Act.15
 人の叫びに何の感慨も沸かなくなったのはいつからだろう。

(最初は嫌なはずだったのにな)

 ナイフに付いた血をシュッと振り払い、絹を裂いたような絶叫にも表情ひとつ変えず土方は床に這いつくばる男を静かに見下ろした。
 男は土方が切りつけた足を引き摺り、虫のように這いつくばって部屋の隅へと逃げようとする。
 こんな弱い奴に総悟はいたぶられ借金取りにまで追い駆け回されていたのかと思うと、なんとも情けなくなってくる。

 (まあでもアイツは弱いから、俺が守ってやらないと)

 少しの優越感に浸る。不敵に笑い、男が引き摺る足を踏みつけた。男が悲鳴を上げる。こっちを見て助けを請う男の顔を見た瞬間、頬を赤く腫らした総悟の顔を思い出して土方は怒りに任せてナイフを振り下ろした。


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 あの約束から暫くして、土方は総悟の敵をやっつけた。預かっているという男や借金取りの連中など、少年に危害を加えようとした者に制裁を下した。

 これでいい。
 後は総悟に「もう追われることはない」と言ってやればいい。
 俺が殺したということは知らなくていい。総悟に必要なのはもう誰からも追われないという事実のみで、理由や工程なんかはどうでもよかった。
 総悟に必要な事実が嘘でなければ構わない。

 そのこと言うべく来る日も来る日も土方は総悟を待ったが、しかしいくら待っても総悟がクローバー畑を訪れる日は来なかった。
 そのうち風の噂で、総悟が暴力を受けていると知ったミツバが総悟を連れ出して何処かへ逃げたことを知った。

 土方は誰も居ないクローバー畑に佇んでいた。
 あの日のように雨が降っていたが、それに騒ぐ声もなく、雨音だけが絶え間なく響いている。

 もうここに来ても誰も来やしない。その姿も声も聞こえない。
 それでいいと、土方は思った。
 土方の幸せはあのふたりが笑って生きることだ。ふたりで逃げて一緒に居るならそれはそれで良いことだろう。俺は遠くからふたりの幸せを祈ろう。
 雨の中で佇み土方はそう思った。
 なのに何故だろう、あのふたりがもう此処に来ないと思うと心のどこかにぽっかりと穴が開いたように風が吹き抜けている。

(ああ、これが寂しいということか)

 いつも俺は失ってから気付くと、土方は自嘲した。



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 土方十四郎は頭がよかった。
 ミツバと総悟が生きやすい世界を作る為には此処の治安をよくしなければいけないといち早く気付いた。
 力でねじ伏せたり一掃するのはダメだ。憎しみが憎しみを生むことは身を持って知っている。
 根本的に変えなくてはいけないと回転の早い頭がそんな答えをはじき出すのにそう時間はかからなかった。

 そんな折、ひとりの男と出会い、土方の運命は大きく変化した。
 男は警察の重鎮であり、襲われていた男をほんの気まぐれで土方が助けたのが始まりだった。
 男を表の道へと帰す道すがら、何がそんなに気に入ったのか男は土方に手を伸ばして自分の元に来ないかと誘った。
 話をしただけで分かる。君は頭がいい。どうだ私の元へ来ないか? 私には地位があるから将来君を警察の良いポジションに置いてやれる。
 そんな風に言われたが、警察などこれっぽっちの興味もなかった。
 けれど生きやすい世界を作る為には良い足がかりなるかもしれない。ここで一生足掻いたって、変えられるものなどたかが知れている。男には子どもが居ないと言っていたから、きっと身よりのない自分を引き取って後継ぎにでもしたいのだろう。

(利害一致だな)

 土方は男の手を取った。



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 新たな生活が始めると、自分がどれほど最下層の暮らしをしていたのかが分かった。
 あそこに居た時は1日が終わる「やっと」という感覚が、ここでは「もう」という言葉に取って変わる。それほどゆったりと流れる時間だった。ここでは息をしているだけで1日が終わる。

 生活が豊かになったといっても土方は総悟やミツバのことを1日たりとも忘れなかった。
 頭の片隅でいつもふたりのことを考えながら、我武者羅に勉強した。弱肉強食の世界は裏だけかと思っていたが、それはここでも同じことだ。ただしここでは力の強さではなく知識と賢さが必要になってくる。
 負けてなるものか、ここで力を手に入れるのだとただそれだけの為に土方は一心不乱に毎日を生きた。

