※暗いです
土方十四郎は身勝手な男だ。
道場からふらりと居なくなる度、朝方眠たそうに欠伸を掻く度、そんな彼の横を通り過ぎる度、沖田はそう思う。 殺してやろうかと物騒なことを思う。
例えばだ。奥の部屋に飾ってある真剣を手にとって真っすぐと突けば、それだけで簡単に土方をこの世界から追い出すことが出来るんじゃないだろうか。想像する。案外簡単そうに思えた。
けれどそれは自分が望んでいることではなかったから、実行はしなかった。
(まただ)
行方不明になった次の日の朝にだけする特有のにおいが、沖田は嫌いだ。ふわりと香る白粉のにおい。どこか気怠る気な動き。
どこに行って何をしていたのかが分からない程、もう子どもではない。否、分かるから尚更腹立たしい。最低な野郎だと毒づけば、土方を憎む火種がまた1つ増えて、積り、身を焦がす。
「おい土方。お前、姉上の気持ち知ってるだろ」
名前を呼ばれて「あ?」と振り返った土方は、途端聞かなきゃよかったとでも言うようにばつが悪そうな顔をする。黙り込んだと思えば、すぐに顔を背けた。「さあな」とだけ残して去っていく。
ギリッと奥歯を噛み締めてくそったれと呟く。その背中にこんこんと募るのは憎悪でしかない。
去っていく背中をいくら睨んでも、土方は決して振り返らなかった。ポツンとひとり残された自分が、何故かひどく惨めな気がして、悔しくて、余計に腹が立つ。
そんな日はかぎって夢を見た。
分厚い雲の中に居るように真っ白な空間が広がっていて、沖田はそこにひとりで佇んでいる。
夢は色も景色も自由に創造することが出来るのに、それすらも面倒くさがって放棄したとしか思えない程何もない。実際に体を動かすわけでもないのに酷い怠けようだ。自分らしいやと笑えば、「何が可笑しいんだ?」と柔らかく声を掛けられて振り返る。
その声も誰が居るのかも沖田には分かっていた。いや、そもそもここにはふたりしかいない。
振り返った先で案の定あった存在に、やっぱりだと総悟が笑いながら答える。
「アンタが居ることが」
もうひとりの登場人物である夢の住人、土方は、普段は絶対に見せない優しい笑みを浮かべた。腕がゆっくりと持ち上がったと思えば、くしゃくしゃっと頭を撫でられる。包み込むように撫でる姉とも豪快に撫でる近藤とも違う、不器用で不慣れな手つきが土方らしい。嬉しくなる。はにかめば、見上げた笑みが一層柔らかくなる。
土方の足にしがみついた。
「俺、明日試合に出るんだ!」
土方の両手が総悟の背中を支えるように添えられる。
甘える総悟を受け入れて、土方が桜を眺めるように目尻を柔らかく下げて頷いた。
「そっか。じゃあ試合見に行ってやるよ」
「ほんと? アンタのことだから寝過ごすんじゃねーの?」
「馬鹿。お前が出る大事な試合だからちゃんと見てるさ」
言葉が胸に染み渡る度、自然に口元がつり上がって仕方がない。
真っ白な世界の中で髪も目も服も黒い土方の存在は特質で、まるで白い世界にぽとりと落ちた墨のようだった。たったひとつの汚れからじわじわと染み渡る。
それでもいい。黒い世界になってもいい。
思わずそう叫びたくなるほど、土方の存在は総悟を心の底から安心させる。
離したくないんだ。
土方の言葉が嬉しくて尚更ギュッと抱きつけば、土方の大きな手が壊れ物を扱うように総悟の髪を優しく梳いてくれる。
大好き!
