りさんとのお花見


 春になった。温かい風が吹き抜ける。着込む服も薄くなり、陽の光を浴びようと体が自然と伸びる。
 それはまるで植物のようだった、太陽の温かさに人は喜ぶ。

 けれど、人間は人間だ。


「…………」

 沖田は落ちそうになった瞼をごしごしと擦った。
 眠たい。
 非常に眠たい。その欲求が渦を巻く。
 今布団が目の前にあれば綺麗に飛び込み3秒で眠りに就く自信が今の沖田にはあった。それほど眠たかったのだ。春だからではない、仕事の疲れで、だ。いくら世間が春の訪れを歌い陽気さに包まれようとも、沖田が置かれた現状や仕事の量が変わるわけではなかった。

(前に買い置きしておくべきだった)

 つゆやたれなどが陳列されている棚の前で、沖田はぼんやりと棚に並んでいる瓶を眺めていた。
 ようやっと仕事が終わり、本当なら家に真っすぐ帰ってそのままバタリと倒れたいところを無理にでも行き先を変えて沖田は近くのスーパーへと来ていた。黙々と帰る途中、トイレットペーパーや食料が尽きていたことを思い出してしまったのだ。面倒だが、こればっかりは自分がやらなければならない。

 目的の物と必要な物をこの際にとカゴの中に放り込み、沖田は足を引き摺るようにレジへと向かった。
 人は個々に感情があるはずなのに、何故こんな時にかぎってシンクロするのだろう。
 レジに並ぶ行列に沖田はげんなりとした。
 いっそのこともうカゴをその場に置いて帰ってしまおうかとも思った。
 だがそんなことなど出来るわけもなく、囁く悪魔の声を遮って沖田はため息を吐いて比較的空いている(ように見える)レジの最後尾へと並んだ。重たいカゴを地面に置いて一息つく。これからは持久戦だ。
 ひょこっと列から顔を出してレジを見てみるとアルバイトらしい男が無表情に商品を通していた。動作が遅いわけではないが、先頭に居るおばちゃんがやたらと物を買い込んでいて手間取っているようだ。

(贅沢…いやいや、何をそんなに買い込んでいるんでィ…)

 沖田は青い目を半眼にしてレジを見るのをやめた。
 そしてふと前に並ぶ男の背中を何気なく見る。短髪のスラッとした男は沖田よりも背が高く、肩幅も広い。これで顔が整っていたら腹が立つなァと視線を男のカゴへと向けた。

「…え゛」

 それを見て肩がずるりと落ちた気がした。思わず声が出る。
 不審に思ったのだろう、前の男が肩越しに振り返った。

「……あ」
「……沖田?」


 振り返った男は土方だった。驚いて頭から爪先までを慌てて何回も見やったが、何度見ても隣人の土方に間違いはなかった。沖田は目を丸くする。

「ビックリでさァ。土方さんじゃねェですかィ。こんなところで会うなんて奇遇ですねェ」
「まあな。俺は大学の帰りだがお前は? バイト?」
「そうでさァ」

 いつも相手の部屋か窓越しということもあって、アパート以外で見る土方の姿は新鮮だった。やはりこの男は容姿が整っているだけに目立つ。咄嗟に指を見て指輪を探してしまうのはもう癖になってしまっていた。

(指輪はない、か)

 暫くは平穏を守られたと小さく安堵の息を吐いて、沖田は先程から気になっていたカゴへと視線を向けた。
 カゴに盛られた黄色い山に。

「…土方さん、今日マヨネーズの特売でもしてやしたっけ?」
「…いや、これが普通だけど。それを言うならタバスコが大量に入ったお前のカゴもなんなの?」
「…これはお姉ちゃんが好きなんで」

 大量のマヨネーズが入ったカゴと大量のタバスコが入ったカゴとお互いのカゴを見やって、ふたりは声を揃えて言う。

「「変わってんなあ」」




 買い物袋をゆさゆさと揺らしながらふたりは一緒に歩いて帰った。
 春の風がそよそよと心地よく通り抜ける。ついこの間までこの風に身をすくませていたのにと、春の訪れに沖田はむず痒くなる。のんびりと歩きながら、春だなあと再確認した。

「大学、忙しいんですかィ?」
「いや、ちょっと手伝いとかがあるだけだ。お前は…相変わらず忙しそうだな」
「あんま変わんねェもんですぜィ」

 へへっと笑ってなんてことはないと言う。
 土方はそんな沖田を見下ろして少しだけ目を細めた。
 いつどれぐらいバイトに精を出しているのかなど詳しいことは分からないが、自分が想像している以上に沖田は過酷な世界で生きている。
 疲れた顔をしている。
 男にしては大きな目の下に目立たない程度だがクマが出来ていた。
 体も以前に比べて痩せたかも知れない。
 そんなところばかりに目がいって土方はこの隣人が少しだけ心配になる。

