紛失


 雨が降る。ベンチに座った俺は、絶えず地面を濡らす雨を、恨めしげに見るしかなかった。
 ちょうど頭上に木の枝が広がっているから、直撃は防げるものの、どうも止みそうにない。
 膝を抱えて水が当たらないように体を縮ませる。木の葉から滴り落ちた滴が、ピチョリと体を濡らす度に、ビクリと心が跳び跳ねた。

「土方のバカヤロー」

 呟く。あろうことかベンチから立ち上がる時にポケットから俺を落として行きやがった。そのまま気付かないで、俺は、ベンチにひとり置いてきぼり。
 壊れたらアンタのせいだ。
 高い修理代出して泣く羽目になるのだってアンタだ。
 全部全部全部、アンタのせい。
 そう罵っても罵っても、胸にこみ上げる空しさは一向に埋まる気配がなかった。

「あめあめふれふれー」

 と、そんな時近藤さんから着信が入った。俺が居ないことに気付いて鳴らしてもらっているのかもしれない。
 そんなことはわかっても、取る人も俺の声を聞く人も居ないのに、ただひたすら歌うというのは空しさの穴を広げるだけでしかない。
 声が雨に消える。
 俺の存在もこのまま消えてしまいそうだと、そんなことばかり考えていた。
 雨に埋もれ、壊れ、ゴミとして捨てられる。末路なんて、所詮、そんなもの。
 俺はただの機械の箱でしかない。
 他でもない、アンタの、土方さんの携帯でしかないんだ。


「居たッ」

 抱えた両膝に顔を埋めていると、頭上からよく知った声が雨の代わりに降ってきた。
 顔を上げるとそこには待ち人の姿があって、この雨の中、傘も指さずに俺の前に立っていた。

(ずぶ濡れ…)

 俺はポカンと見上げるしかなかった。片手にはちゃんと傘を持っているのに、差さないで、ずぶ濡れで、徒競走をしてきたように土方さんは全身で息をしていた。

「ごめん。大丈夫か?」
「いやどう見たってアンタの方が大丈夫じゃないんですけど…」

 掠れた声で問われ、必死で探していたのだろうと、その姿がありありと想像出来て、俺は言葉に詰まってしまう。
 開口一番に言ってやろうとしていた罵倒もその姿に流されてしまった。

「土方さんの間抜け」

 結局出てきた言葉はそんな罵倒とは程遠いかわいらしいものだった。

「風邪ひきやすぜ。演出みたいに濡れて、水も滴るいい男ってヤツですかィ」
「いい男になったか?」
「さァねィ。俺にとって土方さんは土方さんでしかありませんから」

 曖昧な答えに土方さんが笑う。
 自分は差さなかった傘を広げると、土方さんは俺の上に翳して雨から俺を守ってこう言った。

「俺の携帯も、お前しか居ないよ」




























































































修理


 雨の中に、あろうことか携帯を置き忘れた。
 詳しく言うと置き忘れた後で運悪く雨が降ってきたのだが、携帯が濡れたことに変わりはない。
 俺の携帯は最新でもなければ防水機能なんてものが付いているわけでもなく。
 置き忘れたベンチがちょうど木の真下だったおかげで全壊は免れたものの、やっぱり少し、調子がおかしくなった。
 例えばキーを押しても反応しない、なんてこともあって、仕方なく俺は携帯を修理に出したのだ。

(なんだろうな、この虚無感は)
 
 ベッドの上に体を投げ出して、俺はぼんやりとなんの変化もない天井を見つめる。
 あんなに携帯は嫌いだのややこしいだの毛嫌いしていたのに、いざ手元からなくなると手持ち無沙汰で、普通に過ごせていたはずの時間が狂いだす。
 CMの間や電車の中、ちょっとの待ち時間を、一体どうやって過ごしていたのだろう、情けないことにそれすらも分からなくなってしまった。
 携帯がなくなってどれほど依存していたか分かる。
 否、携帯なら修理の間使えるようにと渡された代機がある。
 けど最初にちょっと触っただけで、違和感を感じてそれっきりだ。
 俺には、俺だけのたったひとつの携帯がある。
 手元から離れて分かる、あんなちっぽけな機械に、俺がどれだけ頼っていたかと。

 ため息を吐いてまた寝返りをうった。
 修理に出した時、店員が言った言葉が反響する。
 古い型の携帯だったからもしかしたら直せないかと危惧したが、幸い部品はあったらしい。ただデータが初期化されて戻ってくる可能性があると店員は淡々と説明した。
 正直、俺はその言葉がショックだった。

(真っ白になって帰ってくるのだろうか)

 ちゃんと設定した着信音で知らせて、生意気さも消えて、素直に追従する。

 (いや、なんだかんだ言ってアイツは俺の言うこと聞いていたな)

 俺の口からは、口を開けばため息しかコロコロと飛び出してこない。
 ベッドに寝転がり、腕で視界を隠す。気付けば俺は寝てしまっていたのだが、その間に携帯が鳴って、でも童話でも落語でもないその曲は親しみのないもので、俺を夢の海から引き上げることは叶わなかった。




 部屋に戻ると、受け取った紙袋から携帯を取り出す。電源を入れて恐る恐る開くと、ディスプレイに見慣れた空が描かれていて、そこでやっと俺の携帯なんだと安心出来て、自然と零れるため息ひとつ。
 
 携帯は運よく初期化せず修理が出来たようだ。2週間ぶりに手元に戻ってきた携帯の感触は、やはり代機とは違って手によく馴染んだ。
 アドレスなど中のデータを確認していると、ふと階下から親に呼ばれ携帯を置いて部屋を出る。
 少しして戻ってくると、空色の目をしたソイツがベッドにダラリと身を沈めていた。
 コイツの姿を見るのも久しぶりだ。

「よお」

 素直に携帯が戻ってきてくれて嬉しいのだと言うのはなんだか癪で、ぶっきらぼうに言って俺は何気なくテレビを付けて腰を下ろした。
 いつもは茶々を入れる携帯は何故か黙ったままで、テレビは賑やかなバラエティーを映しているというのに、楽しげな音とは逆に少し不安になってくる。
 振り返ろうとした瞬間、それよりも先に携帯がやっと口を開いて言った。
 残念でしたねィ、と。

 「何が?」
 「俺が生意気なまま戻ってきて」
 「それがどう残念になるんだよ」
 「アンタ言ったじゃねェですかィ。根性をリセットしたいって」

 覚えていたのか。
 特に深い意味があって言ったわけではなかったが、携帯にとっては胸に背負い込む言葉だったのだと、俺は気付いた。
 精密機械だと言う割りには雑で、でも変なところが繊細で。

「嘘だよ」

 ベッドに上半身だけ伸し上がり、シーツに顔を埋めたまま一向にこっちを見ない携帯の頭をぽんぽんと叩く。
 そろりと顔が横を向く。
 いつだって見ていた。ふと見ればじっとこっちを見つめている真っ直ぐの目がなんだかかわいかった。
 そんな空色の目を久しぶりに拝めて、それが嬉しかったのか俺の口元が命令なしに勝手に緩む。

「おかえり」

 告げるとそろそろと顔をまたシーツに埋めて、テレビの音に紛れそうなちっちゃな声で携帯が言う。
 ただいま。