りさんとの挨拶


 今日もひどく疲れた。
 バイトが終わり、体を引き摺るようにアパートに帰ってきた。
 角を曲がってアパートの全体が見える位置まで来ると、ふいに顔を上げて2階の1番奥、自分の部屋の隣を見る。
 カーテン越しにオレンジ色の光が漏れていて、土方さんが部屋に居ることを知った。
 だから別にどうしたってこともないんだけど、いつの間にかついつい隣の所在を確認するのがすっかり癖になってしまった。
 どうしてかは、分からない。

 カンカンと頼りない音を立てる階段を上り、共有廊下を歩き、部屋に辿り着きドアを開ける。中に入るとカギをして靴を脱いで、ひとつしかない部屋へと入って、電気をつける。
 出ていった時と変わらない見慣れた風景に迎えられて、そこでやっと一息ついた。
 そんな時。

 コン、コン、コン、コン。
 テンポ良く右隣から壁を叩かれて、俺はふとそっちを見た。
 白い壁の前にすとんと座って、じっと壁を見つめる。握った拳で壁を叩き返した。
 規則良く、テンポよく叩く。

 コン、コン、コン、コン。
(た、だ、い、ま)




 あの日、雨宿りでお邪魔してからも隣人関係が希薄だと言われる現代にしては珍しく、俺と土方さんの関係は円満だったりする。
 時間や暇が合えば土方さんたちの飲み会(場所は隣部屋)にも誘われるし、近藤さんとはたまにメールだって交換する。
 目付きが鋭くて最初は取っ付きにくいイメージのあった土方さんも、飲み会ではよく喋りかけてくれた。
 と言っても、半ば酔っ払いである。土方さんも近藤さんも、飲み会はするくせに酒には滅法弱かった。

「しかし総悟、帰ってきた時に誰も居ないっていうのは寂しいもんだな」

 顔を真っ赤にした近藤さんが、何を思ったか急にそんなことを言った。
 はァそうですねィと曖昧に返事を返すと、首が折れるんじゃないかと思うほどうんうんと近藤さんが首を大きく縦に振る。

「やっぱそうだよな! 帰った時の暗い部屋っていうのは寂しいもんだ。俺も、お妙さんが家に帰る度に暗い闇が広がっていると思うと「あなたの勲、すぐ行きます!」ってなるしな!」
「沖田、そこのティッシュ取って」
「へィ」
「ちょっとやめてー! 無視しないでー! ゴッホン。というわけでな、ここは隣の好というわけで、相手が帰ってきたら挨拶するっていう決まりはどうだ?」
「「……はあ?」」

 突然の提案に、俺も土方さんもポカンと近藤さんを見た。また唐突に何を言うのかと思えば、挨拶だって?
 相手が帰って来る度にドアから顔を出して、「おかえり」「ただいま」と交わしてパタンとドアを閉じる、そんな光景が俺の脳裏に浮かんで消えた。正直ちょっと面倒くさい。
 考えていたことは同じなのか、土方さんと目を合わせてふたりでぱちぱちと瞬く。

「あのなあ近藤さん」

 呆れたように土方さんが近藤さんの名前を呼んだ。

「いくら知れた相手だっつっても、わざわざ毎日顔を出して挨拶なんてしねーよ」

 俺もコクンと頷いて同意する。
 しかし近藤さんはちっとも落胆していなかった。ちっちっちっと指を横に振って胸を張る。

「だから俺は考えた!」
「何を?」
「この部屋、壁が薄いだろ? それは相手が帰ってきたことも分かるってことだ。だからな、こうやって、」

 近藤さんは壁に近付くと、コンコンコンコンとテンポ良く俺の部屋側の壁を叩いた。そしてにかりと笑う。

「壁を叩くわけだ」
「それがどういう意味になんだよ」

 土方さんは訳が分からないといった風に眉を寄せる。土方さん同様、俺も首を傾げた。
 壁を故意に叩くなんて、それってただの嫌がらせなんじゃねェの?
 そう言えば近藤さんががははと大きく笑った。

「おいおいおい。だから挨拶って言ったろ?これは立派なコミュニケーションなんだよ。いいか、相手が帰って来たら壁を4回テンポ良く叩く。これは、「おかえり」って意味だ。で、叩かれた相手は「ただいま」って意味で壁を4回叩き返す。な、挨拶だろ!」

 どうだと言わんばかりの声で、近藤さんはそんな提案を出した。
 瞬き3つ。
 俺も土方さんも黙ったまま何も言わない。
 反応がないのが悲しかったのか、近藤さんは次第にぐちゃっと顔を歪ませた。土方さんの両肩をガチッと掴むと、叫ぶように嘆く。

「トシィ!! 良い案だと思うだろぉ?!!」
「お、落ち着け近藤さんッ! 顔が近い近い近い!!!」

 ほとんど縋り付くような体勢に、土方さんは体を反らしてなんとか倒れまいと必死に耐えていた。
 やっと巨体を押し返した土方さんは、息も絶え絶えで疲れ果てている。
 面白い人たちだと俺は傍観に徹していた。

