Act.7
 光と影があるように、見えている部分なんてほんの僅かに過ぎない。

「まいど」

 着飾った人間が歩く大通りを土方は歩いていた。
 活気があるここは例えるなら光の部分で、真っ黒い服を着ている自分は黒い異物だ。しかし平和な日常が常となっているおかげでまさか隣を歩く人間が社会の影だとは誰も思わず、不振がる素振りも見せない。
 能天気なことだと思う。ひとつ道を隔てればすぐそこに影が、平和な世では生きられない凶悪な人間たちが蔓延っているというのに、ここに住む人間たちは全く知らぬ顔である。

「…………」

 大時計のカラクリ時計が鳴った。下で待ちわびていた子供たちがわっと声を上げる。
 無邪気な顔をチラリと見やり、適当な食料を詰め込んだ紙袋を抱え、土方はそっと路地裏へと身を滑らせた。
 光も入らないそこは薄暗く迷路のような細道が入り組んでいる。道を知らなければそのまま永遠にさ迷う蛇の道。それは影に生きる人間にとっては絶好の隠れ家だ。だから土方もここに身を潜めた。

 曲がり角を幾重も抜け光とはとうに別世界となった奥の奥。寂れた外付けの階段をカンカンと上がり4階へとたどり着くと鍵を回して扉を開ける。一間しかない小さな部屋だが、だからこそソイツが何処にいるのか一目で分かる。
 ソイツは部屋の隅で体を丸めて座り、膝に埋めていた顔をこちらに向けた。ぼうっとしていて生気がないが土方のことは認識したらしい。すっと目を細める。じっとこっちを見る青色は土方が知るそれより濁っていた。
 「飯」とだけ言い、抱えていた紙袋を床に置く。ちらちらと青色がこちらを見た。

「毒なんか入っちゃいねえよ」

 警戒色を見せる空色をフンと鼻で笑い、土方は紙袋に手を突っ込んで無造作にりんごを取り出すとシャリッと音を立ててそれを食べ始めた。ムシャムシャと食べる土方を見て沖田はソロリと手を伸ばす。袋の中からパンを掴むとちまちまと食べ始めた。
 食べ物に夢中な姿は子どもそのものだ。土方の黒い瞳がそれをこっそり見ている。

「俺を殺さねェんですかィ?」

 食べ終わった頃総悟がふと問うたが、寝ているのか壁に寄りかかり目を閉じている土方は何も言わなかった。
 しばらく待っても何も言わない。
 肩を落として総悟は膝を抱えた。顔を上げると閉めきったカーテンの間から晴れ渡った青空が見える。

 その遠さはあの頃と何も違わない。檻の中と、何も変わらない。
 総悟はいまだに捕らわれたままだ。
 青空をじっと見上げる総悟を、土方の黒い目が見ている。
































































































Act.8
 一発の銃声が空を引き裂く。
 総悟は目を丸くする。
 己に向けられていた銃は引き金を引く瞬間に空に向けられた。
 撃たれるのだと夢うつつに覚悟していた総悟は呆然として成り行きをただ見ていた。その間に近付いてきた土方に手首を掴まれると、引っ張られるように歩き出す。

「なァ!」
「…………」
「なァって!」
「…………」

 聞きたいことは山ほどあった。尋ねたいことだって数えきれないほど。
 けれど総悟がいくら聞いても土方は答えない。そのくせ掴まれた手は一向に離れない。
 なんで、と総悟に募るのは疑問ばかりだ。土方があの約束の人物だとすればどうして殺さない、どうして助ける。
 それは土方に連れて来られたこの部屋の中でも消化しきれない疑問となって未だに渦を巻いていた。

(今日はまだ帰ってきてねェのか…)

 一間しかない、生活感の欠片もない狭い部屋に連れてきたわりに土方は部屋を開けることが多かった。来ても何も言わず寝そべって眠ったり飯と言って食料を持ってきたり適当な着替えを持ってきたりと、必要最低限程度にしか傍にいない。
 外鍵はかけていくが沖田は中に居るのだから内側から鍵を開ければどこへでも行ける。だから監禁というわけでもない。行こうと思えばここを出て青空の下に行けたが、ここを出ても沖田には行く場所も会いたい人間も居なかった。

