君と俺と
世の中、空気を読める読めないかが重要だと言うが、読めたところでその空気をどうにもできなければ結果は同じである。
遣る瀬無さにひとつため息を落とし、再度先を行く背に向かって声を掛けた。
「おい、総悟」
「………」
「おいって」
「………」
無視である。世の中早々上手くいくものではない。
(って言っても、俺が何をしたってことはないんだけどな)
頭上に広々と広がる青空が、この時ばかりは恨めしい。
つい一時間ほど前はそれこそ仲良く放課後に遊ぶ算段をしていたはずなのに、たった数十分でこの違いだ。総悟の機嫌が最悪なのは背中からも態度からもバシバシと伝わってくる刺が何よりも物語っている。どうにかこの重苦しい空気を打破しようと俺は頭をフル回転させてなんとか振り向かせることばかりを見つけようとしているのだけれど、それも先ほどから徒労に終わっている。何を言っても言い訳に聞こえてくるのは、俺に後ろめたい気持ちがあるからだろうか。
(いやないないない、それはない)
身の潔白を証明するためにも、再び声を上げた。「おい総悟」
しかしやっぱり亜麻色の頭はこっちを向かない。いい加減我慢の限界だった俺は、全く取り合わない総悟の態度にぶち切れた。
おい、と乱暴に呼び、先を歩く総悟の先頭に立つ。
下から睨みあげてくる瞳に一瞬ドキッとしたが、その内を知られないように俺は不機嫌に眉を寄せた。俺だって全く取り合わないお前に苛立ってんだ。
「何をそんなに苛立ってんだよ」
「俺ァ苛立ってなんかいやせんぜ」
「怒ってんじゃねーか」
「怒ってやせん」
ダメだ。一向に話が進まない。
機嫌が悪い原因を知っているだけに、しかも意図していないとしても俺が関わっているだけに、頭ごなしに怒るなとあまり強くは言えなかった。
要するに、総悟は嫉妬しているのだ。
ついさっき同学年だという名前も知らない女ふたりに声を掛けられた。「ねえよかったら一緒に遊ばない? ほら、男ふたり女ふたりでちょうどいいし、なんだかダブルデートとみたいでしょ」無駄に甘えた声色でそう誘われたのが始まりだ。
全く冗談じゃない、ダブルデートどころかお前たちが居なくてもこっちはこれでカップル成立なんだ、邪魔するなと言ってやりたかったが、何せ人が往生する街中でそう言うのも憚れる。
迷惑だという顔は変えず、「結構だ」とだけ言って俺はそこから去ろうとした。けれど逃がさないとでもいうかのように片腕にするりと抱きついてきた。ギョッとして女を見れば、グロスを塗った唇でにこっと笑った。離そうと腕を振り払う前に、私、宮部先生の生徒だったんだーと懐かしい名前を持ち出されて呆けっとしてしまう。
宮部先生というのは中学校の時の先生で、俺もよく懐いていただけにその話に興味を持ってしまった。腕を振り払うことを忘れて「へぇ」と声を出してしまう。
女と言うのはどうしてああも話の持って行き方が上手いのだろう。今なら分かる、昔話に花を咲かせて総悟を置き去りにした俺が馬鹿だったのだ。
女の話と言うか女の口から出される宮部先生の話に夢中になっていた俺は、背中に突き刺さる冷たい視線を感じてハッとした。
ギギギと振りかえれば、「死ね」と言わんばかりの目で総悟がこっちを見ていた。そしてふっと顔を背けるとすたすたと行ってしまう。
「土方さん、俺ァ先に行きやすぜ。ダブルデートでも両手に花でもなんなら宮部先生とのデートでも勝手にやりなせェ」
「おい! ちょっと待ってって!」
巻きついている腕を振り払って慌てて後を追って、こうして険悪な雰囲気の中に今に至るわけだが。
(今日は厄日だ)
