ひとりぼっちエロ


 変化なんてこれっぽっちで何も変わらない。
 今まで通りなんだって楽観的に捕らえていた、俺の甘い考えは見事にぶち壊されて暗転。
 俺は今、アイツの顔さえ思い出せずにいる。

(連絡取らなくなって、どれくらい経つんだろう…)

 鳴らない携帯を弄って確認すると履歴にも残ってないほど前だった。ああもうそんなになるのかって、俺は冷たいフローリングに寝転がって感嘆する。

 じゃあ最後に声を聞いたのはいつだった?
 最後に顔を見たのは?
 ゴロリと寝返りをうち折った腕を枕にして思い返してみたが、頭の中でその声が俺の名を呼ぶことはなかった。
 あんなに毎日嫌というほど聞いていた声がわからない。思い出せない。そんな事実に、ぼんやりとそんなものなのかと思う。関係を切ってしまえば所詮そんなものなのか。

 時計の秒を刻む音が静かに響く。


 何もやる気が起きなかった。大学の課題はこんな時にかぎって何も出ていないし、バイトもなんだか面倒くさくて辞めてしまった。
 やる気どころか体が息をすることさえも放棄しつつある。それでも腐っても現代っ子の俺は、手放すことをせずにまるで体の一部とでもいうように、意味もなく携帯を弄くっている。

 アドレス帳を開くと連絡もしないくせに登録してある名前が連なっていた。かちかちとキーを押してなんとはなしにそれを眺める。
 誘いを掛ければふたつ返事ですぐさま飛んでくるであろう女の番号が所々にあったが、暇だからといって連絡をしようとは思わなかった。カチリとキーを押して、そんな名前たちを通り過ぎていく。
 女の名前がやけに多いのは、俺が俗に言う遊び人だからだろう。
 現に大学は勉強というよりも遊ぶ約束と遊ぶ相手を探す為に通っていると言ってもいいぐらいだ。
 頭はそう悪いほうではなかったが、大学に通い始めてからはずる賢くなった気がする。
 どうすれば単位を落とさず過ごせるのか、尚且つ教授の目に出来の良い生徒と思わすにはどうすればいいのか。そんなことばかり考えて根回ししては、その裏では馬鹿やって遊ぶ毎日。
 大学っていうのは不思議なもので、受験して合格という高いハードルを越えたわりには馬鹿なことをやる馬鹿な奴らは腐るほど居た。
 勿論俺もそんな馬鹿のひとり。

 昔はこんな俺じゃなかった。
 ふとした瞬間にそんな物寂しさを感じるようになったのは何時からだろう。


(――――あ)

 携帯のキーを押していた指がある行になってふと止んだ。
 さ行の最後。
 ここにあったはずの名前がなくなっているのに気付いたからだ。フルネームで登録する俺のアドレスの中でたったひとりだけ名前だけで登録してあった、ソイツの名前が消えている。
 何故消えているのだろうと考えて、ああとすぐ思い当たる。
 俺が消したんだ。
 三か月前。アイツから別れ話を切り出されてキレてすぐに消したんだって。

 女ばかりと遊ぶ俺だけど、三か月前まで付き合っていたのは男だった。
 中高が同じ後輩で、生意気で俺の上げ足ばっか取って茶化して笑うような嫌な奴だった。
 高校で俺が独り暮らしを始めると、何度も入り浸って見事に寛ぐ居候っぷりを披露していたっけ。冷蔵庫の物や菓子は勝手に食うし、金欠だっつーのにエアコンを付けて優雅にテレビは見るし人の布団で勝手に寝るし。ああ碌な思い出がひとつもない。
 でも、それなりに楽しかった。
 不思議なもので気付けば俺はそいつと恋人という枠に入りたいって願っていた。
 勇気を出して告げてそれが叶った瞬間の激情を抜く感情を、俺は未だに実感したことがない。

 しかしあんなに願っていた関係も三カ月前に終わった。いや、もしかしたらもっと前に終わっていたのかもしれない。告げたのは向こうだがその原因を作ったのは俺だろうと、それぐらいは自負している。

