そうして抱き締めたまま、雨の音を背にどれぐらい経ったのだろう。足音がした。冷たくなった総悟の体を抱いたままゆっくりと顔を上げるとひとりの鬼がいた。黒い片目の鬼が雨の中珍しく笑わずにずぶ濡れになってそこにいる。
 俺はそっと総悟を地面に寝かして立ち上がる。思うことはただひとつだ、コロシテヤル。
 衝動のままに片目に飛び掛かって押し倒す、避けようともせずに片目はバシャンと水音を立てて地面に倒れた。構わず水を含んだびしょ濡れの上掛けを掴んで地面に叩き付ける。小さくうめいて、けれど片目は目を逸らさない。

「このヤロウ…ッ!総悟を唆しやがったなッ!」
「嘘は言ってねェよ。鬼を千匹殺して鬼の血を浴びれば鬼になれる」
「んなことはどうでもいいッ!お前がそんなことを言わなきゃアイツはッ」
「だからお前が会いに行ってやればよかったんだ!」


 『会いに行かねェのかよ』
 『アンタが来るの待ってたのに』
 ふたつの声が重なって、思わず片目の首に掛けていた拘束を解いてしまった。ゴホゴホと咳き込む音がする。構わず、呆然とする。
 俺だって子どものことを考えていなかったわけじゃない。大切に想っていた。想っていたからこそ近付かないように遠くからその幸せを願っていたんだ。その姿をまた目に映すことを戒めてそれでもふと考えてしまうから思い描くだけにして。幸せを願ってた。
 なのにふたつの声は俺を責め立てる。俺が会いに行かなかったからだと言う。つまらない意地を張らないで俺が会いに行けば。総悟は助かった?生きていた?会いに行けば、たったそれだけで。

「アイツ、お前のこと待ってたぜ」

 総悟を唆したということは片目は総悟に会っていたということだ。多分何度も。確信を持った声でそう言われて、俺は言葉を返せない。
 ダセェ顔、そう言って起き上がった片目はカランと破魔の刀を俺の目の前に投げ寄越した。

「鬼になる方法は、千匹の鬼を殺して血を浴びることだ。それと同じように、鬼が人間になれる方法がある。誰も聞かないが、今のお前なら聞きたいだろう?」
「そんなわけ」
「いいか。鬼は生まれ変わっても鬼なんだ。生まれ変わりだのなんだの、そんなの俺たちには関係ねェ。自ら鬼の輪から出なければどんだけ死んでもまた生まれてもお前は鬼なんだよ。けどそれは人間も同じだ。それがどう意味かわかるか?」

 諭すような言葉は片目らしくなかった。けれどじんわりと俺の中に広がっていく。まるで水のようだった。総悟を失って乾きひび割れた地面に隙間から入り込み染み渡るような水。
 俺が鬼であるかぎり、人間が人間であるかぎり、それが何を意味するなのか。すぐにわかった。鬼であるかぎり人間であるかぎり俺は鬼で総悟は人間だ。永遠に交わることのない相対的な存在、このままずっと。まさか総悟もそれを聞いてこんなことをしたのだろうか。今だけじゃなくて未来も思って。
 想像以上の深さを知って俺は目の前が真っ暗になる。馬鹿なのは俺だ。鬼だの人間だの線を張って近付くのを恐れていた。俺が殺したようなものだ、唐突に理解する。

「破魔で角を折れ。そして自分の手で首を落とせ。そうすれば来世お前は人間になれる」

 雨の音がした。

「あとはお前が決めろ」

 ふと目の前にあった破魔が目に入る。あれだけ血を浴びたのに全部雨に流されて青白い光を帯びている。

「お前はもう鬼には戻れない。情に流されすぎだ」

 ビチャリと足音がして顔を上げると、片目が踵を返して去っていくところだった。何を考えているのかわからない後ろ姿がやけに小さく見える。

「待て」

 声は届いて片目は立ち止まった。振り向かないが天の邪鬼のお前らしい、さいごのさいごでいつものように笑った。

「昔、総悟を鬼にしろと言った時お前は実験だと言ったな。鬼に出来るのか実験だと。お前も鬼にしたい人間がいるのか?」

 鬼と人間に対して知りすぎていた。憶測だがきっと、片目にもそんな存在がいるのだろう。
 振り向きはしなかった。それでも片目はきっといつものように笑っていたに違いない。素っ気なく片手を上げて一言だけ言い残して行ってしまう。教えねーよ。