「絶対だからな」
「ああ」
小指を突き出せば、指を絡めて指きりげんまん。頷いてふわりと笑う土方の笑顔が好きで好きで、白い世界にまたじんわりと黒い染みが広がる。浸食していく。それは総悟の中の土方の割合を占めているようで、ゆっくりと確実に広がっていった。
目覚れば優しい夢は名残をどこにも残さないで消えている。
白い世界は形在る世界になって、耳に届くのは夢には居ない人の声、抱きしめてくれていた男の姿など勿論在る筈もない。
土方があんなに優しいわけがない。
夢だと分かっているのに、戻ってきた時の、この心細さは何を意味するのか。
朝方の空気は冷たくて体にも心にも突き刺さる。総悟は背中を丸めて布団の中に潜った。目を閉じる。夢が訪れる様子はない。言葉が出る。
「寒い」
他の道場と合同で催された試合で、総悟はすんなりと勝利を納めた。気迫は相手の方が強かったが、技術は総悟の方が上だった。
近藤もミツバもすごいすごいと手放しで誉めてくれたのに、総悟は心から喜べなかった。嬉しい気持ちの傍にこっそりと寂しい気持ちがあって、胸の内に隙間風が吹いているようだ。どこかがひどく冷えている。
近藤は特に喜んでいた。「すごいぞー! 総悟!」と誰よりもはしゃぎ喜び、ひょいっと総悟を持ち上げて肩車をする。揺られながら気になって総悟はチラッと辺りを窺ってみたが、やはり土方の姿はどこにもなかった。
土方は食客の縁側に居た。朝も姿を見なかったのに試合が終わった夕方には居て、片腕を立てて縁側にどかっと寝そべっている。
多分土方にとっては、今日も昨日も変化のない退屈な日々なんだろう。でも少なくとも総悟は違った。
こっちの気配に気付いているのに見向きもしないそんな体たらくな人間を見ていると、不満がポロリと口の端から零れる。
「なんで試合に来なかったんだよ」
言葉が静かに落ちた。責めているようにも悲しんでいるようにも聞こえた。言ってから、「ハッ」と息を吸い込んだ総悟が、ギュッと悔しそう唇を噛み締める。「言うつもりはなかった」と言いたげだ。けれど一度言った言葉はもう元には戻せない。
何も言わず土方が上体を起こした。
「拗ねてるのか?」
「誰がっ」
「お前、俺に来てほしかったのかよ」
土方がくくっと咽を鳴らして笑う。「何を言ったって餓鬼だな」笑いを含んだ声にカッと血が沸き立った。と同時に目尻を下げて笑う夢の中の土方にざざっとノイズが走る。瞼の裏に夢の残像が浮かび上がる。小さな小指と大きな小指が絡んで上下に振る映像が、瞬きをする間に鮮やかに広がった。次いで柔らかく笑う土方の笑みを思い出して悔しくなる。
「来てくれるって言ったのに」出かかった言葉は寸前のところで飲み込んだ。
「俺じゃない。近藤さんが言っていたんだ」
姉上だって、と言いかけて止める。
「今日の主役は俺じゃない。俺が居ても居なくても問題ねぇはずだ。とやかく言われる筋合いはない」
「はっ。分かった、俺の試合を見るのが怖かったんだろ。レベルが違うって認めるのが怖かったんだ」
「残念だが、興味がない」
土方が嘲笑を浮かべた。
拘っている総悟を馬鹿にしたような笑みにも見えた。
お前には興味がない。
片膝を立てた状態のまま振り向いて、佇んだ総悟を見上げてにやりと口角を上げた。目を細めて笑う。
「気にするなんてやっぱ子どもだ」
その瞬間、総悟の中にあった夢の世界が、パリンと音を立てて割れた。硝子をハンマーで叩いたみたいにバラバラに砕けて、寄り添うようにあった土方の笑顔や絡めた小指、撫でられた感触、全部にヒビが入って崩れた。そよ風に乗って跡形もなく消えていく。
夢は夢でしかないと突き付けられた瞬間だった。どれほど願ったって手に入らないと突き付けられて、言葉が出ない。
目の前には現実の土方だけが残った。決して自分を気に掛けず振り向かず、絶対に手に入らない存在。
だから夢でしか望まなかったのに、それさえも目の前の男によって壊されてしまった。「望むだけ無駄だ」と遠まわしに言われた気がして、悔しいのか悲しいのかもう訳が分からなかった。
