音鳴りさん
1.破壊崩壊
手に入れた久々の平和は戦士の休息とも言えるものだった。物がない部屋のど真ん中に寝転がって俺は、近所の公園ではしゃぐ子供たちの声に耳を傾けながら午後の日差しと暖められた空気を思いっきり吸いこむ。
なかなかのものだった。俺だけの新しい城。家賃はまあ安いとは言えないが、それでもテレビや冷蔵庫といった電化製品は備え付けで、その分の値段を差し引きすればそう高いくもない。
携帯の画面で時間を確認する。バイトに行くまでにはまだ時間があった。家事は全部午前中に終わらせてしまい、今は検査中だろうから姉の見舞いに行くことも出来ない。ごろりと寝返りをうつ。何もやることがない、その時間が幸せだった。
ゴロリゴロリと芋虫みたいに転がり沖田はうとうとする。
学校が終わると同時に病院へと通い入院中の姉に会い、夜は連日バイトで生活費やら姉の入院費の為に稼ぐ。それが沖田の日常だった。幸い姉の入院費はすでに他界した両親の遺産でどうにかなっているが、己の生活費や学費までもそれで賄おうとするのは厳しいものがある。本当は学校も行かず働きたいのだが、高校に行ってと姉に懇願されては行かないわけにもいかなかった。
今日は廃棄が残っているだろうか。ぼんやりと沖田は晩ご飯の心配をする。
歳を偽って深夜までコンビニのバイトをしているのだが、夜というのはなかなか廃棄が出にくい。仕事上がりに廃棄を貰って裏で食べている沖田にとって、廃棄が無いというのはすなわち飯にありつけないという問題に直結する。
今日のシフトを頭の中で思い出し、痩せの大食いである小山田が入っていないことにひとつ安堵の息をつく。アイツがいないかぎり飯も確保されたと思ってもいいだろう。
(それにしてもいい天気だ…)
沖田は大きく伸びをする。体を動かすことが好きで、今のバイト先の人間関係も悪くなく、働くこともそれほど苦痛ではないのだがやはり時間だけは金で買えない。やっぱりダラダラするのが性に合っている。そう実感しながら沖田は天国のような穏やかに過ぎる時間に浸っていた。欠伸をひとつ、空気に溶け込ませる。春のにおいを嗅ぎながら夢の世界へとダイブする。
が。
ドンッ!
「なんでィ…」
右隣の部屋から突如壁を叩くような音が聞こえてきて、沖田は閉じかけていた瞼を半分ほど持ち上げた。
体を起こして這いつくばるように壁に近付くと、五月蝿いと抗議の拳をコツンと壁にぶつける。
テレビ、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジが備え付けの一人暮らしには持ってこいの物件だったが、如何せん壁が薄いのが難点だった。肘が壁に当たっただけでも隣にとっては壁を叩かれたような物音になる。シャワーの音は勿論皿を洗う音も電話の声だって丸聞こえに近い。隣も五月蠅くしようとしているわけではなく普通に生活を過ごしている分、環境がわかるだけに文句も言えなかった。お得な物件だから仕方ないと諦めるべきだろうか。けれどそう思うほど悔やまれる。
「俺の理想郷だったのになー」
左隣は空き部屋で右隣も引っ越し、左右に誰もいない沖田の理想郷は隣人の入れ違いの入居でたったの3日で終わってしまった。だからつい未練がましく思ってしまう。隣さえ引っ越して来なければ俺はひとり静かに暮らしていたのに、と。
沖田は四つん這いで壁に寄るとぴたりと壁に耳を当ててみた。物音はしたが声までは聞こえてこない。洗濯物で男なのは確認済みだ。しかし性別以外はいっさい分からない。出入りの多いアパートだけに表札も掛けていないから名前さえも不明だ。
元来他人にはあまり興味を示さない沖田だが、それでも隣人、少しは気になる。
(変なやつじゃなかったらいいや)
願うのは己の平穏第一。前のように夜中にも関わらず飲んで騒ぐ迷惑な大学生は二度と御免被りたい。常識さえ持っていただければそれで。
