土方の誕生日を、総悟は「誕生日おめでとうございます。」というまるでテンプレートな一文で済ませた。
プレゼントを買っていなかったわけでも誕生日を忘れていたわけでもなく、むしろ何日も前から悩みに悩んで物を選び日付が変わる瞬間を今か今かと待ちながら迎えた日であったはずだ。しかし結果はご覧の通り、何ひとつとして形にはならなかった。
どうしてこんなことになったのだろう。石が落ちて水面に波紋が広がるように、細かな反響が総悟の中を掻き乱す。
特段土方が何かしたわけではない。
ただ、総悟の夢見が悪かった。
夢の中で、お前と俺では違いすぎると突き付けられて、ああ確かになって認めた瞬間、立っていた地面が音を立てて崩れた。奈落の底に落ちながら太陽に照らされた土方を見ていると、「やっぱり立っている場所が違うんだな」って他人事のようにひどく納得して。底が見えない闇へと落ち、永遠などないんだなんて当たり前のことを悟る。
この関係がいつまでも続く確証なんてない。
別れという強迫観念が身の内で抑えきれないぐらい大きく膨らんだ。
それなりに我が事のように楽しみにして待ち望んだ日のはずだったのに、夢がもたらした不安は恋人なら簡単に言えるはずの、「会いたい」という言葉すら口にすることが出来ず、誕生日に機械の箱を介して送った言葉はあまりにも他人事だ。
こんなの誰も望んでいない。
そんなこと、自分が一番分かりきっていることだというのに。
シングルナイトサイン
七夕の次の日が誕生日なんて、惜しいのな。結局お前は取り逃がしてんだよ。ああ、そうだ。いっそ七夕が誕生日ってことにすれば? そのほうがロマンチックだろ。いかにもメディアが沸きそうな設定だ。
初めて土方が総悟の誕生日を知った時、男は咽の奥を震わせてそう嘲笑った。総悟はその時のことをよく覚えている。見下されたのに、不思議と腹は立たなかった。吸い込まれそうな瞳だと星空を見るようにうっとりとした口調で囁かれる彼の黒く沈んだ瞳を何とはなしに眺めながら、からっぽの瞳をしているなァとぼんやりそんなことを考えた。総悟が見る限り、無数の星どころか光のひとつも見出すことが出来ない。つまらない色だ。まるですべてをどっぷりと飲み込む泥のように、重く、暗い。
「じゃあ俺が星の王子様になって、アンタを輝かせてあげやす」
「は?」
「アンタ、顔はいいけど中身がダメでィ。何もかもがつまんねーって顔してやす。絶望感と孤独感がたっぷり。だから、星がキラキラ輝いて迷子ちゃんを導いてやらねェと」
指をぐるぐる振ってまるで魔法をかけるように回していた指を土方に突き付ければ、男は言葉をうまく飲み込めなかったようできょとんと間抜けな顔を晒した。仮面を完璧に忘れた素の表情は貴重であり見物だ。総悟は声を上げて笑う。
そんな総悟を見て男は不思議そうな顔をした。ぱちぱちと瞬きをしてからゆっくりと首を傾げるのがまるで本当の迷い子みたいで、よく覚えている。
目の前に広がるものを見渡した総悟は、これ見よがしにため息をついた。だというのに、この男は一体何時からこんなつまらない男になったのだろうかと憐れみさえ感じる。
「……土方さん。これはなんのつもりですかィ」
うんざりとした顔で問えば、向かい席に腰掛け薄暗い照明の中キャンドルの光に照らされた男が何を言っているとばかりに肩を竦める。
「どういうつもりって、見りゃ分かんだろ。お前の誕生日だからな、奮発してみた」
「こんなんで金使うぐらいなら、新しいゲーム機でも買ってくだせェ」
「嫌だね。お前ゲームに夢中になってテレビの前から離れねぇじゃねーか」
