通りゃんせ 通りゃんせ
 ここはどこの 細通じゃ
 天神さまの 細道じゃ
 ちっと通して 下しゃんせ
 御用のないもの 通しゃせぬ


 男は町の中を逃げ惑っていた。
 居酒屋でのほろ酔い気分は既に抜けきっている。
 酒を引っ掛け馴染みの親父が作る料理の味に舌鼓を打ちつつ、今日は暇だからと店の女がひとり酒の相手をしてくれた、そんな記憶は夢のように遠い。
 夢だったのだ。そう思わずにはいられなかった。

 男は逃げていた。逃げなければ殺されるからだ。
 闇夜の路地裏にふたつの足音が不気味に響く。
 呼吸が乱れて息苦しくて足を止めてしまいたかった。
 しかし実際止めたところで待っているのは死だと分かっているから止まることは出来ない。このまま躍り狂って死ぬのだと死神が嘲笑う幻聴さえも聞こえそうだった。
 何故こんなことにッ。そう考えても分かるはずがない、男はいつも通り過ごしていただけだ。ほろ酔い気分で居酒屋を出ていつもの曲がり角を曲がると人が立っていて、男を見るなりにたりと闇夜に張り付いたように笑うとシュンッと刀を振り下ろしてきた。数ミリ横を掠めたそれは、確かに真剣だった。

(なんで俺がこんな目に…ッ!)

 思わずにはいられない。胸の内で必死に叫ぶ。なんでなんでなんでなんでなんでと、誰に問いただせばいいのか分からない感情ばかりが積もる。
 そしてやがてそれは、男の足元を狂わせる。

「わっ」

 短い声を上げて男は派手に転んだ。足が縺れ、家の横に置いてある木箱の上に倒れてしまう。
 ガラガラッと静かな夜空に不似合いなけたたましい音が鳴り響いたが、その音を聞き付けて誰かが男の助けに入ることはなかった。否、誰も出てこなかった。

 じゃり。砂利を踏む音とわらべ歌が聞こえる。男は勢いよく顔を上げた。腰が抜けて立つことは出来なかった。男を見下ろして影がにたりと笑う。鈍く光る刀は男の血を求めて今にも飛びかかってきそうだった。その意に従い影が刀を振り上げる。その時雲間から覗いた月明かりによって男は影の正体を知る。

「お、お前はッ」

 ぶしゃり。
 男が、影の名を呼ぶことはなかった。そんな間もなく男は心臓を一突きされ、赤黒い血を吐き出し、首がくたりと折れる。即死だった。
 男の血を啜り刀が歓喜する。刀を抜くと影は口の両端を釣り上げ、狂ったように月の下で笑った。唄う。


 行きはよいよい 帰りはこわい
 こわいながらも
 通りゃんせ 通りゃんせ




あなたのかわいいわたしであるために





「まただ」

 近藤は新聞を広げると一番最初に飛び込んできた記事に眉を顰めた。物騒な記事ばかりなのは相変わらずだが、その中でも特に大きく目に飛び込んでくる見出しがあった。
 『またも辻斬り現る』
 その見出しに近藤は新聞を置いて腕を組むと、はあと溜め息を落とす。

「どうしたんだ、近藤さん」
「ん? トシか。ほら、また例の辻斬りだそうだ」

 近藤の溜め息を聞き止め、縁側を歩いていた土方が部屋へと入ってきた。その後ろに総悟もいて、土方の背越しにひょいっとこっちを覗き込む。
 そんなふたりの姿に近藤は愛好を崩すと今しがた見ていた新聞を土方に手渡した。トントンと問題の部分を指すと、土方が眉を寄せてその記事を読む。最近視力が落ちたようで近くの物が見え辛くなったらしい。土方さんもついに老眼デビューですねィといつも通り上司を茶化し、頭に一発拳骨を食らって総悟も新聞を覗き込んだ。

「辻斬りの犠牲者がまたひとり。今度も攘夷浪士、か。まだまだ物騒な世の中だな。俺たちの食いぶちがあって良いじゃねえか」
「トシ、そういう言い方はよくないぞ。いくら攘夷浪士といってもこれじゃあただの人殺しだ」
「でもこの辻斬りが見境なく攘夷の野郎を切ってくれるおかげで俺たちが楽出来てるわけですよねィ」

 辻斬り様様だと総悟が皮肉る。
 確かに辻斬りが切り殺しているのはどれも尻尾を上手く掴めない一癖も二癖もある攘夷たちであって、監察も手を焼いている件ばかりだ。攘夷だろうという臭いはかぎとれても、踏み込むには証拠をいくつも揃えなければならない。近藤も真選組の上をいく者だけあってその大変さは百も承知だった。
 総悟の言う事も間違いではない、けれど攘夷ばかりを相手にする辻斬りが真選組の者ではないかと噂されているだけあって、その意見に両手を上げて賛同するわけにもいかなかった。
 俺たちは真選組だ。腕を組み、近藤は力強く首を横に振る。

「むやみやたらに殺したって意味はねえ。検挙し、取っ捕まえるのが俺たちの仕事だ。辻斬りなんてわけわかんねーモンに往生されちゃたまらん」
「ふーん。近藤さんは優しいんですねィ」

 総悟は相変わらずの無表情で、近藤の言葉を優しいと評した。その意が分からず、近藤は、優しい?と目をしばたかせる。
 その意味を聞こうと近藤が口を開きかけるが、言葉を遮るように土方に新聞を突き返された。

「まあどっちにしろ同じ敵を追ってんだ。いつかその辻斬りにも会うだろうよ。今のところ民家人や俺たちにも危害はねえんだし、そう心配することじゃねえさ。おい総悟、行くぞ」
「じゃあ近藤さん、後で外にメシでも食いに行きやしょう」

 そう言うと土方と沖田は近藤を残し、ふたり揃って部屋を出ていった。少し猫背気味の男の後ろを沖田がひょこひょことついて行く。やがて土方の部屋に来ると、先に入った部屋の主に続いて沖田もそこに入った。後ろ手でピシャリと閉めた障子に凭れかかり、沖田は笑う。

「近藤さんは優しい人でさァ。敵でも殺すのは間違いだって情けをかける」
「それがあの人の良いところだ」
「ええ。泥をかぶってあの人の道を作るのは俺たちで充分ですからねィ。あの人には輝いてもらわないと」

 ふっと笑って微笑を落とすと、沖田は障子から体を離し両腕を伸ばして土方の首に巻き付けた。土方はされるがままにさせてやる。グイッと引き寄せるように引っ張られたから、土方は顔を近付け目の前の彼と濃い口付けを交わした。日の光も遮られた暗い部屋で唾液が交わる音がする。
 もう慣れた、真っ黒な背徳感が電源のようにびりびりと背中をひた駆ける。しかしそれすらも心地よい。
 自然に笑い、土方は濡れた口で総悟の耳元で囁いた。

「総悟、邪魔者がいるんだ」
「ん、」
「泥を被るんだろ?俺とお前にしか出来ないことだ」

 邪魔者を消してくれ。
 囁き耳たぶを甘噛みすると、土方は顔を離した。
 俯いた総悟を監察する。
 ゆっくりと顔を上げ空色が瞳孔を広くのを見てふと笑う。この死神が目覚める瞬間が土方はたまらなく好きだった。
 絡めていた腕をほどき背を向けて沖田が言う。

「俺たちの道の前には誰も通しませんよ」

 通りゃんせ。
 その夜、また辻斬りが邪魔者の命を屠った。