弁解するどころか、喋れば殺すと言いそうな空気に、俺は声を掛けることしか許して貰えない。端的に言ってしまえば、運が悪かった。
総悟だっていつもはこうやってあからさまに拗ねたりはしない。何でもない顔をして、茶化すか、「傷ついたんで慰謝料くだせェ」などとアイスや肉まんをちゃっかり奢らせられたりするのだが常だ。俺には関係ないと言うような態度に、逆に俺のほうが物足りなさを感じてしまうほどだった。が、今日は朝からあまり総悟の機嫌が良くなかったのだ。
やきもちを妬いてくれるのは嬉しいが、こうも取りつく島がもなければ安易に喜ぶ事も出来ない。しかも俺にも原因があっただけに、強くも言えない。
「素直に嫌だって言えばまだ可愛いのに」
だからつい、ぽろりとそんな言葉が零れてしまった。あっと思った時は既に遅く、半眼で総悟がこっちを睨んでいる。やばい、ミスった。非常にヤバイ。
口元を手で隠してそっぽを向くが、青の瞳が俺から外れることはなかった。
くるりとっこっちを向いて、釣り上がった目で俺を見上げる。
「じゃあアンタは言えるんですかィ? 嫌だって、俺が他の奴と話していたら「お前は俺のモンだー」なんてことが言えるんですかィ」
妙に突っかかった言い方で、それが珍しくて俺はきょとんと眼を瞬いた。
総悟は気に喰わなそうに顔を歪めてドンっと俺の胸を叩いた。
「へたれて言えねェくせに余計なことを言うんじゃねェよ」
吐き捨てられた言葉にカチンときて咄嗟に総悟の腕を取った。訝しむように見られる。しかし今のは聞き逃せない。
「馬鹿言ってんじゃねーよ! 言えるに決まってんだろ!」
「じゃあ言ってみてくだせえよ」
「うっ」
所詮俺の意気地なんてそんなものだ。
言葉に詰まった俺を見て、総悟がやっぱりと言う顔をする。土手の上で何をやってんだと思いつつも、ここで逃げては負けだと人知れずぎゅっと拳を握った。
「い、言えるぜ」
「じゃあ言ってくだせェよ」
嫌だ。離れるな。笑うな。こっちを見ろ、楽しそうな顔をしてんじゃねえよ。
頭の中では言葉が次から次へと沸いてくるくせに、全て渦に巻かれたように言葉にならず飲まれていく。
けれどここで言えなければ大切な何かを失ってしまう気がした。俺のプライドだって許しはしない。
掴んだ腕を引き寄せて抱きしめた。人目も憚らずギュッと腕の中に閉じ込める。さすがにそんなことをするとは思っていなかった総悟の体がびくんと跳ねたのが分かった。
強く抱きしめたまま、頭に頬を寄せて耳元で言う。
「お前は俺のモンで、俺だってお前のモンだよ」
ドンッと胸を押されて離される。腕の中から逃げた総悟は俯いて、俺が囁いた右耳を手で押さえている。
「そ、総悟?」
思ってもいなかった行動に呆然と呟いて窺うと、髪にも手にも隠されていない反対側の耳が真っ赤になっていた。思わず俺も自分で言った言葉を思い出して一気に顔が赤くなる。
だからそうやってやきもち妬いたりツンとしたり照れたりするのは反則だって言ってんだよッ?!
大空に向かって叫びたい衝動に駆られて、口元を手で押さえて唇を噛み締めた。視線を外す。とてもじゃないが赤くなった総悟を見ているとこっちまで熱くなってたまったものじゃない。
いまどき女でもこんな初々しい反応はしないぞと呆れる様を装ってその実そんな反応が嬉しくもあるなんてことは秘密だ。
こんな俺たちだ、世間一般に言われる恋人と言う定義には大人しく収まっていない。時には本当に付き合っているのだろうかと言う不安に思うこともある。
けれどこれでも、俺たちは一歩一歩ゆっくりと進んでいるのかもしれない。
赤くなった顔どうしで見つめ合って、俺はそんなこそばゆいことを考えていた。