戦火の中だった。
港では戦闘を終えた軍艦がよたよたと湾内に入ったところで力尽き、空には1日に何十・何百という飛空艇が轟音と共に飛び交う。
総悟はふと空を見上げた。
視線の先の高いところで彼曰く「人殺しの兵器」を乗せた飛空艇が太陽を覆い隠して飛んでいる。空高く飛んでいるはずなのに、あまりにも巨大で頭のすぐ上を飛んでいるようにも思えて、我が物顔に支配された空はどこか窮屈そうで総悟は目が離せない。
だからずっと目で追っていると、それが首が傾けられない後方へと飛んでいくものだから総悟の重心がずるりとずれた。後ろに倒れそうになって手をバタつかせる。
「わわわ」
「何やってんだお前」
けれど倒れる寸前、片手で背中を支えられて反対の手で手首をぐいっと引っ張られて危機一髪、地面との衝突は免れる。
総悟が呆然としていると助けた男が呆れたような、それでいてどこか可笑しそうな顔をして総悟を覗きこんだ。口元をゆるりと緩めたと思えば、声には出さずばーかと言うからムッとする。
男は引っ張り上げるようにして総悟を立たせると、少し盛り上がった丘の上を降りはじめた。背中を支えていた手は離れていたが、もう片方の、手首を掴んだ手はそのままで自然と総悟も足を一歩踏み出すことになる。
男は総悟を引っ張るように丘をとんとんっとテンポ良く降りいく。されるがまま着いて行って、何もない草原のなかをふたりで歩いた。
そこは一面に短い草が生い茂り、その上を色とりどりの花が色を咲かせていた。
その光景は前を歩く男に到底似合うものではなかったが、この場所を見せたかったのだと言いポツンとある水車小屋を指差してアレは隠れ家だと言って笑う横顔を見て、ここが彼にとって大切な場所なのだと感じ取り総悟は何も言わなかった。ただ一言、メルヘンですねとおちょくったら頭を叩かれたけれど。
引っ張られていた手はいつの間にか繋ぐようになっていて、総悟は繋いだ手をぼんやりと見る。
じんわりと伝わる温かさは確かに人の温もりと同じで、けれどこの男は人から怖れられる魔法使いだった。力は魔法使いの中でも天才的であり魔王になれる力もあると噂されるほど絶対的なもの。
その力を駆使して男は度々戦火の中に赴くが、あまり物事に執着しない彼がどんな気持ちで戦っているのか総悟にはよく分からない。
「総悟」
名前を呼ばれて顔を上げる。いつの間にか魔法使いは総悟より何歩も先を行っていて、繋がれていた手は知らぬ間に離れていた。
美女の心臓を食うと噂されるだけあって、認めたくないが男は美形だ。魔法使いだと言うからてっきり偏屈な爺かと思っていたが実際はスラリとした長身の青年だった。夜を映したような髪と目に囚われる奴も少なくはなく、実を言うと総悟も何度か見惚れていたりする。そんな奴が目を細めていとおしそうにひとつの名前を呼ぶ。
総悟。
「おいで」
真っすぐと伸ばされた手に、総悟の体が反応する。
嗚呼、彼は魔法使いだ。だからきっと、この呼び声にも魔法がかかっているに違いない。そうでなければ真っ直ぐと伸ばされた手を求めて俺が歩み寄るはずがない。
誰となく弁明を吐いて、一歩二歩と歩いて近寄りサラサラと流れる小川をピョンっと飛び越えた。
そこで反対側に居た男に腕をグイッと引かれてバランスを崩し、総悟は魔法使いの腕の中に倒れ込む。ギュッと腕を回された。逃げられない。何をするんだと見上げればククッとおかしそうに笑うキミの姿。
文句を言おうと口を開いた瞬間、轟音と共に先ほどよりも低い位置で飛空艇が飛んでいった。
総悟がぼんやりとそれを見ていると、魔法使いが吐き捨てるような声で言った。先ほどの優しげな空気とは打って変わって冷ややかな嘲笑はひどく総悟の耳に響く。
「大きな荷物を背負って必死に飛んでやがる。見ろよ、あんなに爆弾をくっつけて」
「何処に行くんですかねィ」
