真夜中のサーカス
チャイムが鳴って講義が終わった。ぞろぞろと教室から出ていく塊には目もくれず、その手は一心不乱にノートにペンを走らせている。
カリカリカリカリ。
カリカリカリカリ。
ボキッ。
シャーペンの芯が折れる音で土方はハッとした。
誰も居ない教室を眺めて、そこで漸くチャイムが鳴ったことを知る。
「もうこんな時間か」
携帯の時間を見て土方はそそくさとシャーペンやノートを片付けた。
この後は何も授業を取っていないが、バイトが入っている。
気怠い体を動かしつつ帰ろうと肩掛け鞄を背負い校舎から出る間際、ふいに「おい土方」と背中に声がかかった。
視線を向けるとそれは遊び仲間で、聞くまでもなく用件が分かった土方はふいっと視線を戻して足を進めた。が、気にせず声がかかる。
「なあ、今晩合コンがあるんだけど」
「パスだ」
「なんだよ、お前最近付き合い悪いぞ」
遊び仲間の男は露骨に眉を寄せて、歩き出した土方に付いてくる。
土方が居たほうが女に誘いも掛けやすい上に上玉が来ることを知っている男は、「この後バイトなんだよ」と足を速める土方の後をハイエナのように付いてきた。
「じゃあバイトが終わってから参加でもいいからさ。何時に終わるんだよ? それまで引き伸ばしておくぜ」
「だから行かねーって言ってんだろ」
「次は? 次はいつ参加出来るんだ?」
「しつけぇなあ。次もその次もねぇよ。合コンもコンパも行かねぇから俺に声を掛けても無駄だ」
何を言ってもなびかない。仁辺もない土方の言葉に男は戸惑った。
つい数ヵ月前まで誘いを掛ければふたつ返事を返してきた土方が、何があったのか今では勉強とバイトに一筋だ。
「本気のヤツが出来たのかよ? 止めとけって。続くわけねえって!」
立ち止まって投げ掛けられた言葉に、土方は真っ直ぐと前を見たまま答えた。
「今度は俺が頑張る番なんだよ」
罰でもなんでもいい。ただ辛いなら背負ってやりたい、その重さを少しでも分かち合いたい。
エゴだと思いながらも、土方は歩みを止めなかった。
日付が変わった頃、沖田はフラフラの足取りで帰ってきた。
「ああ夕飯食い損なっちまった」
寝不足と飢えもあって、体がやけに重い。
黒い夜だからだ。ポケットから鍵を取り出しふと顔を上げて初めて、沖田は自分の部屋の前に居る男の存在に気付いた。ボロアパートとは不釣り合いな男が、マフラーに顔を埋めて部屋のドアに凭れ掛かっている。
土方の存在に沖田は内心戸惑った。
こうやって待ち伏せされていることは何度かあったが、いつも時間が合わなかったのか総悟が帰ってみると「やる」という書き置きと共にコンビニの食べ物が入ったビニール袋がドアノブに吊るされているだけであった。
(今更なんの用件でィ)
拳を握り締め、顔を引き締め素知らぬフリをして沖田はドアに近付いた。
「そんなところに居たら警察を呼びやすよ」
棘のある声でそう言えば、気付いた土方が持っていたビニール袋を持ち上げた。
「腹、減ってるだろ? バイト先から貰ってきたんだ」
微笑を浮かべ告げられる。まるで自分と土方の間に何もなかったかのような接し方だ。けれどその目に憐れみを感じ取り、沖田は怒りを感じた。土方の登場が総悟の心を大きく掻き乱している。
視線を向けるだけに止め、ドアの鍵を開けるとそのまま身を滑り込ませ追い出してやろうと思った。しかしふと手袋もしていない手が目に入って、総悟の心が揺れる。
一体いつからこうやって立っていたのか、ブラリと下がった手に血の気がない。冬なのだ。芯の底から凍えるように寒い中でただじっと待っていたのかと思うと、どうしても非情になることが出来なかった。
「入りなせェ」
だから仕方なく、沖田はドアを開けて土方を招き入れた。追い出されると思っていたのか土方はその言葉に驚いていた。
「お邪魔します」
丁寧に言って靴を揃えて土方が上がり込む。たった一間の狭い部屋だ。その辺に座りながらも物珍しげに視線を走らせている土方を見て、沖田は嘲笑を浮かべた。
「あんまりボロいんでびっくりしやしたか? まあアンタの周りにはこんな所に住んでいるヤツなんて居ねェでしょうからねィ」
「いやそういうわけじゃねえが」
何か言いたそうに言葉を濁して、土方がどこか苦しそうな顔をする。
しかしそれも一瞬で、持っていたビニール袋を沖田に差し出した。
「持たされた。やるよ」
「いりやせん」