「トシぃ」
「わーったよ!だから男がそんなうる目で見るなって!」

 目を潤ませて捨てられた子犬のような眼差しを向ける近藤さんの視線に、土方さんは居たたまれなくなった。
 はあとため息をついて、そしてふと俺を見る。

「俺はやってもいいけど、沖田にしちゃ迷惑な話だぜ。疲れて帰ってきても、他人を意識しなきゃいけねーんだからな」

 その言葉に近藤さんの潤んだ目がゆっくりとこっちを向いた。
 そうなのか? 総悟ぉ?
 といつもと違う頼りない声に、俺の肩がビクッと跳ねる。

「い、いやそんなことありやせんぜ」

 土方さんと一緒で、俺もどうもこの目には弱いようだ。無下に出来ない。
 近藤さんの人柄というやつか役得というか、俺の言葉に近藤さんが太陽のような笑顔を咲かせた。




 回想終了。
 バイトの前にいつものようにお姉ちゃんの病室に寄って、あらかたの説明をすると、お姉ちゃんは自分のことのように笑ってくれた。
 よかった、と心の底から嬉しそうに呟いて、そんな綺麗な姉上の姿に俺はぽかんと見惚れる。

「心配していたの。総ちゃんお家にひとりっきりでしょ。だから、そうやって総ちゃんのこと気に掛けてくれる人が居て、私すっごく嬉しいの」

 はじけるほどの笑顔に、また見惚れて、でも何故か俺は居たたまれなくなった。
 窓とベッドの間に置いたパイプ椅子は見舞いに来た時の俺の特等席だった。
 降り注ぐ午後の日差しが窓から差し込み、それを背中で受けて、光に追われるように俺は身を縮こませる。

「でも俺ァまだ土方さんに「おかえり」って挨拶したことはありやせん。土方さんからいつも叩いてくれるんですけど、俺からは一度も」

 勿論土方さんより俺の方が帰りが遅いこともあって、自然と土方さんからの挨拶が多くなるのだけれど、土方さんが遅いことだって偶にある。
 けれど壁の前には立ってみるものの、いつだって俺から壁の向こうに音を届けることはなかった。

「ダメよ、総ちゃん」

 ふと顔を向ければ、お姉ちゃんは眉を吊り上げて恐い顔を作っていた。けれど長くは続かず、すぐに優しく笑う。

「おかえりなさいって挨拶してくれたら嬉しいでしょ。だから総ちゃんもちゃんと土方さんにおかえりなさいって言うの。ね?」

 きょとんとする俺の顔を見て、天使のような笑みを浮かべたお姉ちゃんは壁をコンコンとノックする仕草をした。




 それから暫くして、バイトを早めに上がった俺は、壁の前に立っていた。
 物音と外から見た窓の明かりを見るかぎり、隣の土方さんはまだ帰ってきていない。
 姉上の言葉が頭の中を反芻して、俺は壁から視線を逸らすことが出来なかった。
 嬉しいでしょ。その言葉が頭の中で回る。

(嬉しい…のかねィ)

 正直なところ、それがよく分からない。
 そりゃあ帰ってきて部屋に入った瞬間、隣からコンコンコンコンと挨拶してくれるのを嫌と思ったことは一度もない。
 けれど嬉しいというよりは、慣れてきた最近では返事を返すことを義務のように感じる時もある。
 さて、土方さんは俺からの挨拶を嬉しいと思うのだろうか。
 そこが問題である。

 そんなことを考えているとカンカンカンと階段を上がる音が聞こえてきた。ついでに一歩一歩を大股で闊歩する足音がして、見なくてもそれが土方さんだと分かる。
 挨拶しないとダメよ。姉の声が直接頭の中に響いて、気付けば俺は玄関へと駆け出していた。

 ドタドタドタバタンッ!

「土方さんッ!おかえりなせェッ」
「………」

 ドアをおもいっきり開くと、ちょうど目の前に土方さんが居て、黒い目をぽかんと開けていた。
 本当にドアすれすれで、危うくドアで押し潰してしまうところだった。
 いやいやそうじゃなくて。

「あ、いや、その…」

 突飛な行動に俺は冷や汗を掻く。無意識の行動だけに説明出来ず、言葉を詰まらせる。やばい、非常に気まずい。

「変な奴」

 土方さんがふっと笑った。開けたドアをコンコンコンコンと4回叩いて俺を見下ろす。

「わざわざ出て来なくてもノックでいいさ」

 出てきてくれたのは有難いけどな。
 そう言って心底可笑しそうに土方さんが笑う。
 思いきって、叩いたら嬉しいですかィ?と尋ねたら、叩いてみれば?と曖昧なお言葉を頂いた。
 そのままドアを閉めると、次いで隣のドアを土方さんが開ける音が響いた。
 部屋に戻って俺は壁の前で正座する。拳を作って、白い壁をリズムよく叩いた。

 コン、コン、コン、コン。
(お、か、え、り)

 返事はすぐに帰ってきた。

 コン、コン、コン、コン。
(た、だ、い、ま)

 くぐもったノックの音が聞こえる。
 その音が俺の中に心地良く響く。
 なんだか温かい気持ちになった。
 自分から挨拶して返事を返してくれた、たったそんな些細なことがなんだか嬉しくてたまらなくない。相手に受け入れられたような気持ちになる。

 その体勢のまま壁を見つめ、壁の向こうの人間を思い浮かべる。
 嬉しいでしょ。笑うお姉ちゃんの顔がふと浮かんで、素直に頷いて俺は笑った。
 壁にそっと触れて、温かみを感じる壁を撫でる。

(なるほど)

 これはなかなか、癖になりそうだ。