 そうして何年かすると、土方は立派な人間となった。周りからも認められ、将来が有望と囁かれるまでに成長した。
 ここで生きる力を手に入れた土方は、漸く総悟とミツバの捜索を開始した。今の立場があれば、ふたりを匿うのも容易である。金のないふたりのことだ、どこかでひっそりと暮らしているに違いない。
 表の世界はある意味裏よりも薄汚く、決して居心地の良い場所だとは思わないが、裏にはないものがここにはたくさんあった。
 綺麗な着物や細工の細かい装飾品もたくさんあるからミツバは喜ぶだろう。ケーキなんかは甘ったるくて俺は好きじゃないが総悟は喜ぶに違いない。子犬なんて飼ってみろ、どっちが子犬か分からないぐらいはしゃぎ回るに違いない。
 いろんなものを見る度、土方はふたりを思い出した。これは好きだろうか、これはどうだろう。そう思う度にふたりの姿を見たいという思いが強くなる。

 独自のルートとツテでふたりの行方を探し、ミツバが病気に臥せっているのを知ったのはそれから間もなくのことだった。



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 とにかく辺りをくまなく探したが、なかなか総悟とミツバの姿を見つけることは出来なかった。
 探偵に当りを付けてもらったが、情報もない裏の世界だ、ここら辺に居るだろうという当ては付いても居場所までは正確に絞り込めなかった。
 仕方なく足で探すが真っ暗な暗闇の中を手さぐりで探すような焦燥感しか産まれない。

(くそっ!)

 ミツバの病状が命に関わるものかもしれないという探偵の言葉を思い出し、もう時間がないのにと土方は唇を噛んだ。
 そんな時、角から出てきた誰かとぶつかった。
 相手が短い声を上げる。
 暗くてよく見えないが声からすれば女で、裏に女が居るのも珍しいと土方は眉を顰めた。

「大丈夫か?」

 声を掛け手を差しだし引っ張り起こすと、

「十四郎くん?」

 呼ばれた名前にハッとする。ちょうど日の光が雲間から差し込み、相手の顔を照らす。
 ミツバだ。久しぶりに見たミツバはあの頃よりもずっと綺麗になっていてあどけなさが消えていたが、ミツバに違いなかった。
 名前を呼べばやっぱりとミツバが笑う。懐かしさに自然と笑みが零れるが、そう暢気に笑ってもいられなかった。
 ミツバの笑みはクローバー畑で笑っていたあの時と変わらないが、線が細くなって頬がこけた印象が強い。病が進んでいるのだと間の当たりにして土方は唇を噛んでから口早に話した。

「俺は今ある男の元で世話になっている。ミツバ、総悟と一緒に居るんだろう? ふたりで一緒に俺のところに来い。その為に俺はお前たちをずっと探していたんだ」

 総悟とミツバは土方にとって絶対に守らなければならない日だまりだ。光を失っては人は生きていけない。
 だから土方は必死になって説得した。
 もうこんな暗い場所に居なくてもいいんだ。
 表にはいろんな物がある。
 楽しいことも上手い食べ物も綺麗な景色もある。
 それに表に行けばその病気も治せるかもしれない。
 必死になって土方はミツバを誘った。けれど、ミツバは首を縦に振らなかった。土方の言葉を最後まで聞いて、優しい目をすると首を横に振る。

「私、行けないわ。自分の体だから、あとどれだけ生きられるのかは自分で分かるの。だからそれまでは総ちゃんと暮らしたあそこに居たいの」
「だがっ、」
「これ見て」

 ミツバはひとつの小瓶を取り出した。

「コレね、総ちゃんがお薬だからって持ってきてくれるの。だからお医者さんなんて行かなくても大丈夫よ」
「……それは」

 土方は、愕然とした。その瓶を警察に届けられた被害報告書で見たことがあるからだ。
 成分を調べたがそれは薬などではない。
 裏で横行しているとは知っていたが、まさか総悟とミツバが被害にあっているとは予想もしていなかった。

