おとなだもの。


 コンコンと喉に引っかかるような咳が左隣、7cm下から聞こえる。
 土方はバレない程度に横目でじっと見下ろして、途端聞こえるぶえっくしょーん!と色気もないくしゃみに「はぁ」とため息を落として目を閉じた。

「お前なあ。どうせならもっと大人しいくしゃみをしやがれ」
「生理現象に難癖つけねェでくだせェ。俺ァ風邪っぴきですぜィ」
「どうせ腹を出して転寝をしたとかくだらねえ理由だろ」
「いやァ、新年ですし寒中水泳でもしようかと思いやして川に、って痛」
「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけど本当に馬鹿だなあお前はッ!!」

 拳骨を落とされ頭を擦りながら拗ねる総悟に、怒鳴り声を上げた土方はああもう予定が狂うと頭を掻いた。

(なんで風邪なんか引くんだ)

 廊下をふたりで歩きながら話をしているのだが、夜勤明けで疲れた体と予想外の事態に土方はやる瀬ない思いで悶々とする。
 遣り切れなくてため息をひとつ零せば、鼻をすすった総悟が土方を見上げて不思議そうな顔をした。

「なんで土方さんが不満そうな顔をしてるんでさァ。苦しんでるのは俺だってェのに」
「テメーのせいで俺の予定が狂った」
「? 意味分かんね」

 そこでゲホゲホと咳をしてあーあと総悟が咽を撫でた。

 年が明けるということは祝い事だ。皆が浮き立つ。
 ということは何かと事件が起きやすいということだ。
 年明け早々駆り出され昼夜問わずのパトロールを行い、やっとつい先ほど交代したばかり。
 総悟と上がりが一緒なのは土方が特権を利用しわざと同じタイミングで上がれるようにしたのだが、まさか相手が風邪をひいているとは思わなかった。
 出鼻を挫かれた思いで、土方の口からは先程からため息しか出てこない。

 この馬鹿はと心の中で悪態をついて、土方は自分の部屋へと歩く。
 総悟は自分の部屋の前を通ったが見向きもせず、そのまま土方の隣を当然のように歩いて付いてきた。
 土方が部屋へと入るとそのまま一緒に入って、土方より先に腰を下し胡坐を掻くと近くに置いてあったティシュを2・3枚取り勢いよく鼻をかんだ。
 その動作がまるでおっさんみたいで、コイツって俺の好きな奴だよなと一瞬土方は遠い目をする。

 障子を閉めてがっくりと肩を落とした土方はポケットから箱を取り出すとそれを総悟に向かって投げた。放物線上に飛んだ箱は総悟の膝の上へとぽとんと落ちる。
 それを持ち上げて総悟が首を傾げた。

「咽飴?」
「新年早々風邪なんかひいた馬鹿な奴の為に、さっき買ってきた」
「…マヨ味?」
「ンなわけあるかよ」

 総悟は箱から飴を取り出すと口の中にパクンと投げ込む。頬っぺたの片方が小さく膨らんでいて、リスみたいだ。
 おっさんかと思えば小動物にもなって、ほんとコイツは掴み所がねえなあと土方はつくづく思う。

「土方さんのくせに用意が良いねじゃねェですかィ」

 飴を舐めながら総悟は上機嫌に口元を緩めた。
 向かいに腰を下した土方は膨らんでいる頬っぺたを指でつついてみる。
 遊ぶように総悟が飴を口の中で移動させたからボコッとした固い感触はすぐになくなって、代わりに総悟が口を開いてぱくっと土方の指を咥えた。
 口の中で舌が指を舐め、時々移動する飴が長い指にあたる。それを指でつつけば咎めるように総悟が指に歯を立てた。けれど力を入れていない甘噛みは痛さもなく、まるで歯が生えたばかりの子犬がじゃれているようで。
 総悟と視線を合わせたまま土方が指を引く。
 強く歯を立てて離さないかと思えば案外あっさりと開放されて、土方はそれが面白くない。

