さみかったの


 月を隠して一面に広がる暗闇が、ギラリと目を輝かせて潜む狂犬の息づかいさえも消しにかかる。
 闇に誘われるように集まった群れを、またそれに誘われた別の群れが、息を潜めて夜を徘徊するのだ。

 様子見に向かわせていた隊士が、闇の中から小走りに帰ってきた。
 闇に乗じて見てきたものを伝えるべく、あらかじめ決めていた場所に舞い戻って来たが、しかし昼と違い明かりもない夜では、幾分正確な場所は図り兼ねる。
 気配を悟られないように闇に沿いそっと移動していると、ふと、隊士の目が夜の中で光る赤い点を捕えた。
 記憶と照合すると確かにそれは知っている光だが、ここにあるはずのない光でもある。
 首を傾げながら隊士は光に導かれる蛾のように歩み寄った。

「あの、」
「現状は?」
「はッ!動きはありません!」
「そうかィ」

 あと数歩で光に届くというところで、闇から、否光からまっすぐと響いた上司の声に、隊士はその場でカツンと両足を合わせて礼を取った。
 雲間から差し込む月がぼんやりと淡く、まだ二十歳も行かない上司の姿を照らし出す。
 暗闇で見つけた仲間の姿にひとつ胸を撫でおろしながらも、光に照らされ、改めて小さな点の正体を見て、隊士はまた首を傾げた。

「隊長って、煙草吸いましたっけ?」
「いーや」

 沖田はふうっと白い煙を闇に乗せ、また煙草を口に戻した。
 片足を折り壁に凭れかかった姿を月が照らす。中性的な顔立ち、大人と子どものどっちともつかない中間さがまた独特な危うさを醸し出している。
 口元にくわえられた煙草がそれを一層印象づけていた。

「煙草の明かりがあるから、てっきり副長が来ているのかと思いましたよ」

 沖田はどうでもよさそうに、煙を、また吐いた。

「こんなところにヤローが来るわけねェだろ。ってか今出張だし」
「接待でも、遠出とか羨ましいなあ。副長今頃何しているんでしょうね」
「さあな」

 月に向かって煙を吐き出し、沖田は壁から離れる。
 深い闇が広がっていて、その中で凛と立つ姿は一種の宗教めいたものがあった。
 ぼんやりとした光を纏う少年に、隊士の目は釘付けになる。

「でもあのヤローは鬼だからな。きっと碌でもないことしかしちゃいねェよ」

 刀を携えた少年はそう言うと煙草を落とし、地面に溶かすように靴でもみ消した。
 鞘から刀を抜き月灯りが刃を照らす。少年は、どこまでも綺麗だった。けれど振り返って笑う顔は、命を狩る死神でしかなかった。
 声がなく。風がなく。月がなく。
 今宵もまた、少年は血の海に立つのであろう。そしてその姿はやはり地面に落ちた天使のように、綺麗に違いない。
 沖田は闇に体を溶け込ませて言った。

「そして鬼に従っている俺たちがすることもきっと、碌でもねェことだ」





 血のにおいがする。風呂から上がり、くんくんと自分の体をにおってみるが、染み付いたそのにおいは隠しようがないほど深く、強く、沖田の鼻を刺激した。
 試しに一緒に上がった隊士に「におうか?」と問うてみるが、しかし、いいえ、と首を降るだけであった。
 そうかィ。その答えに、顔には出さず総悟は落ち込む。

 血のにおいは、きっと自分だけにしか分からないのだろう。けれど期待したもうひとつのにおいは、他人にも、そして自分にもわかることが出来なかった。
 掴んだと思ったところで、どうやったって掴むことが出来ない。その事実がただただ歯痒くある。

 床板を踏み自室の前まで来た。障子に手を掛ける。しかし何を思ったか、沖田はその状態で暫く佇み、やがて障子を引くこともなく手を離すと自室を後にした。
 月夜の晩である。
 白の夜着を着た沖田はまた床板を踏み、見当違いな方向へ歩き出す。
 とある一室に辿り着くとそっと障子を開ける。月の光が、出張から帰ってきていた男を照らしだしていた。よほど疲れているのか、気配を消してもいないのに全く気付く様子なくすうすうと寝息を立てている。その寝顔をふと見つめ、沖田は部屋に入ると後ろ手に障子を閉めた。傍らに座る。土方は起きない。寝ていても嫌みなほど端正な顔がそこにあった。

 総悟はぼんやりと土方を見ていた。部屋にも布団にも多少ヤニのにおいが染み付いている。
 けれどその中に居ても、その色に染まるどころか風呂上がりの自分はいつまでたっても石鹸のにおいを纏って溶け込めずにいる。それが、ただ、ただ。

