暑い夏の到来に、俺は体力だけじゃなくて精神的にも参っていた。
外は暑いし、蝉は煩いし、目の前に広がるのは参考書ばかり。もううんざりだ。一瞬だって見たくもない。
ベッドの上にダイブするとスプリングがギシリと軋む。
以前ならこのまままどろみに任せてそのまま夢の世界に飛び立っていたが、今は目を瞑っても数字や文字の羅列が頭の中を飛び交っていて気持ちの良い安眠は出来そうになかった。
もともと頭を使うのは苦手だ。けれど目標があるだけに投げ出すに投げ出せず、出てくるのはため息ばかり。世界が終わればいいのになんて現実逃避をして、頭の中では何回も地球や学校を壊して。
と、呼び掛けるようにぶるぶると携帯が震え、シーツに突っ伏していた俺は手探りで携帯を探し当てて、なんだ?と視線をやった。
メールだった。中身を確認すると勉強は進んだか?という母親みたいな一文でそれは始まっていた。
内容を読んだ俺は携帯を握ったままゴロリと寝転がって天井を見上げる。
どこかに監視カメラがあるんじゃないのかとまず疑った。
こうやって、嫌になってもう全部を投げ出そうとすれば、タイミング良く土方さんから連絡が来る。その度に俺は逃げ出す術を失ってまた過酷な受験に身を投じるのだ。
(遠いなァ)
土方さんが通う大学は、なんて遠いのだろう。
もっとランクが低い大学だったら俺だってもっと楽が出来たのにと、つい未練がましく思ってしまう。
そう、俺は土方さんが通っている大学を受けようとしていた。
土方さんと知り合って1年ちょっと、俺は受験生になって、土方さんとはなんだかんだいいつつ、今も続いていたりする。
その後 花火
蒸し暑い夜だった。
気温はそれほど高くないのだけれど、人が多いだけに行き場のない熱が辺りを漂っている。
ぞろぞろぞろぞろと人の波に混じり総悟はゆったりと土手の上を歩いていた。視界一面に広がる人の頭を見た後、ふと川を見ると黒い川にポツポツと屋台舟の灯りが浮いていた。まだ余韻に浸っているのだろう、何隻もの舟が未だに去る気配を見せず賑やかに提灯の明かりで黒い川を照らしている。
(凄かったなァ)
屋台舟だけではなく余韻に浸っているのは総悟も同じだった。歩くとも言わないような亀のような歩幅でゆっくりと進みながら、目蓋に焼き付いた花火を総悟は先ほどから何度もなぞり返しては感嘆する。
凄かった。一言に尽きる。空一面に広がるあんな花火を見たのは産まれて初めてだ。思い返しただけでも高揚が胸を跳ねる。
いつも花火と言えば人や建物の間から見るものばかりだったが、ここは工業地帯とだけあって周りに高い建物がひとつもない。土手沿いには開けた空が広がっている。
そんな場所で上がった花火は堂々としていて、今まで見たどの花火よりも大きく咲き誇っていた。ぱっと空が輝いたその光景を沖田は忘れられない。
「凄かったですねィ」
その言葉しか出てこない。
しかし隣を歩く土方は、しみじみと余韻に浸る沖田と違いどの道が空いているだろうかと帰りのルートを探しているらしかった。
「そうだな」
空返事に、余韻に浸っていた沖田は現実に突き返されたような気分になる。
メールで「息抜きに花火でも行かないか?」と誘ってくれたのは土方である。
わざわざ夏の、しかも人が集まるところへ飛び込んで行くのは正直気が引けたが、それでも受験生だからと遠慮している土方からの久しぶりの誘いだった。
土方さんとならと弾む心を押さえて「行く」とだけ返事を打った。
けれど土方は何度もこの花火を見ているのだろう、感動を口にする沖田と違い終始冷静な土方に逆に総悟の温度は冷めていく。
一体何度この花火を見たのか、一体誰と一緒に来たのか、考えるだけで総悟の心はささくれる。
花火が見終わったと同時に始まった隣に居たカップルの濃厚なキスシーンを思い出して、総悟はげんなりとした。頭の中で上がっていた綺麗な花火がチラチラと花が萎むように散っていく。
「…ご、総悟って」
「なんでィ、アホ方」
「ンだよアホって!! 口を開いたら罵りってどういうこと?! ったく、並ぶ列が違うンだよ」
いつの間にか電車を待つ列に並んでいて、考え事をしていた総悟はひとりポツンとはみ出したところに居た。土方に言われてやっと気付き、いつの間にと辺りをキョロキョロと見回す。
そんな総悟に土方が呆れたようにため息をはいて、その腕を掴んでグイッと引っ張った。たたらを踏めば然り気無くそっと支えられる。
土方の隣に並びそっと窺い見れば、土方は何事もなかったように電車が来るのを待っていた。