「さあな。けど人を殺しに行くのに変わりはねえよ」
魔法使いがすっと飛空艇に向かって片手を上げると、ギュッと捻り潰すように拳を握る。
途端飛んでいた飛空艇が煙と警告音をけたたましく鳴らしながら徐々に高度を下げて落ちていった。
驚いた総悟が顔を上げる。何をしたのかは全く分からなかったけれど、魔法使いが引き金を引いたのは明らかだった。
「今、」
顔を上げても問う間も与えず、男は総悟をギュッと胸の内に抱え込んだ。顔が見えなくなる。男は嘲笑を浮かべて
「俺もアイツらも人殺しさ」
耳元で囁いた声がどうしようもなく寂しげで、それ以上総悟は何も聞けなくなる。
爆撃は地面と空気を激しく引き裂く。窓の外は夜だというのに昼より明るく、街は炎に包まれた。
総悟が慌てて外に出ると、火の手はもうすぐそこまで迫っていた。しかし迫っているのはそれだけではない。パチパチと爆ぜる火の子に照らされ泥の底のような異形をした敵が、のっぺりのっぺりと近寄ってくる。
一歩近付かれる。総悟には術がない。一歩下がる。悔しさに唇を噛む。
なんの力も持たない己が情けなかった。アイツは戦いに身を投じたというのに、俺は何も出来ない。家を守ることも、自分の身を守ることさえも、ましてや。
「……………」
花畑で見た魔法使いの寂しげな声を思い出す。
ましてや、アイツを守ることなんて到底。
伸ばされた手が総悟の腕を掴むその瞬間、炎の渦が地面から巻き起こった。叫び声を上げて異形の敵が消え去る。光を浴びた影のように跡形もなく消えて、代わりに渦の中心に男が立っていた。漆黒の羽はボロボロで俯いた顔はどんな表情なのかも分からない。
「土方さん!」
名前を読んで駆け寄ると魔法使いがよろりと倒れてきて総悟は慌てて背中に腕を回して支えた。肩口に額をくっ付けた魔法使いがははっと気弱に笑う。
「悪い。今夜は相手が多すぎた」
凭れるような重みを支えるのに必死で、ごおごおと炎も勢いを増している、早くこの人を連れて逃げるべきなのは分かっているのに彼の片手が人間の手から鳥の翼になっていて魔法を使い過ぎているが分かってでもどうしようもなくて、総悟はただ腰に回された片方の腕の強さしか感じることが出来ない。
不吉な予感がした。とてつもなく大きくてぞっとするほど怖い嫌な予感が冷たく這い上がる。
「総悟」
同じ名前を、いつもより優しい声色で呼ばれた。
翼になった手は折れているのだろうか、ぴくりとも動かなくて代わりに回った腕にぐいっと引き寄せられる。顔が見えなくて総悟はどうしようもなく不安になる。
「次の空襲が来る。お前は中に居ろ。平気さ、外は俺が守る」
「何が守るでィ」
ボロボロな体で片腕だってもう使い物にならないのに。
遣る瀬無さに悔しさが募る。総悟は何も出来ない。唇を噛み締めると血の味がした。背中に回した両手でどこにも行かないように服をぎゅっと握る。
「アンタだってもうボロボロじゃないですか。戦えやしねェ。逃げるが勝ちって言葉もありやす。だから、」
「総悟」
声を聞いた時から総悟は分かっていた。このまま飛び立つのを許してしまえば、男はもう二度と戻って来ない。炎の空に飛び立ったままこの腕に抱かれることももうないのだと。
声を重ねる。必死に縋りつくことしか出来ない自分の存在があまりにもちっぽけだった。崩れそうになりながら戦っている男に対して、守ってもらうばかりで何も出来やしないのに逃げようと促す自分はなんて卑怯なのだろう。
(そんな声で俺を呼ぶんじゃねェよ)
こんな場合なのに、名前を呼ぶ男の声色はひどく柔らかかった。あの花畑の時ように優しく、そんな、何かを予感させるような声で名前を呼んで。
「何故逃げる必要があるんだ? 俺はもう十分逃げたさ」
(この人は居なくなる)
可笑しそうに笑う魔法使いに対して、総悟の目から音もなくすっと一筋の涙が流れた。それを唇で掬い取り柔らかい髪を撫で、まっすぐと空色の瞳と視線を合わせて目を細める。
