たとえ話の前にキスをして
「前に話してた相手って誰でィ?」
土方の部屋で寝転がっていた沖田は、文机に向かってひたすら書き物を続ける背中にふと問うた。
秋風に揺らされ風鈴がチリンと、悲しげな音を奏でて、夕暮れの世界で泣く。
文机の上に溜まった書類の端をさらりと捲る秋風はまるで無視しないでよと小さな自己主張しているみたいだ。
寝転がったまま、俺みたいだと総悟は思った。
そんな風の悪戯には一瞥もくれず、手を止めることもなく土方は不機嫌な声を返す。
「てめーには関係ねえよ」
「ンな水臭ェこと言わねェで」
「ぺらぺら喋るのは好きじゃない」
「俺は聞きてェんです」
「俺は言いたくねえ」
素っ気ない土方の言葉は沖田の耳に嫌に響くから、総悟は眉を寄せた。
先日酒に酔い、ぼんやりと想いを飛ばしながら、その口で好いた奴がいるのだと言ったくせに詳しく問うと口を固く結んで知らないフリをする。
「子どもみてェ」
沖田は黒い背中を見つめて、責めるように言った。
「アンタらしくもねェ。とっととゲロっちまえばいいのに」
何を怖がっているのだ。声には出さず口だけを動かして言葉を放つ。けれど背中を向けている男には届かない。
ただ暫く間を開けて、ンな簡単なことじゃねえよと、土方はどこか諦めたように言葉を溢すのだ。いつも前を歩く大きな背中がどこか小さく見えた。
「じゃあ」
沖田はまっすぐと、迷子の子どものような心細い背中を見守った。
「じゃあもし叶う想いだったらどうします?」
「聞いてどうする?」
「どうもしやせんよ。ただの興味本意でさァ」
ねェと手を伸ばして、総悟は土方の服をぎゅっと掴む。
土方が手を止めた。離せと短く言われたが、背中を向けているのでは誰に言っているのか分からなくて、沖田は従わなかった。
嫌だよとまた吹いた風に促されて逆に握る手に力を込める。
軒下に吊るされた風鈴がチリンとなく。
沖田は何も言わず、ただじっと、待った。
「まず付き合ったらどこに行きやすか?」
「……」
「買い物? 海? 映画?」
「…行けるなら、どこだっていい」
やがて折れた土方が、観念して拗ねたように言う。照れているのだと分かった沖田は、あどけない顔で笑った。
「あはは。恋愛に関しちゃ負けなしの副長の言葉とは思えねェ」
「うるせえな。仕事の邪魔だ。とっとと出ていけ」
「まァまァ。じゃあ手も繋いで、適当にぶらぶらして、疲れたら何か食べて、それからは?」
「…キスして抱いて、全部俺のモノにする」
「ふうん」
揺るぎのない言葉に、空色に広がる両の目が、飄々とした声色とは裏腹に全てを覗き込むような瞳で土方を見ていた。
知らない気付かないのは土方だけ。
見ようとしないで背を向けて、可か不可か勝手に決め付けてひとりで進んでいくのが土方だと、痛いぐらいに総悟は知っている。
「子どもみてェ」
総悟は責めた。土方の肩がピクリと動く。
「だからンな簡単なことじゃねえんだって言っ、」
子どもみたいだと2度も言われて、土方はさすがに反応した。
勝手なことばっか言うなと振り返り鬼の形相で沖田を睨んだところで、しかしその言葉の前に口が塞がれる。
息がかかる距離に居たのはよく知った人間。
服を掴んだ手はそのままに、他ならぬ沖田によって唇も言葉も息さえも全て奪われる。
土方は、何も考えられなかった。
ただ、「何故」という言葉だけが、ぐるぐると身の内を回った。
知らない気付かないのは土方だけ。
見ようとしないで背を向けて、可か不可か勝手に決め付けてひとりで進んでいく。
進んでいくからこそ、後ろに居る沖田が土方の落とした物を拾っていることにも気付かない。
「…総悟? お前…」
「俺はアンタが好きです」
からかってなどいない真っすぐとした目だった。土方の声が年甲斐もなく震える。
「………知っていたのか?」
「まァ。万事屋の旦那に零しているのを聞いちまったもんで」
絶対に気付かれてはいけないと思っていた想いが、あの瞬間相手も同じものを持っていたことを知った、その時の喜びは言い表せることが出来ない。ぎゅっと手を握りしめて、歯を噛み締めて、行く場のない零れた熱にその場にしゃがみ込んだ記憶は、総悟の中でいつまでも色濃く残っている。