 大学に行き始めて半年、キャンパスライフにも慣れ始めると俺は大学が楽しくなって仕方なかった。
 勿論今の俺が居るように、本来の目的とは180度真逆の遊びに俺は夢中だったのだ。
 男と女が入り混じったグループでどっか行ったり居酒屋で騒いだり、その瞬間が楽しかったらなんでもよかった。
 今なら分かる、俺はあいつを蔑ろにしすぎたのだ。
 その証拠に俺は電話で「別れる」と言われても「ああそうかよ」の一言で電話を切った。その時俺はちょうど居酒屋で騒いでいる時で、いい感じで酒も入っているのにそんな電話を掛けてきて気分を害されるのが腹立たしかったのだ。内心本気で別れ話を切り出したとは思っていなかった。ちょっと寂しいから構ってほしいという意思表現みたいなもんだと馬鹿な俺はそう片づけて、再び騒いで我を忘れるようにひたすら呑んだ。アイツがそんな風に甘えてくる性格じゃないと知っていたのに。

 とんだ勘違いだったのだ。
 それから1週間しても連絡は来なかった。ようやっと本気だったんだって気付いてこっちから連絡しても音沙汰なしで、またそこで腹が立った。そっちがその気ならとアドレスから名前を消して意地になって俺は連絡を取らなかった。忘れるように前にも増して遊んだし女とも付き合おうとした。
 でも家に帰ってひとりで居ると、頭の中でアイツが居た時の思い出がまざまざと甦ってどうしようもなかった。
 この部屋はこんなに静かだっただろうか。こんなに広かっただろうか。
 冷蔵庫の物が減らなくなった。
 クローゼットの中にあるサイズの違う服を見るたびに痛感する。
 当たり前だと思っていた、アイツの居た痕跡を見つけてはこんなに日常に溶け込んでいたのだと思い知る。

 外で騒いでも、いつもどこかで空しさを感じていた。何かが欠けたような、片足を失ったような不安定さが俺を襲う。
 本当にフラれたんだって、すごくそれがショックだったんだって頑固な俺がやっと認めたのは1ヶ月前。アイツと別れてから2ヶ月後のことだった。
 それから俺は無気力人間を貫いている。別れるなんて考えたこともなかった。
 けれど冷静になればどっちが悪いかなんて一目瞭然。こんな俺でもそれぐらいの分別はある。
 俺は甘えていたんだ。何があっても傍に居るって、それぐらい気を許してそれぐらい身勝手だった。

 ため息をつくと同時に携帯が鳴ってビクリと肩が跳ねた。画面に出た名前を確認して電話に出る。

「はい」
「トシか?」
「ああ。珍しいな。最近忙しいんだろ?」
「まあな」

 中高と一緒だった近藤さんは、今は大学を退学してボランティアをして国内やら海外を回って多忙な毎日を送っている。昔から人情や義理高い人だった。アイツもよく懐いていた。俺以上に。
 些細なことで思い出してしまい俺は後悔する。ああもうと仰向けに寝転がって腕で視界を隠した。
 実はトシに頼みたいことがあってな、と薄い箱の中から声がする。

「なに?」
「総悟のことなんだけどよ」

 今の俺にとっては安易に吐き出すのには難しい名前だった。
 電話口で俺が息を飲んだことも知らずに近藤さんが続ける。

「昨日電話したらな、珍しく調子が悪いみたいだったから心配でよ。悪いがトシ、ちょっと総悟の家まで行って様子を見て来てくれないか?」
「冗談じゃねえよ」
「トシ…」

 刺々しい声が自然と落ちた。俺の声色を聞き取って、近藤さんが困惑を浮かべる声がする。
 けどそうだろ?誰がフラれた元恋人の家にのうのうと行くってんだ。

「悪いけど近藤さん。俺、もうアイツと関わる気ねえから」
「どうしたトシ?また総悟と喧嘩でもしたのか?」
「そうそうしたした。人生であり得ないぐらいの大喧嘩をしたんだよ。だから俺はパス。他を当たってくれ」
「トシ。そんなこと言うなよ」