「逃げやしねえよ。ようやく守らなきゃなんねぇもんができたんだ」
いつか名前を呼んだ時のようにいとおしさを乗せて言う。
「お前だ、総悟」
そういってキスをした。
そっと瞼を持ち上げると、テレビが明々とついていた。アニメがやっている。ああそういえば冬休みスペシャルとかいって特番がやっていたんだっけ。机に頬を付けたまま寝起きの総悟はぼんやりとする。
テレビで放送されていたのは、呪いで老婆になった少女と魔法使いの少年が登場する有名なアニメ映画だ。ついさっき見ていた夢と妙に似通っていて、ああだからあんな夢を見たのかと総悟は納得した。額を机にひっ付けてうう゛と唸る。
「なんだ、起きたのか」
降って来た声に総悟は顔を上げた。
ここで炬燵に潜り込んでひとりでテレビを見ていたはずだ、それなのに聞く筈のない声が降ってきて総悟は眉を寄せる。
夢の中では飽き足らず現実でも具現化した男は、総悟の反対側で炬燵に入りテレビを見ていた。何時からそうしていたのかは分からないが、みかんを食べながらすっかり居ついている。
総悟は土方を眺めて、もう既に消えかかっている夢の端を掴み魔法使いを思い出していた。
日常的から、それも昔から見ているだけあって魔法使いの造形はやっぱり目の前の男と寸分狂わず、やっぱりあの魔法使いは土方だったのかと思い知る。ああそういえば土方さんって名前を呼んだかも。総悟は欠伸を欠いた。
『逃げやしねえよ。ようやく守らなきゃなんねぇもんができたんだ』
魔法使いの笑みと一緒にそんな台詞も思い出して、総悟はまた机に額をひっ付けた。
声と共に何も出来なかった無力な己を思い出す。ごそりと片手を動かして傍に置いてある愛刀をそっと撫でた。感触を確かめる。無力? 誰に言ってんだと鼻で笑って顔を上げた。
端正な顔に向かって言葉を投げる。
「土方さん」
「あ?」
「キモい」
「な・ん・で、寝起きの第一声がキモいなんだよッ!!」
土方が青筋を立てて机をバンッと叩く。
いや改めて思い出すとあの夢のアンタは気持ち悪かった。もう鳥肌が立つぐらい気持ち悪かった。
総悟はどれぐらい気持ち悪かったかを身振り手振り説明しようと思ったが、それをすると夢の話を一から十までしなくてはいけないことに気付き、そんな夢を見たのだと言うことは墓穴を掘るようだからやめておく。
代わりに炬燵に体を埋めたままキモいキモいと連呼していると無遠慮に頭を引っ叩かれた。横暴だと総悟は頭を擦りながら恨めしい目を向けて唇を尖らせる。
「慰謝料」
「は?」
「それくだせェ」
総悟の指が真っすぐとみかんを指差した。
自分で剥けと呆れたように言う土方を無視して口をあーと開けると、諦めたような息を吐いて剥いたみかんが一粒総悟の口に投げ込まれる。
(俺だったらみかんを1個丸ごと口の中に突っ込む)
この人俺に甘いよなーなんて改めて実感しながら総悟はみかんを咀嚼した。
「土方さん、このみかん甘くねェ」
「文句を言わずに食べろ」
またあーと口を開ければ、小言を言いながらもやっぱりみかんを放り投げられる。長い指がなんか好きだ。
炬燵でぬくぬくしながら一緒にテレビを見て時たまみかんを貰って、総悟はだらだらと時間を過ごした。大所帯であるが不思議と誰もここを訪れる者は居なかった。
映画は佳境に入っていて、夢にも見た、街が炎に包まれるシーンになる。
みかんを食べながら、総悟は何気なくまた夢のことを思い出していた。そうしてふと問うてみる。
「土方さん」
「ん?」
「1つだけ願いが叶うなら何を願います?」
「なんだよ、急に」
「ただの興味本位でさァ」
「…そうだな…」
根が真面目な土方は適当に答えればいいところまで真面目だった。畳に両手を着くと天井を見上げて何やら真剣に考えている。