「暇すぎて頭が腐りそうでィ」

 沖田はため息をついた。
 ゴロンと横になれば、死刑になり自分は死ぬのだと納得していた分、今も生きているということがまるで夢のようで未だに実感がわかない。

(俺は生かされた)

 手を握ったり閉じたりしてそう思う。
 急な眠気に襲われた沖田は目を閉じて眠りにつく。




 夢を見た。
 何気ない昔の夢だ。姉が居てふたりで笑っている遠い夢。
 届きそうで届かない幻はろうそくの炎のようにゆらゆらと揺れて今にも消えそうだ。大きくなった総悟は佇みただ傍観することしか出来なくて、遠くから姉の姿を見ることしか出来ない。
 夢の中の自分が何か囁いた。それを聞いた姉がクスクスと笑う。そんなふたりを見る汚れた自分。
 届かない。失くしたのだ。知っている分かっている。それでも手を伸ばすにはいられない。

「姉上」

 たまらず呼んで伸ばした手は真っ赤に染まっていた。




 うっすらと目を開けると白いカーテンが風に踊っていた。光が差し込み眩しい。真っすぐと天井に向かって伸ばした手が何かに包まれていた。視界が水を張ったみたいに歪んでいる。ひとつ瞬けば、溜まっていた水滴が目尻を伝って落ちて、ああ泣いていたのかと他人事のように思った。

「総悟」
「…土方さん」

 名前を呼ばれて見やれば、いつの間にやら傍らに土方が座っていて伸ばした沖田の手を握っていた。
 ぼんやりとそれを見ているともう片方の手が伸びてきて優しく総悟の涙を拭い髪を撫でる。
 いつもの素っ気ない態度と違い土方は柔らかく笑っていた。
 窓から差しこんでいる日差しに照らされた土方は妙に眩しかった。

「怖い夢でも見たのか?」

 あやすように優しく問いかけ覗き込んでくる。

「なんでもねェ」

 泣き顔を見られたくなくて片腕で目を覆いふるふると首を振った。
 苦笑したような気配がして大きな手が優しく髪を梳く。
 我慢するなとその声が言った。

「もう散々我慢したんだろ。大丈夫だ、泣いちまえ」

 労わるようなそんな声は卑怯だ。
 今まで総悟に向けられた言葉は姉からのもので、他の声は知らない。
 姉を失った今総悟に伸ばされる声などない。

 ああそれなのにそんな声で

「総悟」
(名前を呼ぶんじゃねェよ)

 掠れそうな反論は口を開けばけれど涙声になってしまいそうで、総悟は唇をギュッと噛み締めるしかなかった。

「うっ、」

 唇から僅かに漏れる嗚咽。
 一度出てしまえばもう駄目だ。
 何も言わずただ優しく髪を梳く感触に握られた手の温かさ。

 失った。守れなかった。討ったはずの仇は未だにこの世界にあって、自分がしたのは一体なんだったのだろう。絶望。暗い闇。赤い血。人を殺した。そのことに喜びを感じた時もあった。総ちゃんと呼ぶ姉の声。日だまりのような笑顔。もう二度と届かない。日が経つに連れ掠れていく。それでも俺は

(生きている)

 繋いだ手をぎゅっと抱えるように体を折り曲げ、嗚咽を噛みしめながら沖田は耐えきれず泣いた。息が詰まって呼吸が苦しかった。あやすように土方が背中を撫でる。それもまた生きている証だ。

(生きている)

 ミツバとの思い出や高杉の言葉や自分の罪、生きていることへの罪悪感と喜びがごちゃ混ぜで沖田は泣き続けた。掠れた鳴き声は一間の小さな部屋に響いて、開けた窓から青空へと響く。
 土方は何も言わなかった。けれどその手は温かく沖田を優しく包み込む。温かさに堰を切ったようにまた泣いた。