土方は心底面白くなさそうな顔をする。この傲慢さと子どもっぽさは、一体どこから来てどのような折り合いをつければトップモデルの仮面と付け換えられるのか。総悟は前々から不思議で仕方ない。
「それにゲーム機なんてムードがねえ」
「ムードねィ…」
息をつき、総悟は今自分が居る場所を見渡す。
極度に照明を落とした店内は壁一面に嵌められた窓から夜景を取り込んで、まるで都会の中にぽっかりと浮かんでいる島のように思えた。人の気配が煩わしいと奥にひっそりと在る個室を貸し切ったおかげで、そこは肌に馴染まぬ静寂が落ちている。風もないのに所々に置かれたキャンドルの灯がゆらりと動き、ピアノの生演奏がそっとささやかなさざ波となってホールから漂ってくる。テーブルには名前も知らないし多分一生縁もない、どの角度から見ても作品のように盛りつけられた料理の数々が白いクロスを埋め尽くしていた。
総悟は土方に視線を戻す。こちらの言い分を正確に読み取っているだろうに、何か言いたいことでも? と素っとぼけている様が憎らしいったらありゃしない。
「嫌がらせですかィ」
総悟は唇を尖らせる。が、土方は意に介さない。
「どこが。誕生日を良い場所で祝って、ウマいもん食って、それのどこが嫌がらせなんだ。最高だろ」
「最高どころか最悪でィ。俺がこーゆー高そうな場所嫌いって知ってるじゃねェですかィ。居るだけで疲れやす。アイアム庶民!」
「まぁいいから食えって」
文句を垂れても一向に取り合ってくれず、軽くあしらわれて、まるでこっちが駄々をこねているように思えてむっとする。
椅子ごと体を引き行儀悪くテーブルの端に顎を乗せて頬を膨らませるが、土方は呆れたように息をつくばかりで、声にはださず口だけで「は・や・く」と食事を促すばかり。
総悟は目の前の皿にフォークを突き立ててマナーなど全く気にせず肉のソテーを口の中に放り込む。舌の上に広がる味は普段総悟が食べる物と格段の差を見せつけて、店の印象と違(たが)うことなく美味かった。しかし散々文句を垂れた後で手放しで喜ぶわけにはいかず、総悟は渋面のまま咀嚼する。
そんな様を土方は呆れたように見ていたが、小さく肩を竦めると自分も料理に手を付け始めた。完璧なマナーでフォークやナイフを使い優雅に食べる土方をちらりと一度だけ盗み見して、雲散してはまたもくもくと集まってくる思考を払うように総悟は口と手を動かす。
(土方さんはきっと怒っている)
総悟は勿論だが、土方もこういう高い店は気疲れするから嫌いだと前に愚痴をこぼしていたことがあった。彼は人目があるところでは仮面を外すことが出来ない。世間という厄介な目があるかぎり、土方はいつだって演技者だ。息苦しい世界に生きている。
だから、そんな男がわざわざ誕生日をこんな場所で祝うはずがなかった。
部屋の中でひっそりと誰の目も気にする事なく祝うのが常であったのに、それを蹴破ってまでこんな場所を使うのは土方の仕返しだと総悟は推測を立てる。
5月5日の誕生日のことを怒っているんだ。土方はアレで意外にロマンチストだ。あのメールは相当お気に召さなかっただろうとそんなことは総悟でもすぐに予想出来ることだった。
「総悟」
思考の海に沈んでいると急に名前を呼ばれて総悟はビクリと大きく肩を震わせた。
顔を上げればとっくに食べる手を止めた土方がじっとこっちを見ている。真剣な目に総悟は思わず怯んだ。激戦を勝ち上がってきた男の目は他にはない鋭さがあって、それは総悟の青い瞳を簡単に射ぬく。
男は静かに問い掛けた。
「俺の誕生日、どうして連絡してこなかったんだ?」
「……。メールはしやした」