「…嘘つき」
「は?」
「絶対って言ったのに!!」
「なんのことだ」と目を瞬く土方の横を飛び出し、総悟は裸足で庭に降りてそのまま走った。
あんな土方は知らない。口を開けば吸う息よりも吐く息のほうが多くて苦しくなる。涙が出てきて止まらない。乱暴に腕で目を擦って、縺れそうな足を必死に動かした。砂や小石を勢いよく踏んづけて、無防備な足が引き裂くような悲鳴を上げる。それでも止まらない。逃げ出すように走った。「総悟」と呼んで優しく抱き止めてくれるあの大きな腕を探したが、ここ(現実)にそんなものはなかった。
「あっ!」と途中で声を上げた時には遅かった。足が縺れて総悟は派手に転んだ。
膝小僧の皮が剥けて血が滲む。もう無理だよと足が震えた。じんじんと裸足の足が痛みを訴える。最早立ち上がる気力もなくなって、その場でうずくまった。
「ふえっ…」
ぽろぽろぽろぽろと大粒の涙が流れた。乾いた地面に次々と落ちる。
あんな風に柔らかく笑う土方が居ないことなんて、分かっていたはずだ。所詮は妄想だ。そうだったらいいな、と貪欲な自分が生んだ歪んだ幻想。最初から分かっていたはずだ。それなのになんでこんなに悲しくて悔しいんだろう。嗚咽を止める術を総悟は知らない。
優しくしてほしかった。それだけだ。
姉上の気持ちを知ってるだろと言いながら、本当は自分の気持ちを知ってほしかった。
あんな風に笑えなんて言わない。それでも気にかけてほしかった。夢を見ながら土方の中に自分の居場所があるんだと思いたかった。
「興味がない」土方の言葉はそんな願いで創り上げた世界を壊すには十分な力を持っていた。
苦々しさに心の中で自分が嘆いている。
(もうあんな夢は見たくない)
叶うことのない夢物語と知りながらも、つい期待してしまうような、あんな残酷な夢はもう二度と見たくないと叫んでいる。
泣き腫らして赤くなった鼻を啜りながら空を見上げれると、太陽が山裾に消えていくところだった。真っ赤に燃えた夕日がじりじりと緑の裾を焦がしている。直に暗闇に覆われる。夜がくる。
どんなに望まなくたって、夢は見る。
土方のことを考えた日の夜は、必ず夢を見た。壊されても白い世界は総悟の中で何度も蘇った。
少し先で土方が立っている。いつもと同じように、優しい顔をしていた。いつもであれば総悟はそんな土方に一直線に向かって行っただろう。けれど塞ぎ込んだ総悟は、もうその優しい腕を望んでいなかった。まやかしだよ。誰かが囁く。悪夢だ! 指を差してもうひとりの自分が叫んでいる。
例えばだ。奥の部屋に飾ってある真剣を手にとって真っすぐと突けば、それだけで簡単に土方をこの世界から追い出すことが出来るんじゃないか。ふと見れば地面に真剣が突き刺さっていて、総悟はそれを手に取る。
その日、総悟は、夢の中で土方をころした。
真っ白い世界に、自分と、土方の黒以外の新しい赤色が世界を染め上げる。
土方はやっぱり笑っていた。「総悟がそう思うならそれでもいいよ」とでも言っているかのようだった。夢の中の土方はどんなことがあっても、絶対的に総悟を裏切らなかった。幻だと分かっても、それが嬉しくある。
最愛の者を葬った惨劇に、悪夢だ! と声を上げて泣き塞ぐ自分と、これでいいと安堵する自分が居て、総悟はじっと土方を見つめる。
白い世界に倒れた土方は動かなくなって、もう何も言ってくれなかった。それでもやっぱり土方にいとおしさをかんじて、「土方さん」と弱弱しく名を呼ぶ。土方の腕を取り、小指を絡める。
どれだけ現実の土方に疎ましく思われても、これからも土方の夢を見るだろう。総悟は土方を見ながら思った。それほどどうしようもなく土方が好きだった。心の底ではきっと望んでしまう。漠然と思って、俺は馬鹿だ、夢でも土方に会えることに喜びを感じてしまう。
「また来ます」
絡めた指を上下に振って約束を千切る。土方の声は返らない。
けれど「絶対だ」と聞こえた気がして、総悟は笑みを浮かべて頷いた。