春うらら、窓の外からどこからか弾んで聞こえるピアノの音色に、沖田の意識はとろとろと溶けだした。ひとつ欠伸おとして再度横に転がると、欲に忠実な瞼が外の世界を遮断する。
今度は邪魔をすんじゃねェよ。まどろみに言った言葉は声になったのかも怪しい。
そんな沖田が隣人の顔を見たのは、意外にもそれからすぐのことだった。珍しく早めにバイトが終わり、玄関に備え付けられている洗濯機を回していると、外からカンカンカンと誰かが階段を登ってくる音が聞こえてきた。
なんとはなしに耳をすませると、足音はそのままこちらへと歩いて来る。隣人だとすぐに分かった。沖田の部屋は角からふたつ目、この部屋の前を通るとすれば該当者はたったひとりだ。沖田の理想郷を壊したそいつしかいない。
沖田は物音を立てないようにそっとドア穴から外を窺った。まさか歩いている野郎もこんな風に見られているとは思うまい。近付いてくる足音とともに心臓が早まる。緊張と興奮が入り混じった。
(どんなヤツか拝んでやる)
さながら気分は犯人の顔を拝む探偵のようだった。
やがて沖田の青い空色の瞳は、ひとりの人間を映し出す。短い黒髪にやはり黒い服を纏った、すらりとした長身の男だった。
沖田は絶句した。
2.返せ私の理想郷
「ありえねェ」
オレンジジュースの紙パックに差したストローを唇で挟み、後ろの2本脚だけを床に着けてギコギコと不安定に浮かせた椅子を、前後に揺らした。
それを見て家から持参してきた弁当を食べながら冴えない山崎が危ないですよと一応注意してくる。聞かないけれど。
「あーもうイヤだなー。帰りたくねェ…」
「なんでですか?家にゴキブリが出たとか?」
「そんなつまんねェことじゃねーよ。隣の男が美形だったんでィ。ありゃあモデルでもやってるに決まってらァ」
「へぇ。そんなにカッコよかったんですか」
どうでもいいとばかりに山崎が返事をする。まったく人が真剣に悩んでいるというのに、山崎は弁当片手に暢気なものだ。ふっくらとした卵焼きを口に運んでもごもごと幸せそうに食べている。ザキのくせに。心中で罵った。
お茶を飲んでいる隙に弁当の中にあった苺を摘まんで食べると、あーッ!俺のいちごッ!と大きな声を出す。クラスの奴らが何人か振り向いた。山崎にもキッと睨まれたがこの際知らん顔だ。じっとりと恨めしそうに山崎がいつまでも俺を見ている。
「俺の苺」
「人が真剣に悩んでいるってェのに、暢気なお前が悪いんでさァ」
「だって意味が分かりませんよ…。隣の人がカッコよくても沖田さんが悩むことなんて、何もないでしょ」
山崎がそこで言葉を切って、何かに思い当たったように目を瞠った。
「…ハッ、まさか沖田さん、そっちの気が…ってあ痛ッ」
「気持ち悪い妄想すんじゃねェよ」
お前今頭の中で野郎に恋する俺、なんてうすら寒いこと想像しただろィ。窺うように言ってやれば、息に詰まって図星ですと言わんばかりの反応だった。もう一発楽天的な頭を叩く。
頭を擦る山崎に俺はビシリと指を一本突きつけた。
「考えてみなせェ。男前のヤツ男ってことは当然彼女が?」
「…います、ねぇ」
「しかもあのアパートは独り暮らし専用、当然男ひとりだから部屋に彼女を連れ込むだろ」
「ま、まあ」
そこで言葉に詰まるのが山崎という男だった。構わず続ける。
「とするとだ。独り暮らしで女もいるってことは、当然ヤることはヤる。さあ壁の薄い建物ンだから、勿論隣の俺の部屋にも野郎の彼女の喘ぎ声が聞こえてきて、」
「ギャーーーッ!」
なんて破廉恥ッ!話だけで顔を真っ赤にした山崎が飛び上がった。抵抗がなさすぎる。沖田はため息をついた。もっとからかってやろうかとSの本性がウズウズしたが、残念なことに沖田は今そんな心境ではなかった。山崎の反応ではないにしろ、考えただけで億劫になるのはこちらとて同じだ。
