お隣りさんの誕生日
アパートの目の前にある家からピアノの音が聞こえてくる。最近注目されている歌手の曲で、大抵どこの店でも流れているから、ファンではない俺もそのメロディは知っていた。
暗い闇にふわりと漂わせるように静かに長く白い煙を吐き出すと、沖田がそれを視線で追い、残念そうな声を出す。
「今日はえらく静かですねェ。怒鳴らない日なんですかねィ。ちぇ、面白くねェなァ」
「平和でいいモンだろ。毎度毎度怒鳴り声聞くなんざ堪ったモンじゃねーよ」
「俺は平和より戦争がいいです」
「よくわかんねーなあ」
「だって、楽しそうじゃねェですか」
窓から顔を出して沖田はくすりと笑った。
このアパートには腹の位置から天井にかけて窓が取り付けられている。沖田はその窓の前に椅子をひとつ置いているようで、俺と話す時はその椅子に膝立ちになり、身を乗り出すように窓から顔を出すのだ。たまに思いっきり身を乗り出すものだから危なっかしくて見ていられないが、沖田が顔を出さないと相手の表情も窺えないから俺はやめろとは言わない。
(そもそも嫌なら、こんな風に窓から顔を出さねーよ)
いつからか自分の部屋に居ながら窓を開けて沖田と話しをするようになっていた。煙草を吸う為に窓を開けると沖田もそれに合わせて窓を開けたり、俺も壁越しに沖田が窓を開ける音を聞くとそれとなく煙草を片手に窓を開けたりする。
これといって話す用があるわけでもないが、なんとなく言葉を交わすのだ。
最初は何をやっているんだと呆れもしていたが、この微妙な距離間を俺はどうやら気に入っているらしいと気付いたのはつい最近のこと。言葉を交わす間、煙草を吸う時間が長くなっていた。
「アキラ、今日はお利口さんなんですねィ」
アキラというのはピアノの音色を届けている家の子どもの名前である。
といっても直に面識があるわけではない。
何故俺や沖田がその名前を知っているのかというと、アキラが只今絶賛反抗期中で、窓を開けていると母親の怒鳴り声がこっちまで聞こえてくるからである。
人の怒鳴り声というのは聞いていて気の良いものではない。アキラも反発するから尚更響く。俺としては遠慮したいものだが、沖田はどこかそれを面白がっている節があった。
「土方さんはありやした? 反抗期?」
ぼんやりと煙草を吸っているとふと問われ、しばし記憶を逡巡させる。反抗期の頃というのは終始苛立っているから、あまり思い出したくのない内容ではあった。
「まあ、そりゃあ一応な」
「どんなのでした? アキラみたいに毎日バトルですかィ?」
「どっちかっつーと冷戦だな。ガミガミ言う母親じゃなかったし、俺も部屋に閉じこもるか家から出るかしていたからな」
「ふーん。なんか逆にストレス溜まりそうですねィ」
沖田は温かな色を落としている家を再び眺めた。その横顔は心なしか穏やかに見えて、沖田も昔を思い出しているのだろうかと、俺は何も考えず問うてしまう。
「お前は?どんな反抗期だったんだ?」
「あーいやーそれがないんですよ。俺が反抗期になる前に両親は他界したんで」
「あ、いや、…すまねえ」
失敗した。地雷踏んだ。
黙り込んで煙草の手を止めた俺を見て、沖田が可笑しそうに笑う。
「ヤだなァ土方さん。別に気にしてやせんよ。ただ反抗期ってのがどんなものか気になっただけでさァ。ほら、俺には自慢の姉ちゃんが居るんで、寂しいなんて思ったこともありやせんし」
隣窓からひょいっと顔を覗かせると歯を見せて沖田は笑う。
その顔は気遣いで言っているのでも虚勢を張っているわけでもなくて、姉のことを心底慕っているのだというのがありありと分かる顔だった。
けれど何故だろう、先ほどのアキラの家の明かりを見ていた沖田の静かな横顔が、俺の頭から消えなかった。
「反抗期を味わうより、俺は早く大人になりたいんでさァ」
ふっとゆるく煙を吐き出すと、その白を掴むように沖田が手を伸ばす。すり抜け闇に溶けて消える煙を、空色がじっと見ていた。遠くを見つめる顔が妙に印象的だった。
その顔が、遠くを見つめるその目が、歳と似つかわなくて寂しげに見えて、なんだかこっちが寂しくなる。
「学校は嫌いか?」
問うと沖田は首を横に振った。
「好きか嫌いかと聞かれれば好きですぜ。勉強は苦手ですけど、面白い奴らは多いですし」
「なら急がなくていいんじゃねえか。子どもで居たくても、その内嫌でも大人になる」
「でもやっぱ、学校に居る時間働けたらなァとか考えちまうんですよねィ」
沖田にとって大人になりたいというのは子どもの背伸びなんかじゃなくて、働いて収入を増やしたいという現実を見据えた願いだった。
