Act.9
土方に手を握られて泣いたあの日から、何かが変わった。
部屋に来ても必要最低限しか言葉を発しなかった土方はあの日を境に声をよく掛けてくるようになり、言葉を交わす回数も部屋に居る時間も日に日に増えて、ふたりの間にあった隔たりも気にならなくなってきた。
部屋から出ない沖田にとって、一間しかないこの狭い空間が今の全てだ。だから部屋の中で土方と他愛もない話をしていると、時々沖田は全部忘れて何もなかったかのような錯覚をしそうになる。
「嘘をつかないって言ったわりにアンタは嘘ばっかりでさァ」
いつものように土方が持ってきた食事に手を伸ばしながらふと牢獄の中でのやりとりを思い出した沖田は、文句を言うような口調で言葉を口にした。お目当てのたまごさんどを探し出してそれを頬張りながら土方の反応を窺うが、しかし缶コーヒー片手の土方は全く意に介していないようで、どこが?と逆に開き直っていた。
「俺への手紙は友達に預けたって言ってやしたけど、実際はアンタが持ってきていたじゃねェですかィ」
「嘘は言ってねーよ。俺は俺という俺の友達に配達を頼んだんだ。手紙を渡した日は俺は俺に昼飯を奢った」
「……。意味わかんねェ」
「分からねぇか?」
ククッと喉を震わせて土方が笑う。馬鹿にされたようでムッと膨れ面をして「屁理屈だ」と反論すると、立ち上がった土方に上からわしゃわしゃと頭を強く掻き回された。
「わっ!」
突然で驚いた。うーと目を瞑り手を振り払って睨みつければ、視線の先で、土方が目尻を下げて柔らかく笑っている。
総悟はその表情に釘付けになった。嬉しそうで、まるでこの時間が大切だと言っているような表情に、姉の笑みを思い出して何故土方が匿っているだけの自分にそんな笑みを見せるのか分からず総悟は戸惑った。
何故そんな風に笑うのか。
何故そんな笑みを見せるのか。
総悟には分からない。
(知らない)
そんな幸せそうな顔は、俺に向けられるものじゃない。
『彼女はよく笑ってくれた』
姉から受けた無償の愛を思い出す。それは両手から零れ落ちるほどいっぱいもらった、総悟にはかけがえのないものだ。病気で辛い時でも大丈夫と言って笑ってくれて、空腹の時でさえたった少しの食べ物を分け与えてくれた。
『それはこの世でたったふたりの姉弟だから』
総悟が酒癖の悪い男の元に居ると知って、ミツバは助けに来てくれた。手を繋いで一緒に逃げてたったふたりで生きてきた。ミツバは総悟を愛してくれたし、総悟にとってもミツバの存在はかけがえのないものだった。
『じゃあアイツは?』
じゃあ、土方の存在はなんだろう。
何故俺を脱獄させて何故その後もこうして面倒を見て匿ってくれるのか、総悟には分からない。利己的にしか動かない人間ばかり見てきたから、ただの気紛れだとは思えず、かと言って己を助けたところで何か得になるとも思えなかった。
総ちゃん。
総悟。
ふたつの笑みが重なって総悟を揺さぶる。
『よかったよかった、まだお前を見てくれる人間が居た』
先程から真っ暗な暗闇の中でもうひとりの沖田総悟がクルクルと踊っている。鏡から生まれたようなそれはケラケラと壊れたマリオネットのように笑って総悟の回りをくるくると回っていた。
よかったよかった。そう言って笑う。でも残念。可哀想な俺。歌うようにそう言ってはしゃぐ。
「何が可哀想なんでィ」
クルクルと回りを回っていた沖田総悟は突如グイッと総悟に顔を近づけた。至近距離、目と鼻の先でケタケタとカラクリのように笑う。だってだってとにんまりと笑う。
『手に入れたって、どうせまた失くすんだ』
姉上を殺したのは一体誰のせい?
薬と称してただの水を与えたのは?
姉に嘘ばかりついたのは?