本当は、それだけで満足だった。
伝える必要はないと思った。
非生産的な感情は絶対に実ることがないと諦めていた、それが実っていたと知っただけで、沖田の花は咲き誇れた。
けれどある変化がそれ以上を望んで、その口から花の名前を告げたくなってしまった。
知って。気付いて。同じ花が俺の中にも咲いていることを。
もう後には戻れないと知っても、それを覚悟で沖田はそれ以上を望む。
「土方さん」
甘く言うと、ごくりと男の太い咽が鳴る。
畳の上に置かれた手に指を絡ませると、力強く握られる。骨が軋みそうになる。しかしその痛みさえもいとおしい。
そっと触れる唇の感触を受け止め、沖田は問うた。
「土方さん。アンタの答えが知りてェ」
「知っているだろ」
「言葉にしなきゃ何も分かりやせん」
「好きだよ」
ずっとまえから。
あんなに告げること躊躇していたくせに、解いてしまえばあとはなし崩しに進むだけだった。
与えられたものを受け止めるだけで精一杯だったが、確かにその瞬間、沖田は自分の花が満開になった音を聞いた。
もう思い残すことはなかった。
悪いことは言わないから。
そう言った男の顔は、正式な店を構えず闇の中に生きているとはいえ、確かに人の体を案ずる医者の目だった。
口封じの為の金と共に多額の診察料を机の上に投げ捨て、沖田は薄汚い路地裏の部屋を出た。
この時は誰にも見られていないか、常に神経を研ぎ澄まさなければならない。
特に気を付けるのは山崎など、土方の息がかかった人間である。あの人にだけは、まだ知られてはいけない。
歳に似つかわしくない目をして、沖田は足早に路地裏を歩いた。
だが何歩も行かない間に胸から込み上がるものがあって、沖田はしゃがみ込んで嘔吐いた。いつまで経っても止まない、呼吸を吐き出すばかりで息苦しくてたまらない。
太陽が雲間から覗き微かに路地裏を照らした頃、やっと沖田は息を整えることが出来た。
ぜえぜえと息絶え絶えに口元を押さえていた手を広げると、べっとりと赤黒いものが付いていて、手のひらを汚すだけでは飽き足らず腕を伝い地面をどろっと汚してもいる。
壁に背を預けて空を仰いで呼吸をした。
闇医者の言葉を思い出し、病がじわりじわりと体を蝕む音を聞く。
結核だった。
気付いた時には既に手の施しようがなく、同時に幾ばくも生きられないことを告げられた。
波に漂うのは目標を失ったからだ。抗うよりもすんなりと「そうなのか」と受け止められたその現実。
けれどその中でも満足していた熱だけが、零れるように再発した。生きている間にと、何かが嘆く。
(子どもは俺だ)
欲しいからと、土方が長年守っていたものを無理やり紐解いてしまった。
そのくせ自分のことは曝け出さない。身勝手な子どもはどっちだ。
(土方さんは、このことを知ったらどう思うだろう)
限られた生を知ったら、悲しむだろうか、怒るだろうか。もしかしたら罵るかもしれない。終わりがあることを知っていながら何故告げたのだと深く、強く、罵るかもしれない。そして見捨てるような言葉を吐いて、結局見捨てず死を嘆いてこっそりとひとり泣くのだ。あの男はそういう男だ。暴露したことに後悔は感じていないが、その優しさを思うと、どうしようもなく苦しくなる。
総悟はさんさんと輝く太陽の眩しさに、空色の目を眇めた。
ゆっくりと体を起して、壁から離れる。
それでも、沖田は伝えたかったのだ。
例えこの世界から居なくなったとしても、土方に「伝えればよかった」と後悔してほしくはなかった。
自分も同じ気持ちだったのだと、沖田は伝えておきたかった。
アンタと同じように熱が零れていて、アンタと同じような花が身の内にある。
生きているうちにそれを伝えたい。
まだ負けてたまるかと、壁に手をつきながら、沖田は路地裏を後にする。
足を引きずるように歩く。
ここを出て、何食わぬ顔であの人のところへ戻ろう。
そしてその温もりに包まれたら俺は。
あいされたまましねるのだから。