ああ俺は本当に、学習しない。
好きか嫌いかのものさしで計るなんて、子どもは俺のほうだ。
悪いと謝るのもなんだか可笑しな気がして黙っていると、沖田は先ほどの問いなど気にもしていないような明るい声で言った。
「高校生の時給なんて足下を見られているようなもんですよ。働いている内容は変わんねェってーのになんであんなに差が出るのかわかんねェ。あーあ、今17だから20歳まであと3年もあるって考えると、大人って遠いや」
そこでふと気になった。
「お前今16って言ってなかったっけ?」
自分でもよく覚えていたものだと思う。
沖田はきょとんと俺を見て、小さく首を傾げた。
「よく覚えてやすねィ。実は2週間ほど前、めでたく17になりやして」
「え、マジで?2週間前?」
「7月8日、七夕の次の日が俺の誕生日」
覚えやすいでしょ、と沖田が笑う。そんな風に、俺はひょんなことから沖田の誕生日を知った。
7月8日というと俺の恥ずかしい勘違いが発覚した4日後のことだ。
その時はまだ窓を開けて話すことはしていなかったが、それでも近藤さんも交えてメシだって食ったわけで(俺の部屋で)、知り合ってはいた。
おめでとうぐらい俺だって言えたわけだ。祝いの言葉ひとつぐらい掛けてやれた。
それが出来なかったのは、ただ単に知らなかったからだ。
(そりゃあ知り合ってるっつってもただの隣人だし、誕生日なんて知らなくて当たり前だけど)
クルクルとペンを回しながらそんなことを考える。
過ぎてしまったモンは仕方ないのだが、それでも俺はどうにか祝えないかと今更グダグダ考えている。誕生日が過ぎて2週間しか経っていないというのも後を引き摺っているらしくて、カレンダーを見る度にため息が出た。
何故こんなに沖田のことで悩むのかよく分からないが気に掛けているのは確かだ。認めるしかない。
(ったく、俺は何を考えてんだか)
そんな折り、近藤さんが情報紙を持ってきた。今度ここにお妙さんを誘おうと思っているんだ! と近藤さんがはしゃいでいる。ふーんと適当な相槌を打ちつつペラペラと雑誌を捲っていると、ふとあるページで目が止まった。視線の先でいちごの乗ったシンプルなケーキの写真が掲載されていた。
じっと見つめること約5秒。
理由なんて、それだけだった。
「ハッピーバースデートゥユー」
近藤さんが真っ赤な顔をして大声で歌っている。目の前にはすでに空けた酒の缶が転がっていた。近藤さんは酔うのが早い。まあ俺も人のことを言えた義理じゃないけど。
机の真ん中にはケーキが置いてあって、近藤さんの正面、俺の左側にちょこんと沖田が座って、空色の目を瞬きながら近藤さんの歌を聞いていた。
大声でひとり気持ち良く歌い終わると、近藤さんはほらほらと沖田に火を吹き消すよう促す。
どこか緊張気味に沖田がふっとロウソクの火を吹き消した。
さすがに17本もの蝋燭を用意することは出来なかったが、5本の蝋燭を沖田は一度で見事に吹き消した。近藤さんが大きく手を叩いて、おめでとうと自分のことのように喜び、俺も合わせて拍手を送ると隣人は照れ臭そうに笑った。
次の日のバイトが昼すぎという情報を事前にそれとなく聞いていた俺は、バイト上がりの沖田を招いて近藤さんと沖田の2週間遅れの誕生日会を開いた。誕生日会兼懇親会でもある。
部屋に招き、料理(惣菜だけど)が並んだテーブルの前に座るように言うと、沖田は目を白黒させてテーブルの上の料理を見る。ぱちぱちと大きな目を瞬き俺を見上げて、コクリと首を傾げた。もう17だっていうのに、そんな仕草をすると余計あどけなく見えて、何故か俺は妙な気分になる。
…暑いな。クーラーの温度もうちょっと下げるか。
「なんですかィ、この料理。スーパーで特売でもやってやしたか?」
「違う違う、今日はお前の誕生日パーティーだ! トシから聞いたぞ! すまんなー遅くなっちまって」
近藤さんが人懐っこい笑顔でそう説明すると、沖田はしばらくポカーンとして、それから慌てて「いいでさ、そんなッ! 」と立ち上がった。
「俺と近藤さんだけじゃ食いきれねーから食べてってくんね?」
そのまま帰ってしまいそうだったから、台所でケーキの準備をしながら俺は先手を打つ。料理を粗末にしてはいけないというのは万国共通言語だ。グッと言葉に詰まった沖田を近藤が手を引っ張って座らせると、バイト先で食べて来たのか?と問うた。沖田はちょっと黙って、いや今日は小山田が居たんで食いっぱぐれやしたと素直に白状する。腹が減っているならちょうどいい。誰かは知らないが小山田にちょっとだけ感謝して、俺もテーブルの前に座った。