「じゃあ言い方を変える。どうして俺を求めなかった。"会いたい"の一言もなかったよな」
「…別に、理由はありやせん。ただ仕事だと思ったんでさァ」
会いたい、そんなのは何度も書いては消した言葉だった。
けれど総悟はその言葉を飲み込んで顔を背けた。言えるはずがなかった。
しかし黒は追求を緩めない。
「仕事だと、俺は言ったか?」
「それは聞いてねェけど…。でも仕事だったんでしょう? 芸能人は記念日も商品として売るってアンタのマネージャーから聞いたことがありやす」
「ふーん。そう。じゃあ教えてやるよ、総悟」
土方が煙草に火を付けると、嗅ぎ慣れたものが全く馴染まない部屋の中を漂う。
苦い煙を吐き出すと、煙草を灰皿に押しつけて土方がとんでもないことを口にした。
「すべてが規格には収まらない。中にはいろんな奴が飛びつく目玉商品を売らない奴も居る」
「?」
「5月5日、俺は休みだった」
「…………は?」
「1日、休みを取って、俺はあの日お前からの連絡をずっと待ってたんだ。携帯を握りしめてずっとな。だからやっと来たメールが『誕生日おめでとうございます』の一文で終わってたのは、正直ショックだったぜ」
その時のことを思い出して苦い笑みを浮かべる土方の顔を、総悟は唖然とした顔で見つめた。
声という声を忘れてしまったように、総悟は口を開けたまま固まってしまう。
休みが取れれば必ず連絡してくる土方が、じっとひとりの連絡を待って1日を無駄に過ごした。総悟はなんと言えば良いのか分からなかった。
「分かったか? 俺はお前があのメールを送ったわけを聞く権利があるんだよ」
俯いて、総悟は息を吐いた。逃げれないと思った。まだ往生際悪く言い訳という言葉を身の内の何かが探していたが、それが声となって飛び出ることはなかった。
変わりにどこか投げやりな、小さな声がぽろぽろと零れ落ちる。
「夢を見たんです」
「夢?」
「そう。アンタに『お前とは立っている場所が違うんだ』って突き放されて、俺が崖の下に落ちる夢。言われた瞬間、俺は怒りもしなかった。怒るどころか、ああ確かになァって心の底から納得しやした。土方さんといつまでもこうやって居られる確証なんて何もないんだなって当たり前のことを思っちまって。……そんなこと考えてたら、何を言ったらいいんだか訳わかんなくなっちまった」
永遠なんてないんだよ。いつかはこの関係が終わる日がくる。今から正しい距離間を保ってないと、後々深い傷を負うことになるよ。誰とも言わぬ甘い声が耳について離れない。
終わりを予見すると、急に手を伸ばすのが怖くなった。この先を見失う時が来るのなら、手を伸ばさなければいい。自分勝手な思考に雁字搦めになる。
「…………」
暫しの間を置いて、ガタリと土方が席を立った。総悟の体が小さく跳ねる。机を周った土方が総悟の前に立ち影が差した。手を伸ばされて、怒られるかもしれないと構える。
おい、と呼ばれて恐る恐る顔を上げれば、
「痛ェ」
長い指で、それなりに痛いデコピンを額に食らわされた。痛みがぐわんぐわんと地味に広がっていく。
何するんだと睨みつければ、腰に手をあてて、土方は心底呆れた顔をしていた。
「お前な、なんでそういう仕様もないこと考えるんだ」
「なんでィ! 仕様もないとは聞き捨てならねェ! これでも俺はいろいろ考えて、」
「それが仕様もないって言ってんだろ。第一、永遠なんてそんなモンあるわけねーだろ」
「………ンなはっきり言わなくたって」
分かっていても、そこはもっとオブラートに包んで言って欲しかった。そうストレートに言わなくてもと総悟は渋る。