狂った自分が首に手を掛け憎悪に染まった瞳で呪うように声を吐く。
『お前が殺したんだ』
ハッと目覚めた瞬間、ここに居てはいけないと沖田は部屋を飛び出した。
ここに居てはいけない。土方が帰ってくる前にどこか遠くへ行かなければと知らない町を闇雲に走った。
部屋の中に居て体力が落ちているだろうこの身体で、どれだけ遠くに来れたのだろう。道が途切れて立ち止まれば、そこは一面の川だった。夕日が川水面に反射して、宝石をばら蒔いたようにキラキラと輝いている。
立ち止まりはぁはぁと肩で息をして、すっと息を吸い込んだ。
急に走ったものだから足がじんじんと傷む。足下を見下ろせば、そこで初めて裸足なのに気付いて自嘲する。
「情けねェ」
急に、怖くなった。
あの部屋に居て土方の帰りを待っている自分も、帰ってきた土方に声を掛け茶化して笑う、そんな日々を望んでしまっている自分も、誰も彼もが手にする平凡な"幸せ”が目の前にあるのだと気付いた瞬間急に怖くなった。
(だってそれはいつかは失くすものだ)
川を見つめるとドロドロな暗雲が奥底から立ち込める。
姉上、高杉、組織。
そうだ、まだ組織の残党が残っている。姉ちゃんのお墓の前で俺は仇を打つって誓ったんだと思い出し、爪が身の内に突き刺さるほど拳をギュッと強く握る。大丈夫だ、この体が動くかぎり俺はやれる。
痺れる足に鞭を打って振り切るように踵を返した。ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
暮れる夕日に照らされて、一面が茜色に染まっていた。
足を向けたその正面に、夕日に照らされた土方が居た。
いつも落ち着いている土方が肩で息をして、見つけたと言わんばかりに総悟をじっと見つめている。
探していたのかと一瞬期待して慌てて否定した。そんなはずはない。俺は、
足を1歩後ろに下げた沖田の腕を逃がさないとばかりに土方が掴む。
「帰るぞ」
一言、そう言ってそのまま引っ張られそうになって慌てて踏ん張った。
「離しやがれッ」
パシンッ。
夕暮れ時の誰も居ない空間に手が振り払わられる音が響く。総悟は俯き、土方の登場に流されそうになっている己を叱咤する。
水の流れる音だけが響く。土方は何も言わずそこ居る。重い空気に耐えかねた沖田が小声で呟いた。
「そろそろさよならする時だと思いやして」
土方は静かに、けれど強く問いかけた。
「どういう意味だ?」
「俺ァ死刑囚ですぜィ。罪人を匿っているとなれば、アンタにまで迷惑がかかりまさァ」
「ンなの今更だろ」
「それだけじゃありやせん。俺にはまだやることがあるんです」
「やること?」
「姉上の仇討ちですよ。どうしても許せねェ腐れ野郎どもがまだ残ってるんです」
そうだ、俺にはまだやることがある。まだ組織は、姉の敵討ちは終わっていない。
なのにあの部屋に居ると全てを忘れそうになってしまう。恨みも憎しみもない日常に浸かってしまう。
姉を殺した自分が何気無い毎日を送ることは、総悟にとって耐えがたい裏切りだった。
「アンタに会えてよかったです」
頭の中で初めて栞を見つけたあの瞬間が蘇った。栞から始まって手紙になって直接声を聞いて。ああ、こんなことってあるんだ。
『よかったよかった、まだお前を見てくれる人間が居た』
木霊した夢の声に総悟は笑みを浮かべた。
そうだ、よかった。まだ俺を見てくれる人が居た。
それだけでいい。
それだけで充分じゃないか。
総悟はくるりと後ろを向いて背を向けると、努めて明るく言った。
「土方さん、アンタに助けてもらった命、無駄にはしたくねェけど俺は姉上と仇を討るって約束したんです。ありがとうございやす。アンタのおかげで俺は約束を守ることが出来そうです」
