天落ちるるはそら。
昔は見えなかったものが見えてくる。
幸せだと思っていたものが、偽りだらけの紛い物だったのだと知る。
期待に応えれば俺を見てくれる。
そう信じていた時もあった。
愛してくれると思っていた。
けれど所詮何も変わらない、期待に応え結果を出しても、それが当たり前なのだと、お前は私の言う通りにすればいいのだと言って見向きもしない。
俺が、どれだけアンタに褒めてほしくて見てほしくて努力したのかも知らない知ろうともしない。
寂しさと悔しさで毎日が息が詰まりそうだった。
いつも何かに飢えていた。
けれどそれが満たされる日はこない。きっと永遠にこない。
ああそうだ、アンタにとって俺はただの駒でしかないのだ。
(落ちたらどうなる?)
見下ろした先踏みしめた足元で、パラパラと崩れた砂が眼下に広がる町に吸い込まれるようにして落ちていった。
入るな危険という看板を無視して柵を飛び越え侵入した先は切り立った崖では、住んでいる町が絨毯のように鮮やかに地面を覆いつくしているのが一望できた。
ここは喧騒も人も何もない、寂しい場所だ。最近俺が見つけた、お気に入りの場所。
普段要らないものばかりに囲まれている俺にとってはこれぐらいの静けさがちょうどだった。
この心地良さを抱いたまま足をもう一歩踏み出せばどうなるのだろう。
唐突にそう思って眼下を覗き込むと人も建物も小さいジオラマのようで、不思議と恐怖は感じなかった。
けれど落ちて地面とぶつかってぐしゃりとなるところを想像すると、突然ぐわんと視界がぶれて歪む。ふらふらと足を一歩二歩戻して、呆然として瞬きを繰り返した。
見やると先ほど立っていた崖の先端から距離が開いてしまっている。また飛び降りられなかった。情けないと溜息を零す。
と。その溜息を誰かが拾った。
「死にてーの?」
声がして振り返ると、何時から居たのか亜麻色の丸い頭をした男が、木の枝の上に器用に寝っころがっていた。
額の上にらくがきみたいな目を描いたアイマスクを付けて、眠たそうな目でこっちを見ている。
「別に」
他人と関わるのはあまり好きじゃない。
素っ気なく短くそう返すが、男、俺とそう変わらない年のソイツは俺の返事など最初っからどうでもいいようにふーんと言っただけだった。そんな彼を俺は不審の目で見やる。
(なんだコイツ…)
実行しなかった(出来なかった)にしろ、今の状況を見ていたのなら俺に自殺願望があるってことを知っているはずで、目の前にそういう人間が居てそういう場面に出くわしたのなら普通もう少し慌てるもんじゃないだろうか。
変なヤツ。俺はぼやいた。
が、悪態をヤツはちゃんと聞いていたようだ。嫌そうに眉を寄せる。
「失敬なヤロウだなァ。初対面の人間に対して変なヤツとはなんでィ」
「聞こえてたのか」
「聞こえてるっつーの。っていうか飛び降りる気もねェのにこんな場所に来て飛び降りる真似事するあんたのほうがもっと変ですぜ」
「どこに居ようと俺の勝手だろ」
「まあそうだけど」
よっと全く重さを感じさせずに木から飛び降りたそいつは、どことなく幼い印象を受ける顔立ちをしていた。
日の当たるところで見て初めて肌の色が若干白いのに気付く。
袴姿で木の上に登っていたなんて、やっぱり変なヤツだと頭からつま先まで見やって俺は改めて思う。
「お前さ、俺が崖っぷちに居たのを見てたんだよな?」
「まあ」
「じゃあなんで止めなかったんだよ」
「だってアンタが落ちたって俺には関係ねーし。あ、なんなら俺が背中押してあげましょーか?」
にやりと笑って言う、大人しそうな顔立ちとは打って変わってすごいことを言っている。
自殺に加担しようかと言っているのだ。
言わば殺してやろうかと言っているようなもんで、俺はぞくりと身震いした。
なんだコイツ、狂ってんのか…?