俺そんな部屋だったら引っ越します!と叫ぶ山崎に、だろーとまた弁当から苺を拝借して沖田は同意した。
(あの男どうせキザだろうから、「聞かせてやれとか」意味わかんねェこと言って声洩れても気にしないんだろうなァ…)
そうなった場合布団に入って耐えるべきか壁をぶん殴るべきか。
教室から覗く春の空を見て、どうしてこんなこと考えにゃいかんのだと沖田は嘆いた。
「あ、ヤベ」
あっという間に過ぎ去った。悩んでいた割には壁をぶん殴ることなく無事に季節が移り、気付けば梅雨になっていた。
今日も雨がしとしとと降る。雨ばかりで洗濯物が部屋干しになってしまうのが最近の沖田の悩みだった。
そんな中突然の雨に小走りでバイトから帰ってきた沖田が部屋に入ろうとすると、驚いたことに鍵がどこにもなかった。
(しまった。バイト先に置いてきたかも…)
よくよく考えてみれば、着替える時に何かが落ちる音を聞いた気がしないでもないのだ。
バイト先はそう遠くないものの、雨の中というのがどうも引き返す気を鈍らせた。しかも厄介なことにちょうど今は業者の清掃が入っている。清掃が終わるまでは店内に入ることも出来ない。
まいったなぁと沖田は扉の前で佇んだ。
と、カンカンと誰かが階段を登ってくる音がして沖田は階段へと視線を移した。足音はふたつだ。まさかなと思いつつじっと眺める。
やがてふたりの男が姿を現した。見覚えのない巨体の男と、思い描いた通りの案の定、それはルックスがいやに整った隣人だった。
3.そんな偶然知らないよ
「どうかしたのか?」
狭い廊下でやっぱり話しかけられた。無理もない、ひとひとり分の幅しかない廊下なのだ。奥の部屋に用があるのにその前に俺が突っ立てたんじゃ見ぬフリも出来ないだろう。ってか俺ってもしかして怪しさ満点?
声を掛けてきたのは傘を畳むなり不思議そうに近寄ってきた巨漢の男だった。体格がいいくせにどこか人懐っこい顔をしていて、気さくな喋り方に俺はホッとした。人口が多いだけに様々な人間がいるが、どうやら声色からしていい人そうだ。
鍵が無くて入れないのだと理由を告げると、男はまるで自分のことのように悲しがった。
「それは災難だな。もしかして朝になるまで取りに行けないのか?」
「いや2時頃になれば大丈夫でさァ」
「2時ィィ?!あと2時間近くもあるじゃないかッ!」
大きな声で驚かれて俺も驚く。ただでさえ壁が薄い建物なのにき、近所迷惑じゃねェの?と逆に俺が焦っていると、後ろでずっと黙っていた隣人が近藤さん、と男を諫めた。
ふーん、近藤っていうのか。人の名前を忘れっぽい俺はこっそりと心の手帳に書き込む。その隣に「感情的だがいい人」と書き加えるのも忘れない。
安心してもらえるようになんでもないように言った。
「いや、でも気にしないでくだせェ。時間なんてどうにでも潰せるんで」
「でもそんなびしょびしょの体だと風邪ひくぞ」
「ありがとうございやす。でも体は丈夫なんで平気でさァ」
本気で心の底から心配してくれている。思わず感動してしまう。触れるようにそれがわかって、こそばゆくて、つい口元が緩んだ。
体を壁に張り付けるようにずらして奥に進めるよう道を作ると、近藤さんは困ったように眉を下げて、トシ、と隣人に助けを求めるような声を出した。
トシと呼ばれた隣人は見かねたように近藤さんを見やって、やがてはぁと諦めたようなため息を吐いた。近藤さんの人の良さもここまでいったら病気だな、と呟いてガシガシと頭を掻くと黒の双眸で俺を見る。
「仕方ねェなー。それまで俺の部屋に居ていいぞ。廊下で突っ立っているよりかはマシだろ。そう言ってやりたいんだろ、近藤さん」
「…は?」
「さすがトシ!」
「ちょっと!」
アハハハとこれまた大きな声で笑って、呆然とする俺の肩を近藤さんはガシッと掴む。そのまま拉致られた。
4.なんで?