 尚も食い下がってくる近藤に苛ついた。なんで俺なんだと、理不尽だとも思った。
 俺はフラれたんだ。アイツに。
 激情が逆流する。被害者気取りかとせせら笑う声に知るかと毒づいて黙らせる。裏切られたんだって身勝手に俺の内側が吠える。俺はあいつに裏切られた。

「それに俺がわざわざ様子を見に行かなくてもアイツにはミツバが居るだろ?!逆に大好きな姉ちゃんに甘えられて喜んでんだろうよ。俺が居なくたっていいんだよ!アンタはアイツに甘すぎるんだ!」

 声を荒げて言う俺に対して、近藤さんは静かだった。間を置いてぽつりと言う。
 知らないのかと。

「あ?何が?」
「ミツバは今入院しているんだよ。重い病気らしい。アイツは今ひとりだ」

 目が点になるとはこのことだった。口をぽかんと馬鹿みたいに開けたまま、俺は呆然と言葉を理解する。言い聞かせるように近藤さんはゆっくりと力強く続けた。
 ミツバが入院して働く為に総悟が高校を中退したこと。
 家も引き払って今はぼろアパートに住んで、生活費と入院費の為に必死に働いていること。
 総悟は今ひとりぼっちなんだよ、近藤さんはそう続ける。俺は言葉を飲み込むのに必死だ。
 変わらない平和で退屈な毎日だと決めつけていた日常は、俺の知らない知ろうともしていなかったところで激変していたんだと突き付けられたようだった。
 俺の頭の中でアイツの姿が浮かんで消える。
 アイツにとってたったひとりの肉親である姉は絶対的な存在だった。姉の話をする時、アイツはいつも楽しく嬉しそうに鼻高々と笑っていた。アイツのそんな顔を見るのが、俺は好きだった。

 いつから?
 掠れた声で問うと、近藤さんは三か月前だと言う。別れ話を切り出された時とちょうど時期が重なっていて俺はハッと息を飲む。

 土方さん。
 電話を掛けてきた時のことを思い出す。別れると言う三日前に総悟から電話があったことを思い出す。
 らしくない声で迷子のように弱弱しい声で一言、俺の名前を呼んだ。どうしようもない問題があって頼るような声色だった。
 俺はそのときどうした? 思い出すまでもない。今忙しいから。その一言で切った。縋られた手を振り払った。アイツがどんな状態でどんな気持ちで掛けてきたかも知らずに聞いてやることもしなかった。
 プープーと回線が切られた音を聞いて、電話の向こうで総悟はどんなことを思っていたのだろうか。
 裏切ったのはどっちだ。


「近藤さんッ!アイツの住所を教えてくれッ!」

 叫んで場所を問うと、俺は近藤さんが言った場所を適当な紙に書き殴った。
 そのまま携帯を切って放り投げると紙だけを掴んで部屋を飛び出す。変な意地もプライドも今はどうでもよかった。身勝手で我侭なのは百も承知で、けれど走らずにはいられなかった。息が切れるほど駆けて駆けて俺は。

 今にも壊れそうなアパートに辿り着くと右から3つ目のドアをドンドンと乱暴に叩いた。荒く息を吐く中でギィと音を立ててドアが開く光景に、俺は息を止める。
 謝らなければと思っていた。言葉で言っても土下座してもいい。許してくれとは言わない。でも俺がお前にしてきたことは最低だった。暴力彼氏だったんだ。何度傷つけた?何度お前は泣いた?その全部に謝りたい。
 けれど見慣れた総悟の姿を見た瞬間ダメだった。変わらない大きな目を丸くして俺を見上げて、呆然と落ちた言葉が耳に届く。土方さん。瞬間俺は総悟を思いっきり抱きしめた。壊れるぐらいキツく抱きしめてぎゅっと目を瞑る。
 馬鹿でごめん。
 今になって何よりも大切なんだって気づいた俺はどうしようもない馬鹿だ。
 ごめん。はっきりと言おうと思っていた謝罪の言葉は、総悟の肩口に顔を埋めて小さく落ちただけだった。震えているのは俺だと、抱きしめて気付く。もうこの温もりを離してはいけないのだと心が痛いほど誓って、でもそれが赦されるのかを決めるのは俺じゃない。