暫くして土方がぼそりと呟いた。
「マヨネーズ王国でも作るか」
「…土方さん。どうせならみんなが幸せになる夢にしなせェ。それは人類滅亡計画でさァ」
「ああ?! どこがだよ!」
素敵な夢じゃねぇか!と瞳孔を開けて睨むアンタはなんなんだ。本気だから笑えない。
はァと総悟は机に突っ伏した。
「しょうもねェ願いでさァ」
「ンだよ。じゃあお前は何を願うんだ? どうせ副長になりたいとかっていう願いだろ。それこそ人類滅亡じゃねーか。っつーか願わなきゃ叶えられねーなんて情けない、」
総悟は素早く刀を鞘から抜くと、テーブルの上に乗り上がり土方に向かって問答無用に刀を振り下ろした。ひゅっと風が斬れる。
息を呑んだ土方が慌てて刃を両手で受け止めた。簡単に殺れるとは思っていないから容赦もしない。総悟は構わず更に力を込める。
「どうしよう! 土方さんが死んじゃったらどうしよう! わーん」
「棒読みぃぃぃいい!!! どうしようじゃねえよ! お前がやってんだよ! お前が俺を殺そうとしてんだよ!! 刀仕舞えぇぇえ!!!」
押す、押し返すの押し問答を繰り返していると土方が舌打ちをして炬燵の脚をガンッと蹴った。
炬燵に乗り上げていた総悟はバランスを崩して、あっと声を上げるや否や前のめりに倒れる。が、運よく、いや悪く土方に向かって倒れたために簡単に受け止められてしまう。バランスを崩した間に刀は没収されてまるで何もかもが土方の思い通りになったみたいで総悟は面白くない。
土方がふと息をつく。
「危ねえな」
「お互い様じゃねェですかィ」
体を起こして上目遣いに睨めば、どう考えてもお前のほうが危ねえよとデコピンされた。総悟はますます面白くない。体を離して拗ねた口調で言う。
「土方さんが現実的な願いを言わねェからいけないんでィ」
「現実的ね」
立て膝に頬杖をついて、土方はじっと総悟を見つめた。
暗くて深い夜色の目に一心に見られると妙に落ち着かなくなる。
蛇に睨まれた蛙のようにピタリと動かなくなった総悟とそんな総悟をじっと見る土方。映画では主人公たちが抱き合ってエンディングを迎えている。
じゃあ、と口角を上げ土方が口を開いた。
「じゃあどっかの可愛くねークソガキが1日だけ素直になってくれるように頼むわ」
「……なんでィ、それ」
「どっかの誰かがなかなか素直になってくンねーからな」
クソガキが誰かなんてこの際愚問だ。総悟は首を傾げる。
「1日でいいんですかィ?」
「ずっと素直になられても気持ち悪いからな。それに」
土方はそこで不敵に笑って、総悟の後頭部に手を伸ばすとそのままぐいっと引き寄せた。
至近距離で土方の声が直接総悟の中に響く。
「1日ありゃ十分だろ」
魔法なんてきっかけで十分。俺以外を見られねーようにしてやるさ。
自信過剰だとか、何言っているんだとか、頭は大丈夫ですかィとか、いろいろ言いたいことはあったが、いろんな気持ちがぐるぐると渦を巻いてどれも上手く言えなかった。
思考と感情が直結しない。気付けば笑みを浮かべ妙にほだされた気持ちになっていた。
総悟は両手を伸ばすと土方の頭を抱え、額をコツンと合わせる。
目の前にある黒い瞳は夢の中の目と違って生き生きとしていた。暗く冷ややかな色だが、奥底には決して潰えない燃え盛る熱情があるのを知っている。昔から見ていた総悟が知るそれ。
ああ、俺は変な魔法にかかっているのかもしれない。この男が妙にいとおしく思えるなんて。
「じゃあアンタの願いを叶えてやれるのは俺次第ってことだ」
笑って首を傾げると愉快そうに土方が目を細めた。
キスを交わす直前に吐かれた言葉を聞いて、気を良くした総悟は瞳を閉じる。この男の願いを叶えてやれるたったひとりの魔法使い。ああその優越感たまらないかも。
「お前には昔っから惑わされてばっかりだ」
それは俺の台詞だって言ったら、ねえどうする?