顔を見ないままの別れは空しくなる。けれど顔を見てしまえば、またこの足を止めてしまいそうだからこれでさよなら。
鉛のように足が重たい。立ち去るのを拒んでいるのだろうか。
(俺の体だろう、思う通り動け)
土方に背を向けたまま、沖田は歯を噛み締めて地面に張り付いてしまったような思い足を1歩進める。
が、それと同時に土方にまた腕を掴まれた。しかも先ほどよりも強く、逃がさないと言わんばかりに。
怒った口調で土方が唸る。
「迷惑ってどういうことだよ」
「だから言ったじゃないですかィ」
「テメーが罪人だって? 匿ったら俺にも迷惑がかかるだって? ンなの今更なんだよ。俺がテメーを脱獄させた時点で俺も罪人だ」
必死な言葉にとにかくこの手を離してほしくて総悟は嘲笑った。
「だから気にするなって言うんですかィ。看守が聞いて呆れやす。罪の重さが違いまさァ。土方さんってエリートだったんでしょ? 囚人の間でも噂が飛び交ってやしたぜ。俺に騙されたとでも弱みを握られていたとでも弁解すりゃあ、刑務所でも信頼されていたアンタのことだ、脱獄の加担なんてどうとでもなるでしょう」
「俺に、お前に嘘の罪を着せろって言うのか?」
「俺は死刑囚ですぜィ。今更罪の重さなんてどうってことねェよ」
「お前は、」
言葉を切って、土方が何かを耐えるように奥歯を噛み締めた。一度目を伏せると軽く頭を振り、振り向かない後ろ頭をじっと見つめる。昔から変わらない。何もかも。だから俺は決めたんだ。
「昔、俺は人を殺した」
「え」
突然の告白に慌てて総悟は振り返った。黄昏に暗く光る土方の目を見て、言葉を失う。冗談などひとつもない真剣な顔でまっすぐと沖田を見て土方が言葉を続ける。
「何人殺ったのかなんて覚えちゃいねえぐらい、この手にかけた。罪の重さなんて俺の方が今更だ。総悟、テメーを匿う以前に俺は罪人だ」
「………なんで」
唖然とする総悟を見て、土方はこっそりと自嘲を浮かべた。けれどそれはすぐに消し去って「だから言っただろう」と言葉を続ける。
「前に手紙に書いたはずだ。このことを言う気にはなれなくて結局は消したが、あえて筆跡は残しておいた。読んだだろう?」
一緒に逃げないか? 書かれたあの言葉を、総悟はハッと思い出した。
Act.10
俺のこと話すよ。
そう言われて結局は部屋へと戻ってきた。ふたりは壁に背を預けて横並びに座る。電気を付けない部屋は暗く、窓から街灯の灯りがほのかに差し込み相手の顔がやっと分かるぐらいの明るさだった。沖田は刑務所の夜を思い出した。
「最初に人を殺したのはガキの頃だ。そん時のことはあんま覚えてねーな。必死すぎて、気付いたら人が壊れた人形みたいにそこら辺に転がっていた」
脳裏にさっと過るものがあった。俺と同じだと総悟は無意味に足の指を曲げる。
「なんで人を殺したんですかィ」
「そうするしか生きれなかったからだ。俺が生きていた場所は、そういう場所だった」
黙っている総悟を見つめ、怖いか?と土方は問うた。総悟はフルフルと首を振る。
「怖くなる理由がありやせん」
そういうと土方はどこかホッとしたような顔をした。ひとつ息を落として、その手を汚したことを後悔しているか?と聞かれ総悟はまた首を横に振る。その時の光景を思い出し悪夢に魘されることはありさえも、後悔するどころか再編した組織をまたこの手で壊したいとさえ思っているのだ。
尽きない炎を宿す沖田を見て、土方はフッと笑う。
「お前は強いな」
言われた言葉が理解出来ず総悟はポカンとする。
土方が笑った。
「なんだよその間抜けな顔は」
「いや、そんなこと言われたの初めてだったんで」
調子が狂うとばかりに総悟が頭を掻く。ボリボリと頭を掻き、言葉が染み込むうちにちょっとだけ気恥ずかしくなりゆるく口元を緩めた。
「俺ァ強くなんかありやせん。…何もかもが終わった後で暴れているただの餓鬼でさァ」
