薄い青い空が広がっている。
暦は冬から春へと足を踏み入れているといってもまだ肌寒さが付き纏う。息を吐けば白く濁り、空気に溶けるように消えていった。
総悟は空を眺めていることが多かった。もう立てる体力も力も残っておらず、布団から上半身だけを起こしてじっと空を眺めている。
何を見ているのかと問えば外と答え、何を聞いているのかと問えば風と答える。どこか眩しそうに、けれど逸らさずじっと外を見ているものだから土方は気になって仕方がなかった。倣うように障子の枠向こうに広がる外に目を向けるが、そこに広がるのはいつものと同じ一ミリだって変わらない景色で、総悟が何を見ているのか、土方にはちっともわからなかった。
外ばかりに目を向ける、そんな総悟を見る度土方は言いようのない不安を感じた。そのまま総悟が遠い空に飛び立ってしまうような、そんな不安が膨らんでいくばかりだった。
総悟が外を見る度、痩せこけた顔や体を見る度、容赦なく不安が積み重なる。背筋がすっと寒くなる。怖くなる。総悟、と名前を呼んでこっちの世界に引き戻す。風邪ひくだろう、布団に入れ。不安を押し隠しいつもの調子で土方は言うが、沖田は大丈夫ですよと静かに断るだけだった。一日中布団で寝てるとカビが生えそうで嫌なんでィ。そう言って笑う、顔の影が一層増した気がして、以前は結びもつかなかった"儚い”という言葉が土方の不安を仰ぎたてる。土方はそっと拳を握りしめた。こういう時に己の未熟さを痛感するものだ。俺はどうしたってこの子どもを助けてやることが出来ないのだと、土方は悔しくてたまらなかった。俺には何も出来ない。歯痒さに苛まれる。
土方さん、外を眺めたまま沖田がふと名前を呼んだ。こっちを向いて空を指差す。
「外に連れて行ってください」
もう自分ひとりでは立ちあがることのできないからだで沖田はそう言った。
沖田が結核になってからというもの、土方はなるべく屯所にいるようにしたし、顔を見せに行っては毎日必ず一言は言葉を交わすようにしていた。以前は意識せずとも顔を見て声を聞いて存在を常に感じていただけに、改めて意識して行うにはどうしても違和感が付き纏う。けれどそれ以上に静かな屯所や今まで傍に居た存在がふっと消えてしまった虚無感は耐え難いものだった。
土方は歩いた。沖田を背に負ぶさり、ゆっくりと歩く。行きたい場所はあるのかと問うたが、明確な場所があるわけではないらしい。どこでもいいんでさァ、外なら。ゆらゆらと揺られながら、土方の背中で沖田は呟いた。
風が冷たい。体を冷やすのが今の沖田にとって良くないのは重々承知である。上着を着せてはいるが、基礎体温が下がっているから土方よりも総悟は寒さを感じているはずだ。
「寒くないか?」
背中越しに沖田の体温を感じながら土方は問うた。平気でさァ。と総悟は平然と言う。全くアンタは本当に心配症な人だとけらけらと小さく笑って、足をふらつかせる。ゆらゆらと動く足を見て、まだ元気だと土方は少しだけ安心した。
遠くまで行くことは出来ないから、近場の川沿いを歩いた。まだ春ではないからか、人の姿はまばらで、誰かとすれ違ったかと思えば静けさだけが残った。土方も沖田もそう会話は交わさなかった。けれどたまにけほっと咽に引っかかるような嫌な咳を耳元で聞く度に土方の足は屯所という暖かな場所に戻ろうとしたが、辛そうに息を紡ぎながらも「もうちょっと」と回された細い手にぎゅっと服を掴まれては土方は何も言えなくなる。一度止めた足を動かし、また歩き出す。
「覚えておこうと思いやして」
肩口に頭を乗せて、きらきらと光る川水面に目を細めて沖田は言った。土方は足を止めずに歩き続ける。返事はしなかったが、耳は何ひとつ聞き逃すまいと全神経を総悟の声に向けていた。それを知ってか知らずか総悟は言葉を続ける。土方に語りかけるというより独り言のようだった。
「毎日毎日暇を持て余していろんなことを思い出すんですよ。それこそまだ青臭いガキんちょの時から最近のことまで、次から次へと思い出しやしてね。でもどれもこれもしょうもねェ思い出ばっかりでなんでこんなモンばっかり俺の頭は掘り返すのか不思議でしょうがねェんですよ。ガキの頃アンタと喧嘩していたら喧嘩に夢中になって土手からふたり一緒に溝に落ちたこととか、真選組の結成祝いの宴会で近藤さんが腹踊りをしたこととか、野郎全員で屯所の掃除して、集めた落ち葉で焼き芋作ろうとしたら火の勢いが早くて危うく全焼するところだったとか、どうでもいいことばっかりでィ。大切な思い出もありやすが、馬鹿やった記憶が溢れ返って記憶をなぞるので俺ァ毎日大忙しなんでさァ」
「…なんだそれ。てめーがアホなことばっかやってきた証拠だな」
「じゃあそのアホな記憶に七割方登場する土方さんも同罪ってことになりますねィ」
「ならねーよ」
風が吹いて総悟の髪が揺れて、細い毛が土方の頬を掠める。ムキになりなさんなと総悟が笑う気配がした。背中でそれを感じ取り土方は静かに口を開いた。
「まだこれからだろうが」
まだこれから、大切な思い出を作っていけばいいだろう?