「ミツバ、それは薬じゃない。それは、」
「ただの水でしょ」

 真っすぐと当然のように言われて言葉が詰まった。
 知っていたのかと目を瞠ってミツバを見ると、クスクスと彼女が笑う。

「飲むのは私ですもの、それぐらい分かるわ」
「じゃあ!」
「でも総ちゃんは知らないの」

 ミツバは愛おしげに瓶をひと撫でした。

「総ちゃんはね、これを薬って信じてるのよ。私に渡す時、これで良くなるからって安心するように笑ってくれるの。私ね、その時の総ちゃんの笑顔が好き。大好きなの。だから、言えないわ。知ったらあの子きっと自分を責めるから」

 だからこのままそっと暮らさせて。
 あの子と一緒に過ごせるのもあと少しだけなの。
 たとえこれがただの水だとしても、あの子の笑顔が私にとっては何よりの薬だから。

 そう言ってミツバは満面の笑みで笑った。

 嗚呼、この人も嘘をついている。
 自分の為ではなく他人を思うやさしい嘘をついている。
 ミツバが全てを知って、それでもこのままでいい、私は幸せよと言われれば、土方はもう何も言えなかった。

(俺はふたりの幸せを願っていた)

 幸せがひとつじゃないという言葉を思い出して、こういう幸せもあるのだと自分自身に言い聞かせつつも、何も出来ない無力な自分が歯痒かった。

(結局俺は何も出来ない)

 爪が食い込むほどぎゅっと握りしめた拳を、ミツバがそっと両手で包みこんだ。

「十四郎くん、日だまりのにおいがするわ。いいにおい。会えてよかった」

 守りたいと思った笑顔でミツバが笑った。温かい手が離れていく。この温かい手が近いうちに温もりを失くすのかと思うと力づくでもここから連れ出したかったが、体は動かなかった。
 暫く見つめ合う。

「「さようなら」」

 たった一言を交わして、お互いに背を向けた。
 歩き出す音が路地裏に響く。一方は闇へ、一方は光へと歩き出す。交わらない道だ。土方は歩調がだんだんと速くなりイラついた。
 そして悲しくなった。
 ふたつの日だまりのひとつが消えるのだと思うと、クローバー畑でひとり佇んだ時よりも直接的な別れに何かがズタズタに引き裂かれた思いだった。
 心の中で反響する悲痛な叫び声を掻き消すように土方は近くの空き缶を蹴り飛ばした。

(叫び声は慣れたはずだったのに)

 反響するそれは何時まで経っても耳について消えやしない。
































































































Act.16
 ミツバが死んだと探偵から報告を受け、せめて総悟だけでもと総悟の探索を行ったが総悟の行方は全く分からなかった。
 良くしてくれていた寺にミツバを埋めると、そのまま消えて分からなくなったらしい。
 総悟のことだから後追いというのも十分考えられて気が滅入った。腕で目を覆いソファーに身を沈ませていると、ポスンと腹の上に何かが投げられた。

「ほらよ」

 腹の上に転がっていたのは缶コーヒーだった。身を起こしプルタブを開けるとそれを一気に煽る。
 そんな様子を呆気らかんと見て、お前はありがとうぐらい言えないの? とソイツが呆れた声を出す。缶コーヒー如きでと笑うと「これだから金持ちは」と肩を竦めて向かいのソファーにどかりと腰を下ろした。
 自称探偵でありよろず屋でもある坂田は、貧乏くさくいちご牛乳をちびちびと飲みながら俺の顔を見て湿気た面してんなぁと言った。そういうお前の顔が死んでいる。

「万年生気のない目をしているお前には言われたくねぇよ」
「あ、ひっでーの。缶コーヒー奢るんじゃなかった」
「愚痴愚痴言うんじゃねぇよ」

 はあとため息をついてゴミ箱に缶を投げると、それは放物線を描いてすとんと綺麗に落ちる。ゴミ箱の周りには坂田が失敗したらしい憐れなゴミが拾われることもなく散乱していた。

 男に変に感づかれないようにツテのツテを辿って総悟とミツバの捜索を依頼したのが坂田だった。
 初めは探偵と言いつつなんでも屋と化しているコイツのことが信用ならなかったのだが、いつの間にかここで過ごすことを良しとしている自分がいた。秘密基地というか、隠れ場所というか。自分を押し隠しての生活に疲れた時、ここに来て休んだり坂田に本音混じりの話を言ったりする。
 坂田は見た目口が軽そうで信用ならない奴だが、人に対しては意外に真っ直ぐだった。真面目なところと間抜けなところがぐちゃぐちゃで掴み所がない不思議な人間だった。