「さあ、じゃあ食べよう」
そんなこんなで歌い終わった後はケーキと料理を食べながら他愛もない話をする。知り合ってそう経っていないが、こうして3人で話すのは不思議と居心地が良かった。昔からの馴染みのような、そんな錯覚をしてしまう。
「お前は本当に偉いなあ総悟」
沖田が姉の話をしていると、ふと近藤さんが柔らかい笑みを浮かべて沖田の頭を撫でた。
大きな近藤さんの手でぽんぽんと頭を叩かれる沖田の姿はどことなく小さく見える。
「自分のこともお姉さんのこともひとりで全部背負い込むっていうのは大変だろう。でもこうやってなんかの縁で俺らは知り合うことが出来たんだ。俺もトシも居る。困ったことがあったらなんでも言ってくれ」
どっしりとした近藤さんの言葉に沖田は目を丸くした。口を開いてでもやっぱり閉じて、困ったように頭を掻く。照れているんだと分かると、なんとも可笑しな気分になった。
ありがとうございやすと礼を言う。その言葉に目を細める。
沖田という人間は不思議だと俺はつくづく思う。
人を茶化し笑う仕草はそこら辺の高校生と変わらないのに、生活の為に働き詰めの毎日を送って、誰からの手も借りずひとりでしっかりと立っているのかと思えば、こうして寄りかかって良いと言うと、どうすればいいのか分からないという迷子の子どものような困った顔をする。
慣れていないのだ。人に甘えるということが今まであまりなかったに違いない。そう思う度に俺はなんとも言えない気分になる。
ふと、アキラの家を見ていた沖田の横顔が頭の中に浮かんだ。
「トシ、酒は?」
「え、あ?酒?それで最後だよ」
「よし、じゃあちょっくら買いだしに行って来る! 」
「おい、近藤さ、」
バタン。
聞かずに酔っ払いは行ってしまった。車に気を付けろも歩きながら鼻歌は歌うなよとも言えなかったが、まあ大丈夫だろ。
一気に静かになった部屋で沖田が咽を震わせて笑った。
「いやーほんと近藤さんは面白い人ですねィ。見ているこっちが楽しくなりやす」
「本人に言ったらきっと喜ぶぞ。酔っている今なら抱きしめてキスしてくれるかも」
「あははは。さすがにそれは遠慮しまさァ」
沖田が笑う度に、その笑みを見る度に、あの夜見た寂しげな横顔が脳裏を過る。
酒をぐいっと流し込んで、なあと俺は話しかけた。
「近藤さんの話じゃねえけど、隣の好だし、メシぐらいいつでも食べに来いよ。毎日じゃねえけど、俺作り置きしてるからおかずあるし」
「え?いやでもそれはさすがに悪いでさァ。こんなことしてくれるだけでも俺ァ、」
「ひとりじゃ作り甲斐がないの、同じ独り暮らしならお前も知ってんだろ」
遠慮するなよと有無を言わさずそう言えば、沖田はきょとんとして、それからふんわりと笑った。
「やっぱ土方さんって優しいんですねィ」
ぶっ! と思わず酒を吹き出しそうになって変なところに酒が入って噎せた。苦しくて涙が出る。ああ、なんかこんなこと前にもあった。
沖田はそんな俺を見てさも可笑しそうに笑った。
「てめー、からかうんじゃねえよ」
「嫌だなァ、からかってなんかいやせんよ。本音ですよ」
フォークで『HappyBirthday』の文字が入った板チョコをちょんちょんと突いて、沖田は微笑を浮かべた。
「確かに俺は他の人間より苦労する人生を送ってやすけど、優しい姉ちゃんが居て、友達が居て、こうやって俺を祝ってくれる人が居るんです。俺は恵まれてやすよ」
柔らかい、心の底から呟いたような声色に俺はふと気付く。
さっきから浮かんだ寂しげな横顔と幸せそうな横顔が重なって、ああそうかと俺は心の中でひとりごちた。
(俺はコイツに笑って欲しいんだ)
悲しそうな顔や辛そうな顔ではなく、笑っていてほしいのだとやっと気付いた。それはひとりで立つ友達の幸せを願うような、ひっそりとした暖かくて穏やかな感情だった。
「土方さん。今日はありがとうございやした。俺、嬉しかったです」
沖田の声を聞く度に胸に広がってゆくこの感情は、きっと同情ではなく俺が心から望んでいる願いなのだろう。今日が七夕なら空に願いを託せたかもしれなかったなと内心笑って、俺は妙にすっきりとした気分で沖田を見つめた。青く透き通った空色があった。
「沖田」
「へィ」
未だに言ってなかったことを思い出して、知らず笑みを浮かべて俺は言葉を贈る。
「誕生日おめでとう」
これからもよろしくと付け足すと、言葉を受け止めるように空色が潤んで、次いで光が差すように柔らかく笑った。
その笑顔に何も考えられなくなって、なんだか暑くて、俺は何も言わずにクーラーの温度をまた一度下げた。