鬼灯
今日は月が遠かった。だからなのかは分からないが子どもの食料である魚が全く取れなくて俺はイライラする。そもそも川に月の引力なんて関係するのだろうか。引き潮満ち潮、やっぱり影響するのは海だけかそれとも水が関係しているのか、どうでもいいことばかり考えながら俺はしまいに飽きてしまう。
「なあどうせなら実験してみようぜ」
川から上がれば面倒くさい奴が木に寄りかかって待ち伏せしていた。ちらりと一瞥だけして横を過ぎる。関わって、良いことが何もないのは今までの付き合いから知っていた。しかも話の内容から察するに百パーセント碌な話じゃない。
けれどぴったりと張り付かれて早々に逃がしてはくれないようだ、片目の鬼がニタニタと笑う。
「なあ。あの人間を喰うつもりないんだろ?」
「………」
「だんまりかよ」
くくっとそいつが喉の奥で笑った。
「隠さなくてもいいぜ。みんな言ってる。お前は気が狂ったってな」
「…うるせェよ。どうだっていいだろ」
「否定はしないのかよ。まあいい。なあアイツを鬼にしちまえよ」
足が止まる。反応しないつもりがピッタリと止まってしまった歩みに、確信を得たとばかりに片目の鬼がまた喉の奥で愉しそうに笑う。その声が顔が、ひどく耳に残った。
「知ってんだろ。人間を鬼にさせる方法。純血の鬼の血をそいつに飲ませればいいだけだ」
「それは」
「禁忌だ。やってはいけない、何故なら鬼になった人間の試しがないから」
皆狂って死んでいく。
鬼も人間も誰もが知っている話だった。元々相容れぬ存在なのだ。血を飲んだ人間はだんだん人間が餌に見えてくる。人間なのに人間を喰いたい衝動渇き、それは精神も脅かしついには発狂して死んでしまう。
未だかつて人間から鬼になった者はいなかった。そもそも人間を鬼にしてやろうなんて酔狂な奴はいない。下等なものを鬼にするなんて、鬼のプライドが許さない。人間が抱くのとおんなじように、鬼も自分たちの種族に誇りを持っている。それなのに、こいつはなんと言った?
「それはつまり、あの子どもを狂わせて殺せということか?」
「違う。実験だと言っただろ?万にひとつでもある可能性に賭けてみたいと思わないか?」
可能性。何の。鬼にしてどうする?
知らず目付きが細くなったのが自分でもわかった。睨んでも片目の鬼はびくりともしない。度胸は誰にも負けない鬼だった、おんなじぐらい何を考えているのかわからない、深くて暗い瞳が鈍く光る。口の端を上げてそいつが言った。
「だってそうすれば、あの子どもと永遠に一緒に居られるぜ?手放したくないんだろ」
どうしようもなく。
頭にカッと血が昇った。同胞に沸く初めての殺意。何がどうしてそうなったのかはわからない、馬鹿にされたと思ったのか、それとも図星だったからなのか否か。それとも。
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派手に暴れてしまった。ひょろりとした細い形の癖に妙にあの野郎は喧嘩が強い。さすがに俺も無傷じゃすまなくて、ヨロヨロと家に帰ってガラリと立て付けの悪い引き戸を開けると真ん中にポツンとした固まりがあった。夕飯を待ちきれなかった総悟が体を丸めてすやすやと寝息を立てている。近寄って側に腰を下ろすと、古びた床板がギシリと鳴って起こしたかとびっくりした。けれど子どもは起きない。これが俺じゃなかったらどうするつもりだろう。もうちょっと危機感を持ってほしい。
なんだか疲れた。言葉にすると本当に疲れそうだから黙っておいて、俺もゴロンと横になる。ちょうど目の前に栗色の頭があった。指を通すとさらさらと零れる、水のようだ。掴めない。
「なあ総悟。鬼になりたいか?」
鬼になって俺と一緒に生きてくれる?
…なんて。なにを馬鹿な。嘲笑が浮かんだ。鬼が人間にすがるなんて情けない、気が付くとあの片目の鬼と同じように喉奥で笑う俺がいる。俺は誰だ。
「泣きそうな顔してる」
透き通った声に、見やれば子どもの青い、大きな目がじっとこっちを見ていた。窓から差し込んだ月の光のせいで淡く輝いている。
「…誰が泣きそうなんだよ」
「…飯」
「…ごめん取れなかった」
「まぬけ」
「………」
「姉上の夢を見た」
寝惚けているのだ、しこしこと目を眠たそうに擦って、言っている自分が目尻に涙を溜めている。
「もう1度寝ろよ」
「アンタが髪触るから目ェ覚めた」
「それは悪かったな」
「この髪の色も姉ちゃんと一緒なんだ」
夢の中の肉親に思いを寄せて総悟は幸せそうに呟く。
総悟の姉はもうこの世にいない。病で昨年亡くなったそうだ。俺たち鬼に親兄弟親籍、その他諸々血の繋がりなんてものはない。鬼は気付いたらそこにいるのだ。気付いたら鬼としてそこに立っている、どこから何から産まれてきたなんてわからない俺も。
だから総悟が姉に固執する理由がよくわからなかった。けれどでも、人狩りの時に身を挺して我が子を守ろうとする人間の母親の姿。思い浮かべて、大切なんだと、その一言につきた。
「…そうだな、綺麗な色だ。鬼にもこんな奴はいないよ」
誉めるつもりはなくとも結果的にはそうなって、へへと嬉しそうに子どもが笑う。
言えるわけがなかった。
鬼になるか?なんて。
生死の確率じゃなくて不憫に思えた。だって鬼になれば、大好きな姉と違う生き物になってしまう。
「一緒がいいんだもんな」
笑い掛けて目を閉じる、ああ俺は鬼はこんなに情に脆い奴だっただろうか。狂ってる。