「どうせ廃棄処分のモンだ。遠慮の必要はねえ」
賞味期限間近で悪いけどなと言う土方に、だが沖田は手を出しもしなければその場から動くことも距離を縮めることもしなかった。
ただじっと睨むように青色が土方を射た。憎しみのこもった火がチラチラと奥底で燃えている。
「じゃあ遠慮なく言わせて頂きやすが、もう二度と俺の前に姿を見せねェでくだせェ」
はっきりと、沖田が言った。
「アンタとはもう縁を切ったんだ。近藤さんに何言われたのか知らねェけど、今頃来て恩くせがましく心配されたってこっちは迷惑なんでさァ。だからもう二度と俺の前に姿を見せねェでくだせェ」
一息に吐き捨てて沖田は拒絶する。総悟の中で何かがグルグルと暴れていた。そして自分の言葉に土方が傷ついた顔をしているのを見て、何故か息苦しくなった。
何も間違っちゃいない。
俺は正しいことを言っている。
だから後悔する必要はない。
その筈だ。
それなのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
沖田はギュッと拳を握りしめた。
「もうテメーに振り回されるのはうんざりなんでィ」
絞り出した声は頼りない声だった。
近くの道路を車が通った。ぼやけた光が窓から入り、ガタガタとゆるんだ窓枠が音を立てる。
しばらく沈黙が続き、ようやっと、俺は、と土方が声を出す。
「俺は、お前に甘えてばっかりだった。ずっとお前を待たせていた」
まるで懺悔のようだ。
真っすぐとこっちを見る土方の綺麗な目が堪らず、総悟は無意識に足を一歩引いてしまう。
しかし踵が壁に当たって逃げることは叶わなかった。
「だから、今度は俺がお前を支えたいんだよ。調子いいって思うだろうが、お前を支えてやりたい、重みがあるなら一緒に背負いたい。頼ってほしいんだ」
「…信じねェ」
「総悟、俺は今でもお前のことが好きだ」
「信じねェって言ってんだろッ!!」
出ていけ!!
ずっと耳に残るような、悲痛な叫びだった。
血が出そうなほど唇を噛んで、総悟は背を向けて土方を拒絶する。これ以上掻き乱されてはたまらなかった。もう顔も見たくない。
「総悟、」
「うるせェ!! 軽々しく名前を呼ぶんじゃねェッ!!」
「………」
たったひとりで立つ背は見たくなかった。土方は立ち上がり総悟に近付くが、まだその背を抱くには距離が遠すぎた。
こいつをこんなにも苦しめたのは俺だ。
伸ばし掛けた手をそっと下ろし、持っていたビニール袋を総悟の横に置いた。
「また来る」
バタンと古びた扉を閉めると、ドアに凭れかかり土方は前髪を強く握りしめた。
あんなにはっきりと拒絶する総悟の姿は初めてで、覚悟していたはずが真っ正面から言われると胸が抉られるようだった。そして総悟をあんな風に追い詰めた自分が許せなかった。
「くそっ」
上手くいかないのは承知、でもそれ以上に手離すことが出来ない。歯痒さにどうにかなってしまいそうだ。
扉の向こうにある存在に手を伸ばしたくて、理性を失くせばそのまま強引に奪ってしまいそうで、土方は衝動に頭を抱えた。
一方総悟はドアが閉まる音を背中で受け取ると、そのままずるずると床に崩れ落ちた。
もう縁を切ったはずなのにさっきまであの男がこの部屋に居たのかと思うと、心臓が耳障りなほどに音を立てている。
やっとひとりで立っていけると思ったのに、土方が現れただけで積み上げていたものが砂のように崩れ落ちてゆく。
これ以上乱されたくない。荒らされたくない。
また車が通り、総悟の心に呼応するように窓が脆い音を立てた。そして差しこんだ明かりが土方が置いていったビニール袋を照らす。
総悟はビニール袋を手に取った。中に入っていたのは菓子パンやお菓子だった。ひとつ手に取るとそれは沖田が好きだと言っていたパンで、総悟は泣きだしそうになるのを必死に堪えた。
「何が余りもんでィ」
パッケージに表記されている賞味期限はまだ余裕がある。廃棄処分された物ではないのは一目瞭然だった。これを土方が選んで自分の為にわざわざ買ったのかと思うと、総悟はどうしていいのか分からなくなる。
パンを見ていると付き合っていた頃を思い出した。コンビニでこのパンを片手に冗談を言って笑いあっていた。
総悟はパンを握り締めたまま体を丸めて肩を震わせて嗚咽を堪えた。
これ以上乱されたくない。荒らされたくない。手を伸ばさればきっと俺はその手を取ってしまう。
総悟はまだ土方を好きだった。