「総悟の居場所は?」
「まあ待てって。そう焦ると早死にするぜ。警察の仕事しながら組織の連中も相手してんだろ」
「知ってたのか」
「探偵なめんじゃねーよ。とにかく、そんなんじゃお前体壊すぜ」

 珍しく坂田の声に気遣いの色が見えて苦笑する。
 心配は有難いがそれでも止めるわけにはいかず、忠告だけ聞いとくと言うと「言うと思った」と相手が肩を竦めた。

 俺は総悟に偽の薬を売りミツバに嘘をつかせた組織を裏で手に掛けていた。身元がバレるとヤバい上に時間もなかなか取れず、1日に数人殺れれば良い方というペースだが、それでも許すことは出来なかった。いずれは根絶やしにしてやると誓っていた。

 しかし疲労が溜まって最近は体が鉛のようだ。ボロいソファーに凭れかかり天井を見上げても、脳は休むことをせず総悟のことばかり考えている。
 そんな俺に見かねたのか、坂田がはぁとこれ見よがしのため息をついた。クッションの裏から何かを取り出して机の上に放り投げる。
 机の上に広がったのは書類だった。気力なくなんだと取り上げた途端俺はガバッと体を起こした。

「そんな土方くんに朗報でーす」
「これッ!」
「ああそう、沖田総悟の足取りだよ」

 そう言って勝ち誇った顔をする。

「だから探偵舐めんなって言ってんだよ」
「………」
「ってねぇ、聞いてる?」

 聞いてない。書類に釘付けの俺を見て「目の色変えちゃってー」と坂田は呆れている。目の色も変えたくなるさ。どれほど待ち望んだ情報だと思っているんだ。
 一心不乱に上から下へと目を通してから、向かいのソファーにどかりと腰を下ろした坂田を見る。書類を机上に置いてゆっくりと尋ねた。

「コレは本当か?」
「嘘言ってどうすんの」
「そうか」
「あれ? あんまり驚かないんだね」
「予想はしていたさ」

 坂田の報告書には、総悟が組織を逆恨みし壊滅を企てているとあった。
 予想していたことではあったが、まさか本当にひとりで立ち向かおうとしているとは思わなかった。自分と違い人を殺したことなどないような総悟が、である。

(やっぱりアイツは強い)

 心中でほくそ笑み、しかし表情には一切出さずにトントンっと書類を指で叩いた。

「しかし総悟が何故組織を恨んでいる。薬が水だということを知っていたのか?」
「言われたみたいだぜ」
「誰に?」
「高杉って男。完全に組織に与しているわけじゃねぇが、組織の中を自由に行き来しているらしい。つまり組織のやつが種明かしをしたってわけ」
「高杉…」

 ミツバが命を掛けて守ろうとした秘密をいとも簡単に高杉は総悟にバラしたわけだ。真実を知った時、総悟はどれほどショックを受けたのだろう。考えるだけで遣る瀬無さに身が焼かれる思いだった。
 許さねぇ。胸の中でその名前を大きく書き殴ってソファーから立ち上がった。坂田がぼんやりとした目を向けてくる。

「なに? 止めに行くの?」
「いや。帰る」
「ふーん。止めないんだ」
「やりたいことをやってんだ。なら俺は止めねーよ」

 総悟がそう願うなら、俺はそれを見守るだけだ。例えそれが憎しみに駆られてやっていることだとしても。


 そして組織の奴等がだんだんと殺されると、警察でも調査が始まった。元々組織の詐欺について警察がマークしていただけに、それが殺人事件へと発展するのは早かった。
 俺はその事件の指揮を志願した。犯人が総悟だと知りつつも知らないフリをして、総悟の仇討ちが終わるまで捜査のスピードを故意に操った。
 何者にも邪魔はさせない。
 やがて大規模な爆発で組織の幹部や重役が死に、残った奴等の大半が皆殺しにされた。夜を焦がすような火と殺戮は総悟の最後の敵討ちだと分かった。数十人の警察官が悪臭漂うその現場に突入し総悟を取り押さえたが、仇討ちが終わった総悟は抵抗もせず大人しく捕まった。手首を縛られ連行される総悟を、俺はただじっと遠くから見ていた。


 その後俺は刑務所の看守へと異動した。勿論男や周りは反対したが、罪を犯した人間がどう処罰されるのかを見るのはこれから先の勉強になると言えば、それ以上反論はなかった。
 俺は総悟が収監された刑務所とは別の刑務所を志願した。暫くして総悟がそこに移送されると知っていての行為だった。直接的な繋がりを疑われるのは避けたい。

 食事を運ぶ度、鉄の柵越しに何度も総悟を見た。
 総悟は基本無表情だが、牢屋の中のその顔には悔しさも憎しみもない。やり遂げて死を待つばかりの顔で切り取られた高い空を見ていた。
 総悟に生きる望みがなく死を願うのであれば俺はそれを叶えてやりたい。

(本当に?)

