虹色


 椅子だけが俺の机に寄り添う、誰も居ない前の席。椅子に跨ってこっちを向いてどうでもいい話をしていた相手は、つい先ほど呼び出しを受けて廊下へ行ってしまった。
 空になった寂しげなその椅子をなんとはなしに見つめ、廊下へ視線を移し、掛け時計を見てつい零れそうになるため息をグッと堪える。
 まだ終わらないのか帰って来ないのか。さっきからそんなことばかり考えている。休み時間はかぎられているのに、その僅かな時間さえ俺は総悟を独占出来ない。

 ひとりでぼんやりと椅子に座っている姿は滑稽だった。寂しすぎる。今から他の奴に話かけるにしてもあと二回長針が動けば鐘がなるという微妙な時間で、話を盛り上げるには時間が足らないような気がして動くのも億劫だった。根っからの話好きというタイプでもないし。これが逆の立場なら総悟は携帯を弄って暇を潰すだろうが、俺はあまり携帯を弄るのが好きではない。というかよく分かんねェ。携帯ってモンはメールと電話をする以外に何をして楽しめばいいんだ。

(あーもう)

 よって、今俺に出来ることと言えば空の椅子と廊下へちらちらと視線を送り、無意識に吐きそうになるため息を意識的に飲み込むことしか出来なかった。情けなくて泣けそうだ。総悟が呼ばれたのだって仕方がないと言えば仕方がないことなのだが、その事実を感情を上手く処理出来ない俺自身が一番情けない。
 あまりにも視線をうろうろするのもなんだか癪で、閉じた携帯のディスプレイをじっと眺める。デジタルの時計が授業開始の秒読みを始める。次の授業が終わればもうさよならだ。

「なーにしけた面してるんでィ」

 あと45秒。ふと待ち望んでいた声が聞こえて視線を上げると、半眼で呆れ顔の亜麻色が俺を見下ろしていた。咄嗟に俺は総悟の両手に視線を動かして確認する。無いほうに賭けていたのに、綺麗な包装紙に包まれた箱が右手に握られていてひどく落胆した。声が自然に落ちる。

「…受け取ったのか」
「ああ、まあ。受け取れやせんって言ったんですけど、どうしてもって言って押しつけられて、その隙に自分のクラスに帰っちまったんでさァ」
「ふーん」

 別に理由なんて聞きたくなくて、不機嫌を隠そうともしない気のない返事をしてしまう。総悟はそれに眉を顰めたが、鳴り響くチャイムの音に開きかけた文句が口の中から飛び出ることはなかった。前の席に座るとそのまま椅子を引く。ついさっきまで俺の机にぴったりと合わせるようにあったのに、椅子が引かれて生まれた隙間がまるで俺と総悟の距離のようでなんだか悲しくなった。両手で頭を抱えて心の中で唸る。ああもうほんと、バレンタインデーなんてなければいいのに。




 俺は総悟に恋をしていた。
 こんな破天荒でむちゃくちゃな、しかも同じ野郎にどうすればそんな感情を抱くのか。俺自身不思議でならなかった。でも少なくとも偽りではなかった。その証拠に俺は総悟を自分のものにしたくて悶々とした生活を送っている。不健康極まりない。告げる勇気もないのだから尚更。

 紙袋いっぱいに、なんてそんな有名人でも夢の国の王子様でもないからそれほど量があるわけでもないけれど、両手で数えられる域は越していたと思う。直接渡して来た子のやつは悪いけど全部断った。ロッカーとか部室の前とか机の中とか、不可抗力で受け取った物はどうしようもないからカバンの中に入れてお持ち帰り。登校して来た時よりもそれなりに重くなったカバンは俺の肩にグイッと食い込んで、足取りを重くする。本日何度目かのため息をつく。重い原因はチョコよりも俺の感情的な部分だと自分でもわかっているから遣る瀬無い。

「今日はなんだかずっと機嫌が悪いんですねィ」

 お前のせいだ、とは、言えなかった。ふいっと視線を逸らす。

「別に」
「ってー面には見えやせんぜ。その顔は気にいらないことがあるって顔だ。なんでィ?チョコに針でも入ってやしたか?」
「だから別になんでもねえって!」

 ついムキになって声を荒げてしまって失敗した。感情がこんなにも制御出来ないなんて、まるで俺が俺じゃないみたいだ。苛立って舌打ちをする。やれやれと言いたげに総悟が肩を竦める、そのなんでもないような反応にも腹が立った。