総悟の目の前に、指がビシッと突き付けられた。
「いいか。例えばだ。明日俺が生きているなんて保障がどこにある」
「……はい?」
「だってそうだろ。次も元気に会えるなんて保障はどこにも誰も持っていない。不慮の事故が起こる可能性は否定できない。お前だっていつ何時何があるか分からないだろ」
「まァ……」
「別れるなんて考えは俺の中にはないけど、それを抜きにしても永遠に続くなんて保障はどこにもないんだよ。だったら総悟、貪欲になったほうがいい」
欲しい物を欲して、やりたいことをやって、後悔しないことのほうがずっと得だ。
「考えるより手を伸ばしてみろ。俺はその手を必ず掴めるから」
自信に満ち溢れた声を、総悟はただただ見つめた。土方はふっと笑って総悟の丸い頭を撫でる。な? と覗き込まれると、もうダメだった。
土方はずるい。傲慢で勝気で変にロマンチストで、勝手にずんずんと先を行くくせに、総悟が立ち止まったらその足を止めて惜し気もなく手を伸ばしてくる。その手のひらの感触がどうしてだか大切だと言わんばかりに優しくて、総悟はいつだって抗う術を持っていない。
何かが堰を切って溢れそうになって、総悟がグッと唇を噛み締める。それを見て土方が苦笑した。
「原に俺は今後悔している。誕生日、意地を張らずに俺から連絡すればよかったってな。結局どうでもいいんだよ。俺が居てお前が居れば、それで」
結構単純だったりするんだよ。
総悟は俯いた。そうしないと、心臓の音が口から飛びだしそうだった。
奥底で凍っていた氷がゆるゆると溶けていく。顔があつくてたまらない。
携帯を握り締めて何度も連絡を取ろうとした自分の姿がぱっと頭の中で広がった。その先で土方もまた携帯を見つめて今か今かと連絡を待っていたかと思うと、その繋がりがどうしようもなくうれしかった。
「俺が星になるつもりだったのに」
「なんか言ったか?」
「いいえ、なんでも」
頭を振って、総悟は顔を上げた。
見上げた先にある土方の瞳には光がある。いつの間にか総悟が一番好きになっていた色だ。
「誕生日、すみませんでした」
謝罪は自然と零れ落ちた。もういいさ、と土方が笑う。
「よし、ごちゃごちゃ考えるのは終わりだ。分かったら早く食べろ。嫌がらせっていうのもあるが、単純に良い場所で上手いもん食わしたいってのも本当なんだ」
「デザートもあるんでしょうねィ」
「それは家に帰ってからだ。ここじゃ味わって食べれないからな」
「ケーキ? うんと甘ェのがいいな」
「甘いぜ。あまーくてウマイの」
甘いものが大の苦手な土方が言うそれが何を指しているのか、総悟は分かりきっていたけど気付かないフリをしてあげた。
今日は誕生日だ。欲しいものを求めて何が悪い。
誰に弁解するわけでもなくそう開き直って、総悟は妖艶に笑う。
「味わって食べれるんでしょうねェ」
「ああ、十分に味わって堪能してくれ。俺も味わせてもらう」
土方は胸の前に手を翳して、何処かの貴族のように妙に演技掛った礼を取った。
気の済むまでご堪能ください、彦星になりそこなった王子様、なんてよくもまあ思いつくもんだと感心するような言葉まで口にする。
総悟はつい笑ってしまった。その笑顔に、土方も笑みを零す。
「総悟」
身を屈めて土方が総悟の頬にキスを送った。
俺だけのお星様。不安も暗闇も何もかも取っ払ってあげる。
笑みはそのままに、ありったけの想いを乗せて告げられた声色はどうしようもなくいとおしくてたまらなくこそばゆい。
「誕生日、おめでとう」
見詰め合って笑い合えば、それだけで信じられるものがここにはある。
笑みを零し、総悟は目の前にある星に手を伸ばした。