過去の思い出ばかりに想いを馳せる総悟の言葉が気にかかった。まるで写真をアルバムに収めてそれっきり仕舞い込んでしまうような、ひとつひとつをなぞり思い出の整理をしているようにしか土方には聞こえなかった。
総悟に先があるように言うことがどんなに罪深いことか知っているが、土方は希望を持って欲しかったのだ。いや違う、土方は未だに現実を受け入れられずにいた。まだ大丈夫だと、片隅ではこれは夢なのだと思っているのかもしれない。認めることが出来なかった。考えることなど出来なかった。
しっかりとまっすぐと受け入れているのは総悟のほうだった。
「無理ですよ」
総悟はきっぱりと言った。土方は息を飲む。諦めるな、そんなことを言うなと声を荒げて怒鳴ってしまいそうだった。けれどそれよりも先に土方さんと総悟が口を開いて土方を諭す。
「こんなからだになっちまってから、俺ァ漸く気付いたんでさァ」
「………」
「俺はこの世界が好きなんです。馬鹿ばっかやって歩いてきた道ですけど、楽しかったんですよ」
ちょうど木の横を通りかかったところで、総悟はそこで手を伸ばして葉っぱを一枚千切り取った。そしてそれをそっと風に飛ばす。太陽を仰ぎ見て口元を緩めて目を眇める。
「だからこの世界のことを目に焼き付けておこうと思いましてね。俺はこの世界で生きてきたんです。部屋の中ばっかで過ごしていると毎日当たり前だったモンが尊い物だって気付きやした」
空の青さ、太陽の眩しさ、風の冷たさ心地よさ、鳥の声、木のざわめき人の声。それをしっかりと覚えておくのだと総悟は言った。それは暗に自分があと少ししか生きられないのだと言っているようなものだった。土方は足を進めることしかできなかった。だんだんと背中の重さが増していく。久しぶりに外に出てはしゃいだら疲れやしたと総悟が言って回した腕に再度力を込める。
土方さんと名前を呼ばれて胸が苦しくなった。嗚呼この声で呼ばれる名前をあと何回聞くことが出来るのだろう。もっと数えていたいと願う。けれどそう遠くない未来に俺はこの声を聞くことは出来なくなって、そしてもっと時が進めばその声さえも忘れてしまう。耐え難い現実だった。
「土方さん。俺ァ近藤さんやアンタに付いてきて良かったでさァ。俺の世界は武州だけで終わりやせんでした。色あるモンになりやした。俺ァ武州と江戸で精一杯でしたけど、アンタは他の所行っていろんなモン見て世界広めてくだせェ、よ」
総悟はそう言うと寝てしまった。体力が落ちているのだ。外に出て自分で歩いてもいないのに喋っただけで疲れて寝ってしまうほど力がなくなっている。すぅすぅと言う寝息を聞いて、土方はそこで足を止める。
立ちつくした。一歩が踏み出せなかった。総悟が言った言葉が土方に現実を突き付ける。
もう永くない、近いうちに自分はこの世界から消えると言ったのと今の言葉は同意だった。
奢りがあったのかもしれない。痩せこけてはいるがまだ大丈夫だろうといつもの皮肉な言い方とその存在自体に安心していたのかもしれない。目の前に一本の道が現れる。いつも同じ道を歩いてきたのに、あとほんの少し行ったところで道はふたつに別れていて、お互いにそれぞれの道を行かなければならない。そしてその道は別れたまま永遠にひとつに戻ることはない。
冷たい風が吹いた。冷たさを感じるほど背中の暖かさを感じた。どう考えてもこの温もりが存在がこの世からなくなるなんて考えられなかった。けれどふと気付けば頭の中では総悟との思い出ばかりをなぞっていて、自分もまた記憶を整理しているのだと気付いて愕然とする。寒さが去れば春がきて桜が咲く。それが終われば雨が降り緑が生い茂りまた冬がくる。去年やもっと昔の記憶ならいくらでも思い出せる。梅雨は遊びに行けないと不満そうにして夏になれば暑い暑いとだれて冬は寒さに身を震わせながらも、ああまた一年が終わりやしたねと言いながらそして新しい年を迎えた。ずっとずっとこれからも変わらないのだと思っていた。だけど、どうしよう、これからくる未来に総悟の姿を見出すことが出来ない。
土方は奥歯を噛みしめる。この背中の重みや暖かさが消えた後も自分は同じように歩いて行けるのだろうか。それすらもわからない。分かることなんてたったひとつだ。背中から伝わる温もりに土方はうなだれる。
「あったけえ」
嗚呼生きている証はこんなにもあたたかいものなのか。
呟けば、足元に水がすっと零れ落ちた。地面に吸い込まれて消えていく。漠然と広がるこの世界がただ怖かった。気を緩めれば洪水のように溢れ出そうになる何かを押さえつけて、土方は唇を噛み締めるとその一歩を踏み出す。