 心の中で問い返す声があって、けれど何度も無視をした。

 しかし蔑ろに出来るはずがなかった。声を聞く度思う度、問いかける声がだんだん大きくなる。
 それでもまだ保っていたものがガラガラと音を立てて崩れたのは、総悟と栞でやり取りをするようになってからだ。
 本当に偶然だった。
 囚人の為に開いている図書室の本を俺は時たま読んでいて、読みかけていた本を開くと真っ白な栞に文字が書かれていた。
「肉まんが食べたい」
 誰が書いたのか分からない悪戯書き。ガキのような言葉。汚ない字。俺も気を紛らわしたかったのかもしれない。返事を書いたのは偶然だった。まさか返事が返ってくるとは思わなかった。それから続いた秘密事。相手が総悟と知ったのは、それから暫く経ってからだった。



**********************


 死刑執行当日、俺は刑務所から総悟を連れ出した。
 連れ出して殺すつもりだった。
 誰かに殺られるなら俺の手で。
 その為に看守となりその日まで見守っていたんだ。

 けれど結局、撃てなかった。銃口を向けても、総悟に向けて引き金を引くことが出来なかった。
 手を引いて寝床として使っていた部屋に連れて行った。組織が再編したことを高杉が総悟に告げたと知っていたから、まだ仇討ちは終わっていない、憎んでいるはずだ、総悟はまだ絶望していないと自分に言い聞かせた。そうしないと殺してあげると言ったあの言葉が嘘になる。総悟に嘘をつくのが怖かった。それが壊れてしまったら、俺のすべてが壊れるような気がした。

「なに、居たの」

 坂田の声が聞こえて振り向くと相変わらずぼけっとした顔で、思わず笑ってしまった。

「無用心だな。鍵が開けっ放しだったぞ」
「え、マジで」
「嘘だ」

 はあとガックリと肩を落として、坂田は恨めしげに俺を見る。

「お前って嘘ばっかりだよな。沖田くんには嘘つかないーって言ってるのが信じられねぇ」

 それには口だけで笑うに止めて、ポケットに入れておいた鍵を投げた。ガシッと手で受け止めた坂田は、それを摘まんでゆらゆらと揺らして問う。

「なにこれ?」
「鍵だ」
「そんなこと聞いてないんだけど」
「借りていたお前の部屋の合鍵と、俺の部屋の合鍵だ。お前に、頼みたいことがある」

 明日は組織の前夜祭だ。好きなことをやれと今まで握っていた野犬たちのリードを離す日の前祝い。
 けれどそんな日は一生来やしない。何故なら明日で組織は壊滅するのだから。
 総悟以外に嘘をつくなど、痛くも痒くもなかった。

「お前に、総悟を頼みたい。1週間ほど帰ってきていないが、あそこ以外に行く所もないんだ。多分近いうちに帰ってくると思う」

 引き寄せた椅子に反対向きで跨がって、坂田が頬杖を付いてこっちを見る。

「意味がよく分かんねーんだけど。沖田総悟ならお前が守ればいいじゃねぇか」
「出来ないから言ってんだ」
「だからなんで? 明日は組織が壊滅する万々歳な日なんだろ」
「その瞬間に俺も死ぬからだ」

 背を向けて月を見たまま言った言葉で静寂が生まれた。きっと死んだ魚の目で俺を睨んでいるに違いない。
 どういう意味と問う声が色を無くしている。

「お前が組織のトップになったのは沖田の代わりに残った組織を一網打尽にする為だろ。最初っから一緒に死ぬつもりだったのかよ」
「まさか。そんなつもりはなかったさ。けどな…なんつーか、情が移っちまった」