この状況に呆然とするのは、成り行きを見ていた俺でも仕方がないことだと思う。
不運にも鍵を落とししかもそれを取りに行けず、ドアの前で突っ立っていたら隣人というだけの人間に拉致られた。
狭い部屋の真ん中に置いたテーブルを三人で囲んで(しかもその内のひとりはたった数分前にあったばかり)、歳のわりに幼い顔立ちをした亜麻色の隣人は、酒やらツマミを前にちょこんと正座をして先ほどから大きな目で音を立てそうに瞬いている。
飲むか?とたった数分で少し出来上がり気味の近藤さんに進められて、いえ未成年ですからと断っていた。
「学生だろ?何歳?」
「16でさァ」
「高校生かー。一番楽しい時間だなぁ。なあトシ」
「そうだな」
俺はちょうど買い置きしていた炭酸ジュースの缶を隣人の前に置いて、隣人の対面にどかりと腰を下ろすと買ってきたばかりの酒に手を伸ばす。
プルタブを開けて煽ると、高校生が俺の動作をぼけーと見ているのが視界の端に映って気になった。酒に興味を持つ年頃なんだろうか。
「なに?」
「や、何でもありやせん」
「別に飲みたかったら飲んでも構わねーよ。年がどうこうなんて言うつもりねーし、俺だって飲むし」
「え、だって…」
「そうそう。トシもまだ19だもんな!」
「バカ、間違えんなよ。こないだ20になったっつーの」
「おっとそうだったな。悪い悪い」
がはははと大きく笑う近藤さんに俺はため息を吐いた。
俺の部屋で飲もうと急に言って譲らないから連れて来たが、壁が薄いから騒がないようにという約束は酒と一緒に流し込んでどこかにいってしまったようだ。まあその一番迷惑をかけてしまう隣人がここに居るからいいんだけど。
突然連れ込んではみたがどうやら人見知りするタチではないらしい、隣人は質問には答えるし興味があるのか俺たちにも質問を返して、会話が途切れることはなかった。盛り上がるというほどでもなかったがそこは近藤さんがひとりはしゃいでいたからちょうどいい具合だろう。それに隣人の話には素直に驚くことが多かった。
「じゃあ毎日バイトしているのか?」
「へィ。姉の入院費とか生活費とか、どうしても金がいるもんで」
「ううッ!大変なんだな!」
名を沖田総悟という隣人は、聞けば入院中の姉と自分を養う為に日夜働く苦学生だった。近藤さんはそんな沖田の素性に感動して、おいおいと涙を流しては「すごいなあお前」と沖田の両手をがっちり握って固い握手を交わしている。ただでさえ感情的な近藤さんにアルコールが付加されているのだから、感情の起伏が激しいのは仕方ないだろう。そんな近藤さんに若干沖田が引いているようにも見えなくはないが、悪いことではないので俺は止めない。
それに正直俺だって驚いていた。このアパートは壁が薄いから隣の物音もよく聞こえて、相手が今部屋にいるのかどうなのかも分かってしまう。朝行動を始める時間は俺とそう大して変わらないのだが、帰りは日付の変わる頃だったり日付が変わった後だったりするものだからてっきり残業の多い社会人が住んでいると思い込んでいた。それが実際顔を合わせてみれば、年より幼い顔立ちの高校生で、不良みたいに目立つ髪の色をしている容姿とは裏腹にバイトに追われる生活を送っていて姉思いで一生懸命に生きている。まるでドラマや小説のような設定だ。けれどこれが沖田にとっての現実だ。
そんな事情の人間が近くに、しかも一枚壁を隔てた向こう側にいるという事実に俺はただただ驚かされるばかりだった。近藤さんが必要以上に感動しているから声には出さないが、俺も素直に「すごいな」と感心する。
沖田にとってその生活が称賛されるに値するものかはわからないが、少なくともなあなあに生きている俺にしてみれば拍手を送ってもいいぐらいだった。
本腰を入れて勉強をするわけでもなく、なんとなく大学へ言って友達とつるんで騒いでバカやって遊んでいる、そんな自分が心底どうしようもなく小さな人間に見える。荒波の中で生きる沖田は逞しくて眩しかった。
