそうなのにも気付いていない。馬鹿にすんなと思う。
「土方さん。アンタもしかして下調べが甘かったーとか責任とか感じてるんじゃないですよね?」
「してねェよ」
「嘘吐き。あのね、この傷も痛みも俺だけのモンなんですよ」
勝手に横取りせんといてください。
ジッと睨み付けて言い聞かせる、アンタなんかに心配されるなんて死んでもゴメンだ。生き方だって俺と一緒で不器用なくせに、なんでもかんでも自分の肩に背負い込もうとするのが土方さんの悪い癖だった。
もっと楽にすればいいのに。たとえば近藤さんみたいにみんなに頼ったり一緒に分かち合ったり、そうじゃなきゃ俺みたいに面倒事は全部捨てていくとか。完璧じゃないのにそんなことするから、苦労するんだ。いつか禿げればいいんだ。罵り事は俺の顔にも出てたみたいだった。土方さんが不貞腐れたように呟く。
「…心配するに決まってんだろ」
「は?」
「お前に何かあったら近藤さんになんて言えばいいんだよ」
煙草を庭に捨てたマナー違反の土方さんは、らしくなくそっとという表現で俺を抱き寄せた。血が付くと腕を張ると構やしねェと低く言う。背中に腕を回されて囲われる、いつもよりうんと強いヤニのにおいがして、あと嗅いだことのない土方さんのにおいがした。
なんだこれ、まるで恋人みたいだ。焦って俺が上ずった声で土方さんの名前を呼ぶと、土方さんは簡単に離れた。救急箱取って来ると言って俺を放って医療室へと姿を消す。
わけがわからない、ぼーとしてなんとなくまだ視界の悪い目を擦った。頭の悪い俺は血が流れているのを忘れてて、目の中に入って本当に痛かった。ただ立っているのもなんだから近かった土方さんの部屋へと逃げ込む。綺麗好きの部屋は何もなかった。仕事をしていたと言っていたのに机の上も綺麗なままで、とてもじゃないけど仕事の形跡はひとつもなかった。
(じゃあなんのために起きてたんでィ…)
卓上に置いてあったカレンダーに丸が付いていた。今日だ。何か予定があったのだろうかと思い浮べてみても俺には何もわからない。ただ本当に俺の頭はどうしようもなくて、見当違いな答えを弾き出して俺はそのカレンダーを見るしかなかった。廊下の軋む音がして部屋の主の帰還を告げる。俺は動かない。
「何突っ立ってんだよ。ってかなんで俺の部屋?」
「土方さん。アンタ本当に仕事してたんですかィ? 書類がなんもない」
「…無用心に置いておくわけないだろ」
「なるほどね。俺はてっきり、俺の帰りを待ってたのとか思いましたよ。まさかですけど」
「………」
(え、何黙ってんの)
軽く言ったはずなのに重い沈黙が降りてきて、俺は振り向けずにいた。床が鳴る音が耳に届いてまたヤニの臭いが強くなる。恐る恐る振り向けば、存外土方さんが近くにいてビビった。そんな目をするからだ、だから俺は、また自分で地雷を踏むことになる。
「土方さんって俺を待つほどそんなに心配性だったっけ?」
「…待っちゃ悪いのかよ」
「だって変でしょ。俺を、ですぜ」
「じゃあ恋人なら当然?」
揺れて動いて、言葉はなかった。
静かにそっと、夜に相応しい静かさで唇がふってくる。こんな静かな夜がいけないんだろうか。普段の減らず口はどこにいったのやらまた離れては近づいてくるそれに、俺の呼吸は苦しくなる。