(済ました顔をしやがって)
動揺しているのは俺だけかよと内心悪態づく。それでも赤くなった顔はどうしようもならなくて、それを隠すようにそっぽを向いた総悟の耳に、電車が汽笛を鳴らしてホームに滑り込んだ。
人が多い。それは知っている。ホームに列を成していたのだから、混むだろうことは予想がついた。が、
(よく入ったモンだ…)
呆れたような感心したようなため息を総悟はついて、身動きの出来ない車両にがっくりと肩を落とした。
満員電車とはよく言うがこういうことなのだろう、腕ひとつ上げることが叶わず、閉ざされた箱の中で人がひしめき合っている。
そして総悟にとって最も不本意なのが、扉に背を預けている総悟を庇うように土方が立っていることだ。総悟の横に両手を付いて、押してくる人の波になんとか耐えている。
じっと見るのはなんだか忍びなくて、総悟は少し俯き加減になりながら背後に流れる夜景を目の端に入れていた。
(こんなこと前にもあったなァ)
ふと思い出して懐古に耽る。土方と付き合う前のことだ。
あの時はまだ土方のことが好きとは気付いていなかった。気付く手前で、距離を計り損ねながらもこの近さにどぎまぎしていた気がする。
(そういえばあの時も花火に誘うか悩んでいたんだっけなァ)
つい昨日のように思い出して、いつの間にかそれが叶っていたのだと知り、総悟はふと顔を上げた。ら、窓の外を見ていたとばかり思っていた土方がじっとこっちを見ていたのだから驚いた。青色の瞳を真ん丸にした総悟を見て、零れ落ちそうだと土方が変に感心したような声で言う。
「何見てんでィ」
「いや、さっきからなんか考え事してる見てェだからよ」
「気になりやす?」
「当然」
見下ろされて小さな声で囁かれる。真っすぐな瞳に一瞬電車の中だと忘れた総悟は、雑念を振り払うように慌てて首を降った。
「教えねェ」
頑なにそう言えば、すっと土方が目を細める。
「なんでだよ」
「言いたくねェ」
「俺は気になるンだけど」
「しつこい男は嫌われやすぜ」
不貞腐れた声色のまま思わずそう憎まれ口を叩いてからハッとした。仮にも付き合っている相手にそういう言い方は不味かったんじゃないだろうか。というか変にヘソを曲げられたら後がめんどくさい。
恐る恐る土方の顔を窺うと土方はしかし、特に気にした風でもなく逆にニヤリと口の端を釣り上げていた。
その余裕な様子が癪に触り、総悟は拗ねる。気に止めないほどどうでもいいのか思ってしまう。
真っすぐと目を見たままなんでもない風を装って問うた。
「土方さん、今日楽しかったですかィ?」
「? ああ」
「それにしちゃァ花火は見飽きているようでしたぜ」
また言ってから気付いた。ついつい本音を口にしてしまって総悟は居たたまれなくなる。
これじゃあ自分が土方を好きなだけで、まるでひとり相撲で、それがかなしい。
「確かに花火は見飽きたな」
すんなりと言われた土方の言葉を、総悟は俯いて聞いていた。けれど髪を優しく触られる感触に顔を上げると、土方が柔らかく笑っていた。
その口が言う。
「だから、お前を見ていた」
「は?」
「気付かなかったか? 花火に見とれる総悟を見ていたって言ってんだよ」
土方が顔を下げた。身動きが取れずしかも土方に囲われた総悟には逃げる術がない。耳元で声が響いて微かな痺れが走る。
「花火の後隣に居たカップルがキスをしていただろう?」
「見たんですかィ」
「お前の視線を追ったら見えたんだよ」
可笑しそうに土方が笑う。
からかわれたと思った総悟が顔を赤くして声を上げる、その前に土方がそっとキスをしてきたものだから総悟は頭の中が真っ白になった。
瞬きを三回繰り返す。言葉を失う。土方を見る。こっちを見て柔らかく笑っている。総悟の頭の中でピューと空を裂く音がして、パァンと音を立てて大きな花火が咲いた。
「俺がつまらなそうに見えたか?」
「…見えやした」
「だがそれは違う。それ以上にお前が違うことを考えていて総悟を見ている俺に気付かなかっただけだ」
「………」
きらきらしている。散ったはずの花火が再び目蓋の裏で返り咲く。
「テメーのことに夢中だったさ」
他でもない土方の言葉ひとつでそれは闇の中でパッと輝いた。
その輝きを花火を声を音を笑顔を、総悟はきっと一生涯忘れないだろう。箱庭の中の何気ない毎日が宝物になる。
受験頑張りやす。そう言うと、目元を柔らかくして待っていると土方が笑った。それもまた花火となって、総悟の中を明るく照らす光となる。