敵討ちなんて誰も救われねぇよ。誰かが言った言葉を思い出す。苦笑するように言った。
「でもね、土方さん。それでも俺ァやらなきゃいけねェんです。誰も救われないのも所詮八つ当たりなのも招致してまさァ。けど俺にはそれしかないんです」
だから、俺は明日出ていきやす。
笑って言って、落ちた沈黙。
この部屋で土方の帰りを待つのもいいかもしれないと思った。けれどいつかなるかもしれないと思うとどうしようもなく怖くなる。だから抜け出せなくなる前にさよならを。俺を大切にしてくれた人が居た、それだけで充分だ。
土方さん。もう一度名前を呼ぼうとした時、
「俺も手伝う」
沖田の決心を他所に土方が事もなく言った。
沖田はポカンとする。
「…何を?」
「お前がやらなきゃいけないことを、だよ。組織とやらを潰すんだろ」
「……アンタ、俺の話を聞いてたんですかィ?」
「テメーこそ俺の話聞いてたのかよ。一緒に、って言ったはずだ。その妨げになるならお前の障害物も俺は壊す。それに」
言葉を切って、土方が総悟の頭に手を伸ばす。くしゃりと撫でられて、暗闇の中で土方がひどく優しい笑みをみせた気がして。
「言っただろう?我慢するなって」
同じ刑務所から逃げ出して、人を殺して、俺もテメーもひとりぼっちだ。これ以上何を抱え込む。
投げ出していた手を掴まれる。触れて、存在を確かめるようにぎゅっと握られる。少し肌寒い小さな部屋で、繋がった手だけが温かい。
「どっか行きてーな。遠い、地図にも載ってねえような遠い場所に。そこでひまわりでも育てようぜ。太陽の方向ばかり見る、いい花だ。ずぼらなお前でもきっと育つさ」
「ずぼらは余計でさァ」
手を重ねて語られる夢物語に、沖田は泣きたくなった。誤魔化すようにははっと笑って唇を噛み締める。
手をひっくり返して指を絡めると優しく握り返してくるその温かさ。失ったものがここにあった気がして。
「小屋みたいな家を用意して住めばいい」
「勿論飯は土方さんが作るんですぜィ。毎日同じモンだったら許しやせん」
「ンなの順番だ、順番。じゃんけんで当番を決めるんだよ」
「じゃあやっぱり毎日土方さんに飯を作ってもらわねェと。俺、じゃんけん強いんですぜィ」
明るい声で、がんばって言った。
世界は無情だって何度も思った。ああでもこんな世界でも俺を見てくれる人が居た。そう思ってこっそりと感謝する。
ああ幸せだ。そう思って笑った。冗談を言って笑いながら、音もなく一筋の涙を流した。暗い部屋だから土方には見えていないはずだと言い聞かせて、拭わなかった。涙が通った後が湿っていてまた流れそうになった涙を堪えてきゅっと唇を噛み締める。
「お前の用事が済んだら行こう」
柔らかな声に沖田はこくんと頷いた。
嘘をついた。
総悟の願いは姉の仇を討つことだ。
その中には姉を騙した自分自身も含まれていて、総悟は最後の敵は総悟自身だと思っている。
『お前が殺したんだ』
夢の中の自分がそう言って泣いている。
Act.11
ガタンゴトン。
ガタンゴトン。
レールの上をゆっくりと電車が走っている。振動でガタンと揺れて、総悟はパチリと瞬きをする。
どこか白くぼやけた車内に人気はない。ガタンゴトンと一定のスピードでゆっくりと景色が進み、海か空か分からない透き通った青が窓の外に広がっていた。
ガタンゴトン。
ガタンゴトン。
電車の振動以外に響く音がなくて総悟はふと息をつく。重みを感じてふと隣を見やって笑い、肩に凭れかかっていた黒色の頭に頬を寄せた。
土方が総悟の肩に凭れてすうすうと眠っている。初めて見た男の寝顔はひどく幼かった。それがやけに可愛く見えて自然と口元が緩み、黒い頭に頬擦りをする。
隣に居る存在。繋がった手。レールが続くかぎりどこまでも行くことができる。