 久しぶりに浸った裏の世界。付け入り騙しばらばらになっていた組織のトップになることは造作もないことだった。
 始めは坂田の言う通り組織を根絶やしにする為に頭になった。その時総悟は牢獄に居て、最後は俺の手で総悟の命を奪おうと思っていたから総悟が残した敵を俺が代わりに討つことにしたんだ。
 けれど頭となり寄ってくるアイツらと接するうちに、俺もずっと裏にいたらこうなっていたのかもしれないと思うようになった。
 強い奴の下に付いて媚び、悪事を生き甲斐にして生きる野良犬。そう思うとコイツらが憐れに見えてきた。
 そしてもしかしたら総悟を騙して偽の薬を売っていたのが俺だったかもしれないと思って、コレは俺の成れの果てだとも思った。

「だから全部引っくるめて終わろうと思う。組織も、成るはずだった未来の俺も。根絶やしっつーのはそういうことだ」
「オタク支離滅裂だよ。仮にお前の未来がそうなっていたかもしれないとしても、あくまでそれは錯覚だ。今のお前は沖田を守っているじゃねーか。組織はお前の未来じゃねえよ」
「そうだな。でもこれはケジメみたいなものだ。それに組織の頭になった瞬間から俺は総悟が憎む存在になってんだよ」

 振り向いて坂田の目を真っ直ぐと見る。
 俺の決意は固まっていて迷いない声でそう言うと 、暫くして坂田がはぁとため息をついた。

「分かった。降参だ。お前の好きにしやがれ。俺はもう何も言わねーよ。で、俺は沖田くんをどうしたらいいの?」
「悪いな。総悟は組織が死んだら最後の敵は自分だと思っているはずだ。ミツバに嘘をついていたってな。だから総悟を止めてほしい」
「つまりは沖田総悟が自殺するのを止めろと?」
「ああ」

 自分勝手なのは分かっている。散々総悟の願いを優先させていたのにこの期に及んで自分の願いを優先させようとしているのだ。
 けれど短い間だが総悟と過ごして俺にも譲れないものが出来た。

「俺は総悟に生きてほしい。俺はそれしか望まない」

 頼むと頭を下げる。頭上から息を吐くような声でわかったと了承の声が降ってきた。

「恩に着る」

 礼を言うと坂田が照れ臭そうに手を振る。この男にも世話になった。思い返せば尽きない思い出に笑みを浮かべ、扉を開けた俺の背中に坂田の声がかかる。

「なあ。なんでこんなこと俺に頼むの?」
「お前だからだ」
「……なにそれ、気持ちわるーい」

 照れ臭そうな声が聞こえて口元が緩む。こんな言葉、正面きって言えるものか。
 ドアノブを掴んだ俺の背に、なあと先ほどとは違う真面目な声で坂田が問う。

「前々から思ってたんだけどよ、沖田ってお前のなんなの? 大切なヤツって言うが沖田に対するお前の行動は異常だぜ。沖田のことを気にせずそのまま過ごせば警察の官僚になって順風満帆じゃねーか。なんでそこまですんの」
「………」
「一途っていうには犠牲が多すぎる。お前、沖田が好きなの?」
「…そんなあまっちょろいもんじゃねーよ」
「じゃあ何?」

 一度目を閉じて小さい頃から最近のことまでを思い出す。
 その質問は過去に何度も自分自身に問いかけた言葉だった。自分の中で結論は出したが、他人から問われても"それ"が変わらないことが嬉しかった。
 キィとドアの軋む音を鳴らしながら扉を開けて外に出ると、肩越しに振り返り笑みを浮かべて答える。

「全てだ」

 扉が音を立てて閉まる。




 なあ総悟。お前は知らないだろう。俺がどんな気持ちで鉄格子越しにお前を見ていたかを。
 お前は知らないだろう。お前が居なくなった部屋を見て俺がどれだけ必死に町中を探しまくったかを。俺も人を殺していたとあの暗い部屋で言った時、怖がって拒絶するような目で見られたらどうしようかとお前の反応にびくびくしていたことを。
 お前は信じないだろうが、遠い場所に行こうというのは俺の本心だったんだ。初めて言った本心がお前に初めてついた嘘になるなんて、笑っちまうよな。

 お前は知らないだろう。
 ああそうだ、全部知らなくていいことだ。
 俺はお前が生きて笑って幸せになってくれたらそれだけでいい。
 それだけは疑わないでくれ。それだけが俺がお前に望む真実なんだ。

 幸せになって生きろ、総悟。