「腹が立つ寝顔でィ」

 俺は、仕事をしてきたっていうのに。
 ゆさゆさと肩を押すと、さすがに土方の瞼が動いた。
 そしてハッと目を見開くと跳ね起き、枕元に置いてある刀に手を伸ばす。しかし総悟はそれよりも早く土方の刀を掴み、取り上げた。
 掴んだはずの刀が掴めず、瞬きを3回ほど繰り返し、土方はやっと目の前に居るのが敵ではないと理解した。

「なんだ、総悟か。驚かすなよ」
「何言ってんですかィ。アンタが勝手に驚いただけでしょう」

 そうは言っても、総悟の気配は掴み難くくて困るのだ。
 仲間を敵と間違えた土方は、居住まいを正すとバツが悪そうに頭を掻いた。

「悪かったな。で、どうかしたか?」
「いや特になんもねェんですけど、土方さん、俺なんかにおいやすか?」
「におい?」

 土方が首を傾げ、座位のまま一歩近付き髪や首元に顔を近付けると、くんくんとにおいをかいだ。
 また首を傾げる。

「何も臭わねえよ」
「なにも?」
「何も臭いやしない。むしろ風呂上がりの良いにおいがするだけだ」
「そうですかィ」

 後ろ頭を撫でて言ってやると、口を開けばいつも生意気なことしか言わない総悟にしては珍しく、しょげている。
 どうしたのだろうと土方は瞬きを繰り返した。真意を問うように総悟を窺い見るが、俯いた状態では表情はわからず、土方は下から覗きこむようにして総悟と視線を合わせた。

「どうした?」
「別に」

 総悟は不貞腐れている。

「真夜中に人を起こして、別に、じゃ通りは通らねえよ」
「だから、別に何もねェんですって。ただ、風呂に入っても煙草のにおいが取れないアンタに呆れていただけです」
「はあ?」
「実はアンタが居ない間煙草を吸ってみたんですけどね、俺は風呂に入っちゃにおいは落ちちまう。でもアンタはいつもヤニ臭いがするじゃねェですかィ。だから、ただ、呆れていただけです。どんだけ煙草吸ってやがるんだって」
「そりゃあ年季が違うからなあ…」

 顔を伏せた総悟は、下から覗きこんだ土方をじっとりと睨みつけるようにして、そう白状した。
 土方はまだどこかぽかんとして、言葉を飲み込めずにいるようであった。それもそうだろう、総悟は煙草のにおいを好まない。それを自ら進んで摂取し、そのにおいが残っていないことに落ち込んでいるのだから。

「土方さんがいけないんでさァ」

 恨めしげに総悟が呟く。

 いつもそのにおいを纏った体で俺を包むから、そのにおいを嗅がない日が続くと落ち着かなくなった。
 だからそのにおいと同じ煙草を吸って、自分のからだに染み付かせようとしたのに、全く馴染んじゃくれない。
 どうすればいいのかもうお手上げだ。どうしてくれるんだ。このにおいがないと俺は。

 淡々と紡ぐ言の葉は、月夜の晩によく響いた。視線を外すと土方が顔を上げる。
 暫く沈黙が続き、総悟が居心地悪そうに顔を上げて土方を見た。夜の晩に、優しく笑う鬼がいた。

「総悟」

 甘ったるく、名を呼ぶ。

「おいで」

 鬼が誘う。子どもは何も言わずその言葉に従った。広げられた腕に収まると、くんくんと臭いをかぎ、慣れ親しんだにおいに安心したようにひとつ、息を吐いた。そんな総悟の様子に土方は髪に鼻を埋め、後ろ頭をまたいとおしげに撫でる。

 なんだ、そういうことか。
 土方は腕の中にある温もりが心底愛らしくなった。なんとも曲がりくねった考え方をするものだ。けれどそれも一興。

「お前は碌でもないことを考える」
「なんでィ。人が真剣に考えてるっていうのに」
「馬鹿。テメーはテメーのにおいのままでいいんだよ」
「…アンタの考えてることはちっともわかりやせん」

 腕の中で落ち着いた総悟が、むすっとした口調でそう言うが、土方にしてみれば総悟のほうがややこしい。

「もっと単純に考えればいい」

 頭にキスを落とし、顔を上げるように促す。ゆっくりと持ち上がった空色と視線を絡ませて、額をくっ付けると、その奥底を覗きこむようにして土方は微笑んだ。

「総悟、それは寂しいってことだ」
「さみしい?」
「そう」

 俺が居なくて寂しかったか?
 そう問えば。

 総悟は空色を猫のように細めると、久方ぶりに降ってきたキスを受け止めて、首に抱きつき耳元で囁いた。

「さみしかった」

 随分素直なねこに、土方は笑うしかない。