このまま宛てもなく進み、誰も知らない町へ行こう。ふたりでも、きっと生きていける。
そこでハッと目が覚めた。
慌てて起き上がって辺りを見渡せば、そこは小さなあの部屋で。
夢だと知り安堵とも落胆とも言えぬため息をつく。
また、どこかへ逃げる夢を見た。
名前も場所も知らない遠い場所に行く夢に、立てた膝に頭を沈ませ総悟は奥歯を噛み締める。
夢は嫌いだ。弱い部分をまざまざと見せつけられる。それが心の底で秘めていることだから尚更たちが悪い。
逃げるな逃げるな逃げるな。
夢の中で逃げては現(うつつ)で何度も何度も自分に言い聞かせる。そうしないと本当にどこかへ逃げてしまいそうだった。
あの日土方に言われた、遠い場所に行こうという言葉がぐるぐると心の中で渦を巻く。揺れる心を叱咤する。ダメだと言い聞かせては、やっぱり何度も夢を見る。
情報は何よりも武器になる。
以前コツコツと情報をかき集めて先手を取ることに成功した総悟は、今回も情報収集に身を当てるつもりだった。
が、それを口にするとどこから手に入れたんだか土方がすんなりと組織の情報を持ってきた。どばどばと纏められた書類に目を丸くしていると、俺は意外と顔が広いんだとなんともお茶を濁された言葉をもらった。
まあけれど元は警官だから事前に組織の情報を持ち出していたのかもしれない。
簡単に入った情報とその詳しさに唖然としつつ、有りがたくそれを受け取った。おかげで再編したという組織の正体が徐々に掴めてくる。
規模はそれほどデカくなく、人間も以前の残党ばかり。悪事もまだ本格的に動いていないようで安心した。
沖田はちょくちょくと組織の人間が集まる場所へと出向いた。写真ではなく実際の目でターゲットを見るためだ。土方はまた以前のようにどこかへ出向く日が多くなったが、1日に1度は必ず部屋には戻ってきた。
おかえりただいまと言葉を交わす度にいつか来る別れが辛くなる。
「しかし地道だよな。道具集めたり根回しとかばっかでさ。あーあ、ぱーっと派手なことでもやりたいぜ」
「まあ落ち着けって。そのうち嫌というほど暴れられるさ。俺は新しいボスのあの冷えた目に期待してんだよ。身の毛もよだつようなことが出来るだろうさ」
沖田は角からじっと3人組のやりとりを窺っていた。路地裏で円を掻くように並んでいる組織の一員は、幸いこちらに気付いた様子はない。
沖田は気配を殺すのが得意だった。目の前に敵が居ると思うと飛び出したくなる気持ちを、もういいよというその瞬間までジリジリと飼い殺すことが出来る。
(畜生)
直に情報を集めようと聞き耳を立てているが、それも先程から失敗に終わって耳に響くのはドクドクと動く鼓動の音だけで耳障りだ。うるさいと叱責すると逆に大きく跳ねる心拍。
落ち着け落ち着け。
呪文のように唱えたって、効果など皆無だった。開いた瞳孔の先目掛けて、飼い殺すはずの感情が唸り声を上げて暴れている。
目を閉じて組織一員である島崎と林田の話を聞くに徹し、壁に凭れ静を貫く人間――高杉を食いたいと叫んでいる。
総悟は高杉が気配を読み取るのが人一倍鋭いことを知っていた。だからいつも以上に殺気を抑えて気配を消さなければいけないのに、それも上手くいかない。焦る自分の裏で、すぐ届く場所に高杉が居ると思うとふつふつと沸き起こる憎しみが熱く込み上げる。
ああ、前みたいに暴れたい。島崎の声を聞いていた高杉が愉快そうにククッと喉を鳴らした。
「そんなに前がいいかよ?」
「当たり前だろ」
「高杉はそう思わないのか?」
「別に。俺は暇つぶし程度にしか思っちゃいねえよ。まあでも」
そこで言葉を切って壁から背を離し、高杉は目を細めた。
真っ直ぐとこっちを見ている。
「そういう文句は本人に言ってやれ」
なあ、沖田。
見つかった!