「ベタベタなんだけど」
「飴がマヨ味じゃなかったんで、土方さんの指でも舐めたらマヨ味がするかと思ったでさァ」
「俺の構成要素マヨじゃねえから」

 ったく。土方は息をついて頭を掻く。
 だいたい風邪の引き始めで指なんか咥えてばい菌でも入ったらどうすんだと小言を言えば、ああと総悟は頷いて、

「土方さんの指汚ないですもんね」
「そういうこと言ってんじゃねーよ」

 あーもう無駄無駄無駄。コイツに何を言っても無駄だ。
 土方は大きくため息をついた。もう全部諦めた。予定を諦めたわけではない、風邪だからと譲歩してまた次の機会にしようと諦めようとしていた予定を諦めることを諦めた。容赦はしない。

 土方は手を伸ばすと総悟の頬をさらりと撫でて後頭部に手を添えた。長く男らしい指の感触に総悟はすっと空色を細める。近付いてくる顔に目を閉じた。
 最初は軽く触れる程度で徐々に深くなる。
 水音を立てながら総悟はいつも主導権を奪ってやろうとするのだが男に敵うはずなくされるがままだ。まあでも、悔しいけれど気持ちが良い。もっととせがむ。
 口付けを交わしながら土方はそっと総悟を後ろに押し倒した。唇を離し額にキスを落とす。
 総悟は咽を鳴らして機嫌良く笑った。そんな総悟に土方も自然と目元が緩む。

「病人を襲うんじゃねェよ」
「誰が病人だコラ。最初に煽ったのは誰だよ」
「知らね」

 やっとふたりっきりになれたのだ。
 求めるものなんかただひとつで、自分だけが欲していると思っていたものを総悟も求めているのだと知って、土方は顔を埋めて総悟の耳を噛む。
 総悟はびくりと肩を震わせた。土方が擦り寄れば両手を伸ばして男の首へと腕を回した総悟がけらけらと笑う。

「大きな猫みてェ」

 昔から知る、愛しい人物の声がすぐ近くで心地よく響く。
 嗚呼、どうしよう。しあわせだ。
 自然と沸き起こった幸福感に土方は緩む口元を押さえきれなかった。けれどこんな情けない顔を見られるのは御免で、自分よりも一回り小さな体をギュッと抱きしめる。
 途端どくんと鳴る鼓動。聞こえただろうか。近すぎて境界線が分からなくなる。

「それにしてもまた新しい年がきちまった。アンタとの腐れ縁もまた更新ですかィ」
「言うな。今年はお前が何を仕出かすのかって考え始めると気苦労で俺は萎える」
「難儀な人でさァ」

 総悟が笑って、土方に擦り寄る。

「また年を取るんですぜィ。アンタはどんどん老いていくんでさァ」
「だから、さっきから萎えることばっか言ってんじゃねえよ。テメーなんかまだまだガキのくせに」
「いつまでもガキ扱いはやめてくだせェ」
「ほお」

 顔を上げて土方は挑戦的に総悟を見下ろした。
 眼下にある空色も迎え出るような色をしていて、土方は口角を上げて不敵に笑う。

「ならやってみろよ。大人な沖田総悟くん?」
「年寄りには負けやせんぜ」

 土方の首に両手を回したまま、総悟が妖艶に笑う。
 目を細め、一体いつからこんな表情をするようになったのかと土方は思う。勿論その大部分の要因は土方ではあるが、時折どこでそんな仕草を覚えてきたのかと総悟に飲まれる瞬間がある。息も思考も理性もすべてを奪われる瞬間が。
 その度に思うんだ。俺はコイツに心底溺れているのだと。

「好きだ」

 込み上げた感情のまま言えば、総悟がきょとんとしてから一拍、花が綻ぶように笑った。
 おっさんみたいなくしゃみをして、リスのように頬っぺたを膨らまして物を食べて、子犬のようにじゃれて、妖艶に笑ってもう大人だと言う総悟は、顔を上げて拙いキスを送ると子どものような無邪気さで言う。

「知ってやす」

 自信満々にそう言うものだから、なんだかこっちが気恥しくなってコツンと額を合わせて土方は年甲斐もなく照れて笑った。