俺の目の色をじっと見ていたソイツは、それを感じ取ったのか、ひらひらと手を振ってなーんてとからかうように言った。
「嘘ですよ嘘。こんな戯言真に受けるなんてアンタ人を信じやすいんですね。ってか馬鹿じゃね?」
「(このヤロウ…)そんな嘘を平気で言うテメーの神経もわけわかんねーよ」
「まあまあ。とにかくなんかの縁でこーして会ったんです。アンタが飛び降りなかったにしろ自殺未遂の真似をした理由でも聞きやしょーか? 溜めとくよりか穴でも掘ってぶちまけたほうがいいって言いやすからね、その穴役を俺がしたって問題ねェでしょう」
「それは同情かなにかか?」
「まさか。ただの暇つぶし」
それ以外に何があるというのだと言わんばかりの言い方に、妙に胸がすっとした。
会ったばかりの人間だが言動から思ったことはそのまま隠さず口に出すタイプだと分かって、妙な建前も気も使わず話していいんだと俺の何かが呟く。
(名前も知らない人間に人生相談かよ)
自嘲して、でも何故か話してみようと気になったから口を開いてぽつりぽつりと話始めた。
昔水害で家族も友人も村も何もかも失ったこと。
その時のショックで記憶が曖昧なこと。
施設に入ったが町の豪富に引き取られ、養子となり俺は跡取りとして育てられたが、その価値以外にソイツは俺を見ていなかったこと。
必要なのは俺の存在だけで俺ではなかったこと。
俺はアイツに何を期待しているのだろう、それすらもわからない。
苦痛だった。
「ヤツにとって俺は駒でしかねーんだよ。俺の存在価値なんてそれだけだって言われ続けて、いつの間にか洗脳されたみたいに俺は反論もしなくなった」
「腹が立ったんだろィ?なんで言い返さねーんだよ」
「ンなの意味がねーからだよ」
所々で茶々でも入れてくるのかと思いきや、明るい髪色をしたソイツは大人しく俺の言うことを聞いてくれた。
しかも同意して先を促すようなことを言うから、なんだかイメージとずれて若干違和感を感じつつもなんだかんだで最後まで言ってしまった。
ああこの町の何処に俺の居場所はあるのだろう、見下ろして、目を閉じる。
あの時の洪水でぜんぶ消えてしまったのだろうか、俺を温かく包んでくれる場所は。
でも顔も忘れてしまった俺に懐かしむ資格はない。
今の家は金はあっても息が詰まるような地獄だ。
あの男にとって俺はただの駒でしかないらしい、じゃあ俺はなんだ? なぜ生きている?
最近そんなことばかり考えている。
「何を言われても何も感じなくなった。俺はもう死んでるみたいなモンだ」
そう言い括ると、それまで表情ひとつ変えなかったソイツが急にきょとんとした顔をした。
そしてぷっと吹き出してげらげらと笑い出す。
俺は冗談とかじゃなくて本心で言ったのに笑われるなんて心外だ。
「おい」
咎めるように言うと、だってあんたが変なことを言うからと反論される。
「アンタ正真正銘の馬鹿ですか」
「ンだと? こっちはこれでも真剣に、」
「何がもう死んでるみたいなモンだーですよ」
ひぃひぃと引き笑いのようになった笑いをやっと抑えて、ソイツは目尻に溜まった涙を拭ってあーあーとぼやいて俯いた。
顔を上げたそいつの顔に先ほどの笑みなどなく、真っ直ぐと冷えた、でもどこまでも青い空を思わす目をして俺を見て突き放すように言った。
…そいつの顔が記憶の何かと重なって俺は息を飲んだ。
「馬鹿なこと言うんじゃねーよ。アンタが感じてる痛みはアンタが生きてるって証だ」
それがすべてなんだと言われたようだった。