組織を壊滅させたとあって沖田の名前は組織では禁句だ。島崎と林田もすぐに眼の色を変えてこっちを見る。
沖田はひらりと身を翻して逃げ出した。総悟とて馬鹿ではない。仕掛けるところと逃げるところは弁えている。
島崎と林田がすぐ追いかけてきた。路地裏に怒声が響く。
細い細い道を鼠のように沖田は走り抜けた。
反響して距離感が分からない。
夢中で逃げた。
あの部屋へ飛び込めばいいと思ってがむしゃらに逃げた。
夢中で走りすぎて足がもつれた。
「わっ」
前屈みでゆっくりと転びかけたところで、パシンと腕を掴まれる。
振り返る。
にやりと笑う嫌な笑み。
片目の奥が暗くてぞっとする。
腕を掴んだまま、つれねえなァと高杉が口角を上げた。
「せっかく塀から飛び出してきたっつーのに慌ててどこ行くんだよ、沖田」
舌打ちしそうになったが、耐えた。背中を嫌な汗が流れる。
「心配しなくても後でしっかり挨拶に行こうと思ってたんでさァ。テメーが面会で言った言葉が忘れられなくて飛び出して来ちまったんで」
「そりゃあよかった。わざわざ出向いた甲斐があったってもんだ」
腕を振り払うと、高杉はあっさりと手を離して何を考えているのか底の見えない目で笑う。
高杉は事態がより面白い方向へと進むことを好むたちの悪い性格をしている。その分総悟には高杉が何を考えているのか分からず、慎重に探るような目をして窺うしかなかった。
「沖田。脱獄祝いに良いことを教えてやるよ」
「なんでィ」
疑いの目を向けつつ、何か仕掛けてくるのだろうかと周りにも神経を向ける総悟に高杉は歌うように語りかける。
「お前、どうやってあそこを出た?」
「………」
「言えないのか?」
「生憎、教える義理もねェ」
高杉は何が楽しいのかククッと喉を鳴らして、
「情報通のテメーも、組織が再編した経緯は知らないだろう? 今の頭が誰なのか知っているか?」
いきなり話を変えてきた。脈絡のない話に意味を測り損ねて総悟は眉を顰める。土方の資料を頭の中で手繰り寄せてみたが、そんな記述はなかった。
「ひとりの男がバラバラになっていた組織の奴らを寄せ集めたって聞いたぜ。どうせ組織の残党が招集を掛けたんだろィ」
「違うな。今の頭は以前の組織に全く関係のない奴だ。そもそも考えてみろ。テメーが殺り損ねた人間の中に組織を纏められるようなヤツが居たかよ?」
「…………」
居ない。居ないからこそ姉の仇を打てたのだと満足していたのだ。
じゃあ一体誰がと片目を細める沖田を見て、高杉が楽しそうに笑う。
嗚呼なんでこんなに人の絶望は愉快なのだろう。何もかもがつまらない世界で苦しむ人の様こそ生きている証であり滑稽である。
高杉は沖田を絶望に突き落とすことがたまらなく好きだった。足掻く姿が愉快でたまらない。以前は薬が水であることを明かし真っ暗な闇へ落とした。今度だってそうさ。
笑って高杉がこう言う。沖田を地獄へと突き落とす。
「組織を再編し、今組織を纏めている奴の名前は土方だ。土方十四郎」
テメーの手を引っ張って脱獄させ今も匿っている奴だと、死神が愉快に笑って世界を真っ黒に塗りつぶす。
総悟は言葉を失った。