「お前ちゃんと飯食ってんのか?」
「心配しなくてもちゃんと食べてやすぜ。こう見えても廃棄の弁当とか居酒屋のまかないとか結構豪華なんでさァ」
「睡眠は取れてんの?」
「今は春休みで稼ぎ時だからちょっと無理してやすが、まァ倒れない程度には取れてまさァ」
「大丈夫かよ。風邪とか引くんじゃねえの?」
「…土方さん」

 矢継ぎ早に尋ねる土方を、総悟がぐりんと大きな目で見上げた。見下ろしていただけあってばっちり総悟と視線があって土方は内心慌てる。
 沖田の目は青い夏の空のように透き通っていて真っ直ぐ見ると吸い込まれるようで、直視が出来なかった。

「…な、なんだよ」

 声が僅かに上擦る。

「なんか土方さん…」
「………」
「お母さんみてェ」
「…は?」
「心配症ですねィ。俺ァ丈夫に出来ているんで、ンな心配は無用でさァ。部屋の中でぶっ倒れて死体なんかにはなりやせんから」

 照れ臭そうに笑った総悟に対し、産まれて初めて母親みたいだと言われて土方は衝撃に固まっていた。男なのに、たった4歳の差なのに、つーかそんな心配してんじゃねえと少し遠い目をする。

 と、ざわざわと吹き抜けた風に淡いピンクの花びらが交じっているのに気付いた。それは土方と沖田の間をすり抜けてヒラヒラと舞う。
 花びらが何処から来たのだろうと辺りをキョロキョロと見回していた沖田が「あ」と小さく声を上げて動きを止めた。
「ん?」と土方が反応すると、沖田が細道の奥を指差す。

「土方さん、あれ…」
「…すげえ」

 細道の奥は公園のようになっていて、そこに1本の桜の大木があった。
 堂々と地面に根を下ろして立派な枝振りである。
 桜の下には散った花びらが敷き詰められていて、ピンク色の絨毯が広がっていた。
 帰路ではなかったがふたりはフラフラと桜の元へと歩いていった。
 ふと中に入ると、公園からふたりの子供が笑ながら駆けて行った。他には誰もいなかったのだろう、入ってみると公園はシンとしていて風に揺れた桜がざわざわと音を立てているだけだった。

「綺麗ですねィ」
「ああ」
「俺、こうやってゆっくり桜を見るのは久しぶりでさァ」

 桜の下のベンチに座り総悟は目尻を柔らかくした。そんな沖田を横目で見つつ、隣に座った土方は桜を見ていた。
 土方もこうしてゆっくりと桜を見るのは今日が初めてかもしれない。いつも電車の窓から一瞬見るぐらいだし、花見をしてもそれは口実で専ら主役は酒だ。
 これが本当の花見なのかもな、と土方は頭上に広がる桜を眺めた。お互い会話もないが苦痛でもない。風に揺れる桜の音と遠くから聞こえてくる近所の子供の声を聞きながら眺めていると、花びらがヒラヒラと落ちてきて土方の鼻の上に落ちた。
 きょとんとすると今度は右側からことりと重みを感じてまたきょとんとする。
 見やれば沖田が土方の肩に凭れかかってくぅくぅと寝息を立てていた。
 一瞬の間に寝たのかと唖然として土方は驚いたが、それほど疲れていたのかと心配になり土方は小さく息を吐く。

(すぐに帰ってやりゃよかったな)

 愚痴を言わず健気に頑張る沖田の姿に、土方の心はいつも波打つ。
 他人よりも知り合いで、知人よりも親しくなくて、そんな曖昧な関係で。
 沖田のこと等深く知りもしないのに、何故か牽かれるものがあった。

 そよそよと風が囁き、ヒラヒラと落ちてきた花びらが土方の目の前で沖田の髪へと付いた。
 勿論沖田は気付くことなく眠りについている。
 抱えている重みなど何も感じさせないあどけない寝顔に、土方はふっと笑い動かせない腕とは逆の手で沖田の髪に付いた花びらを取った。
 包み込むような温かな風にそれを落とすとヒラヒラとまた風に乗って舞っていく。
 この桜のように春のように、お前にとって暖かで穏やかな日が続くといい。
 隣に置いてある買い物袋に目をやって、後で何か作ってお裾分けでもしようかと土方は考えて柔らかい風に目を閉じた。
 けれど今はこの細やかな安息を守るべく、心地よい重さを感じたままここに居ようと思った。
 君が目を覚ますまでここに居るよ。