「アンタが腹を立てるスイッチが俺には分かりやせん」
「ああああそうだろうよ。オメーに分って堪るか」
「バレンタインにンな数のチョコ貰ってんのに、喜ぶどころかキレてちゃ世話ねーや。一個も貰えなかった野郎に怨まれやすぜ」
「だったらお前も怨まれる対象だろ」
「残念でした。俺ァ土方さんより数貰ってやせんから」
「数が問題じゃねーんだよ」

 舌打ちして吐き捨てて、歩調を早める。ああもうさっさとコイツと別れて家に帰りたい。不貞寝でもすりゃ気分も落ち着くに違いない。そうして俺はまた行き場のない想いに悩むんだ。
 そうだよ。数が問題じゃないんだ。俺の神経を逆なでしているのは数なんかじゃなくて、お前が総悟が、チョコを貰ったっていうその事実自体だ。そのカバンの中には義理チョコだけじゃなくて本命チョコがあるっていうのも知っている。現に1限目と昼休みと5限目の休み時間には直接チョコを渡されていた。知っている。だって知らずに目で追っていた。

 告げられる勇気があればよかった。けれど口に出した瞬間に何かが壊れてしまうような気がして怖かった。友達という関係を犠牲にして恋人という枠組みに収まる可能性はどれぐらいある。
 保障がないと動けないのかと、毎夜誰かが嗤う。俺は踏み出すことも出来ず、失敗して友達という関係を無くしてただのクラスメイトになってしまうことに怯えている。どう転ぶかなんてわからない。
 もう疲れた。考えることも悩むことにも。そう呟けば足が止まってしまった。

「どうしようもない人だ」

 幻聴じゃなくて本当に総悟にそう言われて、ビクッと肩を震わせた。俺の脳内を見透かされたようで焦る。
 と、急に何かが飛んできてバコッと俺の額に命中した。

「イテッ!」
「そんだけ貰ってるっていうのに、納得がいってなさそうな可哀想なアンタにお恵みでさァ」

 コトンと落ちたそれを見やって、俺は信じられない気持ちでいっぱいになる。
 四角い小さな箱が落ちていた。シンプルなラッピングに包まれた、バレンタイン仕様の箱。それを拾って、俺はぽかんと口を開けて箱と総悟を見やる。

「…え?何これ?」
「俺からアンタにでさァ」
「……。女子から貰ったやつじゃねえよな…?」
「失敬な。正真正銘、俺が買ったやつでィ。美味しそうだったから自分で食べようと思ってたけど、アンタが情けない顔してるから恵んでやりまさァ」

 振りかえった総悟がにやりと笑う、その表情その言葉を、俺は一生忘れることが出来ないだろう。


「俺もそれなりに数貰ったけど、俺が渡すのはそれだけですぜ。かなりレアなんだから、シケた面してんじゃねェよ」


 土方。
 総悟はそう言って止めていた足を再開させた。
 俺はと言えば、徐々に総悟の言葉が全身に広がっていって、染み渡った瞬間その場にしゃがみ込んでしまいそうで叫んでしまいそうでああもう別の意味で制御不可能。
 体が震える。歓喜で震える。小さな箱をじっと見て、頬が口元がどうしようもなくにやける。くそっと小さく呟く。耳が熱い。
 ああもう。ああもう!だからお前ってどうしてそんなにッ!

(だから諦めきれないんだ!)

 前髪を強く掴んで衝動を抑えるので精一杯だった。
 俺は爆弾のようなものを抱えている。解消するには手っ取り早くこの芽生えた火種を捨ててしまえばいいのだと知っている。万に一つの夢を見るより、そっちのほうがよっぽど現実的で誰も傷つかない平和な解決だってことはわかっている。
 でも無理だ。無謀だと知りながらも、俺はこの芽を見なかったことにも刈り取ることも出来ない。だってしょうがないだろう。好きなんだ。

「土方さーん!置いて行きやすぜ!」
「あ?おいちょっと待て!」
「やなこった」

 だから全力で追いかけていつかその手を捕まえてやる。
 ひとり舞い上がっていた俺は、速足で逃げる亜麻色の耳が赤くなっていたのに気付かなかった。