ふと、懐かしい唄を聞いた。
囀るような曲調の、愛しい子どもを謳った唄だ。武州訛りが入ったそれは確かにあの土地で謳われていたもので、土方にも聞き覚えがある。
脳裏に懐かしい武州の田舎姿が思い描かれた。
空も高い武州は日差しの当たりもいい。高い建物もなく空が広いのだ。春の昼時はまさに昼寝にもってこいで、長い髪を束ねた土方は欠伸を噛み締めながら道場の渡り廊下を渡っている。踏む度にぎしぎしと軋む床板さえも単調な音で、更に瞼が重たくなってくる。ああ稽古なんて放棄してこのままサボってしまおうか、そんな風にぼんやりとしていた土方の耳にその唄は流れ込んできた。優しい音色に誘われるように廊下の角を曲がると、縁側に座ったミツバが唄を口ずさんでいる。その膝に頭を乗せた総悟は春の陽気とミツバの唄に包まれて気持ちよさそうに眠っていた。いとおしそうに弟の髪を撫でるミツバを見ているとミツバが土方に気付いて振り向いた。唄を止めて口元にそっと人差し指を当てる、何を謡っていたのかと土方が問えば、ミツバは、
そこで目が覚めた。
「…………?」
重たい瞼を持ち上げると古びた天井が映っていて、土方はここが近藤の道場なのかと思い込んでしまう。食客の部屋でつい転寝をしてしまったのかと。
けれど夢うつつの視界に空色の目をした少年がずいっと入り込んできて土方は目を瞬かせた。その顔は姉の膝上でぐっすりと寝ていた子どもではもうない。
「土方さん? 起きたんですかィ?」
「あ…? 総、悟……? あー…寝ちまってたのか俺。今何時だ?」
「昼の二時ぐらいでさァ」
「……………」
頭の上に置いていた携帯を手に取って自分の目でも時間を再確認し、やっちまったと眉を顰めて呻った。とっくに昼休憩は終わっている。
はあと溜息をひとつ吐けば姿勢を正した沖田がうんうんと頷いた。
「鬼の副長ともあろうお方が勤務中に昼寝たァいいご身分ですね、これじゃあ他の隊士に示しがつきやせんぜ。副長失格でさァ。詫びとして俺にさっさと副長の座を譲りやがれィ」
「年がら年中仕事放棄して冬眠してやがるテメェにだけは言われたかねえよ。ってかそれしかねーのかよ、レパートリーねえな……って抜刀すんじゃねぇぇぇ! 起き抜けにその冗談はキツいから! だから構えるんじゃねぇっての!」
「嫌だなァ土方さん。俺は冗談のつもりはありませんぜ、いつでも本気でさァ。心配しなくても俺が永遠に眠らせてやりますよ」
「尚更たち悪いわ!」
愛刀を真上に構える沖田の手を反射的に掴んで一気に眠気が覚めた。覚めたどころか血の気が引いて若干寒い。土方は沖田から手を離すと机の上のソフトケースを取り目覚めの一服をとった。
沖田の、この本心からなのかただのからかいなのか判別付きにくい隙あらば土方の命を狙う行為はもう昔からで慣れっこなのだか、沖田が成長するとともに土方は自らの将来を考えると薄ら寒い。沖田は若いからまだまだ成長するだろう、しかし年の開きがある己は…と考えるのは少々悲しいものがある。お兄さんとオジサンの境目は一体どこらへんだろう、なんて。いつかコイツに本気であの世へ送られる日が来るんじゃないだろうか、なんて。そうなったとしても恨みはしないと思う自分はどんなに末期でMなんだろう。
「ありゃあ、急いで仕事に行くかと思えば一服ですか、案外のんびりしているんですね」
「今日は事務処理だけだからな。寝ちまった分は残業して片付けることにする」
「あー毎日残業三昧の仕事人間がなんか言ってらァー。土方さんを構成するモンはマヨとニコチンと仕事ってわけですか」
カロリーの過剰摂取に肺ガンときて過労死、どれも碌なもんじゃねぇなァと不穏なことばかり呟く沖田に背を向けて土方は煙草をお供に仕事に取り掛かることにした。しかし「あ、そうだ」とポンっと手を叩く総悟の声に気を取られ作業はすぐに中断することになる。律儀な土方はうんざりと振り返った。
「今度はなんだよ」
「土方さん構成要素に最重要なモン忘れてましてね。コレがないと腑抜け土方さんが出来上がっちまう」
「んだよ」
「女ですよ」
思わずぴくりと反応したのを、沖田に知られていないといい。
「土方さんは女が好きですからね」
「…適当なこと言ってんじゃねぇよ。最近は行ってねえ」
「別に隠すことでもないでしょ。たまに白粉のにおいがしやすぜ」
沖田は無表情のくせにこういう時はにたりと嫌に笑う。土方は言葉を返さず机に向かい書き物に戻った。
沖田の言う通り、気晴らしに女のもとへ向かう時もそりゃあある。自慢ではないが昔から女にはモテた。
だが、最近は女を抱いていない。行っても何をするでもなく話しを交わすだけで、会う女によっては退屈だと拗ねるか逆にこちらが追い出される始末だ。