 大昔に一度だけ登ったことがある崖は記憶以上に鮮やかな景色だった。森の一面どころか更に奥に広がる草原や遥か彼方の山裾さえ見える。冷たくなった総悟を抱えてその先っぽに立っていた俺は、思わずその光景に息を呑んだ。綺麗だ、生まれて初めてそう思った。

「一回連れて来ればよかったな」

 そう言えば子ども扱いすんなと総悟は怒っただろうか。でも勘弁してくれ、人間と鬼じゃ時間の感覚が違うのだ。有限と限りなく無限に近い生涯の時間。そうだ、総悟が成長した時間だけ俺はその間の総悟知らないのだ。
 昔は高い場所が好きだったお前、肉よりも魚が好きだったお前。物覚えは悪かったが興味があることに関してはスポンジのように吸収が早かった。ああじゃあ今は何が好きで何に興味があって何が苦手なことはなんなのだろう。何もわからない、もう永遠にわからない。離れていた時間が急に悲しくなった。もう二度と手に入らないと知るとよりいっそう尊い。
 髪は昔と変わらず細かく、吹く風にもそよそよと揺れていた。腕の中の軽い存在が何よりもいとおしい。一度流れるともうダメだ、また涙が出そうで風にさらわれそうでああどうしよう。

お前との時間、結構気に入ってたな

 腰に差していた破魔がカタカタと鳴る。それを引き抜き一閃すると風が斬れた。
 腕の中にいる総悟の額に口を寄せる、頬をそっと撫でた。あの時みたいだ、ただ寝ているみたいで。

 お前の覚悟、無駄にしない。


「総悟、次会った時の道しるべだ。俺の名前は―――」


********









「俺の名前は土方十四郎だ」
「ひじ…?」
「ああ」
「ドM?」
「なんでだよッ」

 ポカンと、それでも少しは加減して真ん丸な薄茶色の頭を叩くといい音がした。いい音すぎて、ちゃんと中身が詰まっているのかちょっと不安になる。というかどうして人の名前を聞いて罵る言葉になるのか謎だ。それは決して誉め言葉じゃない。
 人伝いに話を聞いてやって来た森は、遠くから鳥の声が聞こえるだけの、静かな森だった。鬼の住み処だったらしいが、それも大昔の話。今はこの変わり者の子どもしか住んでいないらしい。

「ドMがなんの用なんだよ」
「だからドMじゃねェっつーの。ああもう…。…この森から一歩も出ていかない変な子どもがいるって聞いたから来てみただけだ」
「何処に住もうと俺の勝手だろ。面白半分で来んな」
「わかってる」
「じゃあなんで来たんだよ」
「………」

 そう、言われると困るのだ。頭を掻いてそっぽを向いてもここには俺とコイツしかいなくて逃げ場はなかった。
 どうしてここに来たのか、なんてこっちが聞きたい。どうしても会ってみたかったのだ。言わば衝動的にここに来てみただけ、気になった。

「…そういうお前はなんでここにいるんだ」

 手持ち無沙汰になって問うとそいつはふいっとそっぽを向いて、少し困ったように眉を下げた。

「…分かんない」

 でも待ってるんだ。誰かを。

 誰を?
 とは、聞かなかった。その一言でよかった。待ってる、その一言が俺の中で大きく響いて緩やかに広がる染み渡る。ああお前はそんな顔してずっと待っていたのか。誰かが囁く。否俺が言っている。
 急に訳がわからない衝動が俺の中を駆け巡った。ごちゃごちゃとして懐かしくて悲しいのか嬉しいのか混ぜこぜだ。勝手に泣きそうになって驚いた。それでも言葉は勝手に口を突いて出てきて。

「一緒に行かないか?」
「え…?」
「一緒に行こう」

 手を伸ばす。自然と出てきた言葉だった。手を伸ばした俺も「えっ?」と自分の言葉にびっくりしてぱちぱちと瞬きをする。
 見つめる中、伸ばした手を、ソイツはじっと見ていた。やがてそっと掴む。ふたりしてお互いを見つめて瞬きを繰り返した。

「…いいのか? お前、今知らない人間について行こうとしているんだぜ? 危なくね」
「人攫いが何言ってんですかィ」

 見つめて笑って、ぎゅっと掴む感触がいとおしかった。離さないように力強く握り返す。今度こそ、何も失くさない、全部守ってみせる。だから。

 一緒に生きよう。