衝動は突如体の中を駆け巡った。
支配して止まない、激情と呼ぶそれに喉の奥が引き吊ったようだ。どくん。つられて心臓まで鳴りやがる。
渇きが込み上げて口の中がヒリヒリするのを、ふたつの青色がじっと見ていた。小さな口が物怖じもせずに叫ぶ。言い方を変える。俺の眉が不自然に寄る。さっさと食えと。その一言。
五月蝿い。一刀両断に切ると子どもがひッと首を引っ込めた。今にも泣きそうに目ェ潤まして、けどグッと衝動に耐えている。
ああ子どもよ、根比べでもしてみるか?お前が泣き出すか俺がこの激情に屈するか、さあどっちが負ける?
鬼灯
何かの音を聞いた気がした。
足を止めて耳を澄ますが、どうやら気のせいだったらしく、見慣れた平穏しかそこにはなかった。顔を戻して歩みを再開すると、ざぁっと初夏の風が顔を撫でていく。心地よい感触だ。当たり前なのにここしばらく忘れていた感覚かもしれない。
森の中にひっそりと社が建っている。年月が経っているからどうにか雨風を凌げるぐらいの、オンボロさだ。ボロボロ。
でも昔はこんなんじゃなかった、木目のひとつひとつが輝いていて、これでも
花に囲まれていた。
そういえばロマンチストだと馬鹿にする。年月が経てば何だって誰だってそうなるのに、ちっとも真の姿を認めてくれない俺の家。可哀想に。
「まーたそんな所にいやがって」
「お腹すいたー」
「だったら早く降りてこい」
なんかとなんかは高いとこ、なんてのはよく言ったもので、萱葺き屋根の上で膝抱えて、子どもはなんも考えてなさそうな顔でポカンと空を見上げていた。見るからに頭が悪そうだ。実際そうなのだから救いようがないのだが。
名を総悟という子どもは、人狩りの時に拾ってそのまま俺の所に棲みついている人間だった。最初は鬼の俺に怯えて食え食えと言っていたが、子どもの順応性というのは恐ろしいものですっかり鬼の住みかを満喫している。俺も放任だ。最近は屋根の上に登るのが好きらしく中々降りて来ない。今もゆったりゆったり梯子を降りてきている。
「今日は天気がいいや。旦那が気持ち良すぎて動く気がしないって言ってた」
「アイツの言うことを真に受けんなって。ほら俺だって腹減ったんだから早く火を起こして食べろ」
川から取ってきた魚に、俺にはなんの腹の足しにもならない山葡萄を渡すと総悟が変なのと大きな青色の目を瞬かせた。表情は乏しいがそこは人間、しかも子どもだ、見るからに不思議そうな顔だった。
「なんだよ」
「お腹すいたら俺を食べればいいのに」
お前は俺の非常食だから目の届くところにいろ、世話をしてるんじゃねェ太らせていつか食う為だ。そう言っていたのをご丁寧に覚えているらしい。しかもそうだと信じて疑わない、純真にいつか俺に喰われるのだと信じている。
(確かに最初はそのつもりだった)
気まぐれに、ひとりぼっち生き残った人間なんか拾っても、俺になんの利があるわけでもない。人間は食い物だ。それ以上でもそれ以下でもない、仲間内にも喰う為だと豪語し非難されてもそれでも未だに喰わないでいる、理由は…
「お前不味そうだし」
「なんか言った?」
「なんもねェよ。ほら早く食べて太りやがれ」
大きい頭をちょいとつつくと子どもはむっと眉を寄せて、けれど欲には従順にふーふーと火を起こす作業に戻る。暢気なものだ、俺が必死に喰いたい衝動を抑えているとも知らずに。人間の子どもやわらかい肉汚れない血。ああ
(喰いたい――、)
「って」
こてんと俺の頭に何かがぶつかった。足元に落ちた山葡萄は光りに照らされてきれいな艶を出している。当たり前だ、俺がわざわざ川で洗ってきたのだから。
元凶たる奴を睨めばどこ吹く風、フンと鼻を鳴らして腕組んで、猿山のボスのように偉そうに言う。
「なにボサっとしてるンで」
「…テメェな、」
「勘違いすんなよ!お前が腹減った腹減ったうるさいからだ!」
だから分けてやる!
「――」
衝動は。
一瞬さらさらと砂のように消えてすぐに再構築する。しかも厄介なことに前以上に巨大なものになっていく。俺の力ではどうしようもならない、いつかきっと、きっと俺は衝動に負ける時がくる。この子どもを喰う日がくる。けれど。
(…にがい)
摘まんで口の中で潰した山葡萄の味がわからない。同じように子どもを側に置く理由は、理由は。