仕事が忙しいのも確かにあった、けれどそれだけではないことを土方は知っている。そしてその原因の一端が後ろで大きな目をきょときょとさせているだろうクソ餓鬼にあることも。
(笑っちまうなぁ。俺が男に、ましてやコイツなんかを想う日がくるなんて…)
むしろ笑えないこの事実を、土方はどうするべきか悩む毎日であった。口にしてしまえば楽なのを長年の経験から解ってはいるが、この場合口にしてしまった方が取り返しの付かないことになりかねない。総悟はまだ若い、告げて縛って錯覚させて、子どもの人生をめちゃくちゃにはしたくなかった。
――そう言えれば常識のある大人になれただろうか。素直に言えば怖いのだ。言ってしまえばどっかが崩れる、今までのようにはいかない、その変化が怖いのだ。受け入れてくれるならいい、でもその逆なら。
いつからか臆病な自分がいてどうしようもなくへこたれる。相手が総悟だからかはわからない、でも多分そう。
今煙草があってよかった、なんとなくそう思った。そうでなければこの片手が何をするのかわからない。
「…方さん、土方さん」
「んだよ…」
「やれやれ、まだ寝ぼけてんですかィ。あーあー、人が折角仕事をサボってまでアンタを殺してやろうと意気込んで来たのに、これじゃあ張り合い甲斐がねえでさァ。命拾いしたな土方」
「その前にサボんじゃねぇよ。しっかり仕事しやがれクソ餓鬼」
「寝坊したアンタに言われたくはありません。それより土方さん」
ぐうの音も出ないとはこので、言葉に詰まった土方の顔を沖田が無遠慮に距離を詰めて覗き込んでくる。近さに内心焦った土方は気持ち体ごと引いた。見慣れた顔が近すぎてぶれる。しかも座った土方と膝を曲げて上から沖田が覗き込んでくるものだから、自然と視線の直線上に総悟の唇があって土方としては堪ったもんじゃないのだ。
顔を戻して沖田がいつもの無表情で言った。
「土方さん、いっそのこと今日はもう切り上げて休んだらどうです? 事務処理なら尚更いいじゃないですか、誰にも迷惑はかかりませんし」
「……。はああ?」
一瞬目の前の男が本当に総悟なのかと本気で疑った。今の労わりの言葉は誰の口から飛び出たものだ?
呆気に取られた土方を見て沖田の眉も寄る。土方は沖田の言葉を理解するのに精一杯だった。いやいやいやと内心でつっこむ。
「何言っちゃってくれてんの、お前」
「…やっぱり俺が誰かを心配するなんて性分じゃあありませんね。特にアンタに言うなんて自分で言っといて寒ィや。まあとにかく、俺がこんな柄じゃねェことを言うぐらい今のアンタの顔はヤバイんですよ。いっぺん鏡で見てみなせェ。ゾンビみたいな顔ですから。最近徹夜が続いてるんですってね、山崎が心配してましたよ。それだけです」
それじゃあ俺ァ仕事に戻るんで、と言ってあっさりと踵を返して背を向けた沖田の腕を、土方は咄嗟に掴んだ。振り解かれないが振り返りもしない。細い腕だった。亜麻色の丸い後ろ頭をじっと睨んで土方は問うた。
「ちょっと待て。お前何しに来たんだ?」
「そんなの決まってるでしょう。アンタのやつれた顔を拝みに来たんですよ」
「じゃあなんで唄なんか謡ってたんだよ。あの唄は確か…、」
振り返った沖田の顔が、夢に出てきたミツバのあの、口元に指を当てて柔らかく微笑んだ笑みと同じものを口元にのせていて土方は言葉に詰まった。沖田がミツバに見えたからではない。普段の総悟からは想像も出来ない優しい笑い方だったからだ。何を思ってそんな笑みを浮べるのだろう。わからなくて焦る。どうして俺の前でそんな笑い方をする?
「総悟、」
「沖田隊長ー。見回りの時間です、どこにいらっしゃるんですかー?」
「おう! 今行く!」
一番隊のヤツに呼ばれたのだろう、緩んだ手からするりと沖田が抜け出す。もう一度掴む前に呼び止める前に総悟はあっさりと去ってしまって、がらんとした部屋だけが残った。庭の木にとまった小鳥がちちちと鳴く。さっきまでいた人間がいなくなっただけで、静か過ぎて妙に物足りなくなった。それぐらいあの存在に心許している証だった。
「…ヒデェ面してんな」
午前中山崎に淹れさせて結局数回口をつけただけの、冷め切ったコーヒーに映った自分の顔がひどく歪んでいて失笑する。
億劫だ。もう一度机に向かう気にはなれなくて、土方はごろんと再度寝っころがった。片腕を両目の上に置いて総悟が先ほど謡っていた唄をちょっとだけ口ずさんですぐに止める。音色がまるで違っていた。寝ぼけ様に聞いた唄はもっと包み込むように柔らかいものだった。そうだ、まるでミツバが膝の上で眠る弟に謡った時と同じように、愛情の篭った、
「…もうわかんねえなあ…」
だってアレは確かに。