「あの、土方、さん」
「…なんだ?」
つらつらと考え事をしている間に近藤さんは席を外して部屋には俺と沖田のふたりだけになっていた。ふふ〜んとトイレの方向から近藤さんの鼻歌が聞こえてくる。
テーブルを挟んで向かい合って、沖田は少し言い辛そうに俺を呼んだ。片膝を立ててその上に缶を持った腕を乗っけて思いっきりリラックスムードだった俺は、どもった声にふっと顔を上げる。
沖田は俺と目が合うとハッと顔を俯け、ゆっくりとまた俺を見た。…こうして上目遣いで見られると人形みたいに顔が整っている分、同姓でもちょっとドキっとする。なんだか妙に居心地が悪くなって隠すように酒を煽った。沖田はきょろきょろと視線を彷徨わせてからしどろもどろ問うた。
「あの、会ったばかりでこんなこと聞くのもアレなんですけど…」
「ああ」
そこで少し迷った素振りを見せて、沖田は恐る恐る続きを言った。
「土方さんって、」
「うん」
「彼女、居るんですかィ?」
「………え?」
なんでもない。なんでもない会話だ。しかし一瞬でも沖田を可愛いと思ってしまった手前、俺は口をぽかんと開けたまま二の次を繋げなかった。
あいらびゅーと近藤さんのまぬけな鼻唄が俺たちの間を駆け抜ける。
「…。なんで?」
ようやっと絞り出した声は、自分でも情けないほどに動揺していて、それを隠す為に不機嫌な声色になってしまって後悔した。
「あ、いや特に意味はないんで」
俺が怒ったと思った沖田は勘違いをしてひとり慌てていた。失敗したと言いたげに目をきょろきょろと動かせる。言うつもりはなかったんです。顔にそう書いてある。
一転、なんだか妙な空気になってしまった。俺も何故か弁解せず、沖田も両手をぎゅっと膝の上で握って黙っている。なんだか非常に気まずい。
先に行動を起こしたのは沖田だった。「俺そろそろ行きまさァ」と言って居心地が悪くなった空気から撤退しようと素早く立ち上がる。
「おい、」
「お邪魔しやした」
派手な外見とは裏腹に丁寧なお辞儀をして沖田は部屋を出て行った。ガチャンバタン。静かな部屋に無機質な音が響いた。この空気を作り出したのは返事に失敗した俺にも一端がある。部屋にひとり取り残された俺は、なんだか追い出したみたいで可哀相なことをしたかもとため息をひとつ吐いた。
「あれ?沖田は?」
「帰った」
「帰ったってトシ、まだ2時になってないぞ」
置時計を見て近藤さんは玄関と俺を交互に見た。その視線が急に疑わしそうなものになったから先に「俺は何もしてねーよ」と自己の無実を証明する。…いやうそですちょっと人付き合いを失敗しました。
カンカンと階段を降りる音が聞こえたから多分鍵を置いてきてしまったバイト先とやらに行ったのだろう。いつの間にか雨の音も消えていた。
もう居なくなった隣人を思っても仕方ないから飲み直そうと再び机の前に座り直すと、近藤さんはいい子だったなあと嬉しそうに呟いた。まあなと俺も頷いて、柿の種を摘まんで口の中に放り投げる。
「なあ近藤さん」
「なんだ?」
「近藤さんって彼女いる?」
顔を赤くした近藤さんはひどく嫌そうな顔をした。
「…お前に言われると嫌味に聞こえる…」
「なんでだよ」
「トシだって俺がお妙さんに連戦連敗中なの知っているだろッ」
「まあ」
今度は聞き方を間違えた。近藤さんはひとり不貞腐れて自棄酒を始めてしまった。また幸せを逃がしそうになって、代わりに酒を咽に流し込む。
そうだ。野郎に彼女の有無を聞かれてもそれで動揺することはない。近藤さんみたいになんでもないように返せるはずだ。そのはずなのに。
(悪いことをした…)
あの言い方では俺が機嫌を損ねたと思っただろう。ぼんやりと窓の外を眺め、少しばかり反省する。
そして沖田総悟という人間を頭の中で思い描いて、また苦い酒を煽った。